今夜も私は、ウタマロでゴシゴシしながらちょっと泣く《週刊READING LIFE vol.133「泣きたい夜にすべきこと」》
2021/07/05/公開
記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
土曜の夜、強敵を前に私は途方に暮れていた。
「……どうしよう」
息子が小規模保育園からマンモス幼稚園に進級したことで一番変わったのは、私服から制服に変わったことだった。ぐんぐん身長が伸びることを見越した制服は3歳の息子にはまだブカブカで、袖口から指先だけちょこっと出ているのは、成長を感じつつ何とも幼くて可愛らしい。スモックとブラウスは洗い替えに2着ずつ購入したので、息子の帰宅後にそれらを洗濯するのが私の新しい日課になった。
慣らし保育で昼食も食べずに半日で帰ってくるというのに、なんとまあ泥だらけになってくることか。家に着くや否や制服を脱がせて、ズボンの埃をはたき、スモックとブラウスを手洗いして泥汚れを落としてから洗濯機で洗濯する。手洗いと字面では簡単に書けるが、汚れた個所に洗剤をつけて、汚れがなくなるまでひたすらゴシゴシしなければいけない。裾の泥汚れをゴシゴシ、前面の泥汚れもゴシゴシ、袖口のゴムにめり込んだ泥汚れもゴシゴシ、ゴシゴシ、ずっとゴシゴシしていると気が滅入るのでゴシゴシの回数を数える。1ゴシゴシ、2,3,4……100までゴシゴシしたら汚れが落ちるかと励みに数えても、まだ落ちてない。もう100ゴシゴシ……。私の家事タスクはにわかにゴシゴシに占拠されることになり、入園してからというもの毎晩ゴシゴシゴシゴシする羽目になった。
「……全然落ちない……」
私は手洗いは風呂の残り湯で洗う派なので、風呂場で洗面器に湯を取ってゴシゴシしている。汚れが綺麗にならなければ、土曜の夜とて風呂場でゴシゴシタイムだ。ご機嫌なはずの休日の夜に、私の目の前には洗剤まみれの洗面器があり、その中に汚れに汚れたスモックが丸まって浸かっていた。金曜にもとの色が分からなくなるほど泥だらけにして帰ってきたスモックで、もう10,000ゴシゴシはしたんじゃないかというくらい洗いまくったのだが、全然汚れが落ちていなかった。なんならゴシゴシのみならず、漂白もして、煮沸漂白も試みたが、それでも落ちずに残った実に強固な泥汚れだった。更に強力な漂白剤につけて、まる一日置いてみたのだが、何かが変わった様子はなく、私は洗面所で呻き声を上げた。
どうしてこんなに落ちないの。
あと何回ゴシゴシすれば落ちるの。
そもそもこれは落ちる汚れなの。
「…………」
何回問答したか分からない疑問がまた頭をもたげて、絶望感が涙に変わって目頭を熱くする。金曜の夜から洗い続けて、もう土曜の夜。明日もまる一日ゴシゴシしたとして、果たしてそれで落ちるのだろうか。妹が生まれたばかりで不安定な息子が、園生活を頑張り、園庭でいっぱい遊んだ証拠である泥汚れ。微笑ましい勲章ではあるが、こんなに落ちにくいなんて知らなかった。洗い替えがあると言えばあるが、このスモックが綺麗にならなかったら、洗い替えなしの1枚で今後やっていくか、汚れが落ちていない汚いスモックを息子に着せることになるのか。
「…………」
幼稚園の送迎、送った時に周りを見回すと、どの子もシミ一つないピカピカの制服を着ていた。帰り際にはどの子も息子と同じくらい汚れている。うちの洗剤がとりたてて洗浄力が劣っているとも思えない。どのお母さんもみんな私のように何時間もゴシゴシし続けているのだろうか。毎日のようにこの調子でずっとゴシゴシしていたのでは、下の娘の世話も、在宅ワークの仕事も全然できない。みんな仕事をしてないからあんなにピカピカにできるのか? これが専業主婦の手塩にかけた育て方なのか……。
[ねえ、ちょっと聞きたいんだけどいいかな?]
私はゴシゴシを辞めてLINEでメッセージを送った。息子と同じ小規模保育園からマンモス幼稚園に進級した女の子のママだ。家が近所なのでよく遊ぶが、学年としては息子の1つ上になる。その子はいつも身綺麗にしてもらっているから、制服もきっと綺麗にしているだろう。あの子のママも毎日何時間もかけてゴシゴシしているのなら、私も諦めてゴシゴシするしかない。
それとも。
[スモックの泥汚れってどうやって落とすの? 半端なく落ちないねコレ!]
まだ私の知らない必殺技があるのなら、教えて欲しい。
願いを込めてママ友にLINEを送ると、10分ほどして返信が来た。
[泥汚れすごいよね! ウタマロせっけんで一発だよ!]
ウタマロせっけん。
固形石鹸のような見た目で、汚れの部分に擦り付けて洗うと驚くほど綺麗になるらしい。ただ絵の具などの汚れはまた別の洗剤の方が良いそうだ。今のところ息子のスモックは泥汚れなので、このウタマロとやらを手に入れればよいということらしい。ママ友によれば、近所のイトーヨーカドーやマツキヨ、ドン・キホーテでも売っているという。この時間ならまだドン・キホーテが開いている。私は夜道を自転車でひた走りドンキに向かった。洗剤コーナーは漂白効果や華やかな香りの効果を謳う賑やかなパッケージで溢れている。ウタマロ、ウタマロ。普通の固形石鹸みたいなやつ。
「……これかあ」
陳列棚の一番端の一番上、人目に付きにくいところにひっそりとウタマロせっけんがあった。あまりにも目立たず、何度かそこに目をやっていたのに気が付かなかった。エメラルドグリーンの四角い石鹸がビニールにくるまれただけの簡易的なパッケージに、大きく「ウタマロ」の文字。昭和レトロを思わせる佇まいと、今日一日のゴシゴシ地獄を重ね合わせ、私はごくりと生唾を飲み込んだ。
大急ぎで会計・帰宅し、パッケージをむしり取ると、手のひらの上にウタマロせっけんが現れた。触り心地はどこかしっとりとしていて、指を押し込めば跡がつくかもしれない。香りは芳香剤と石鹸を混ぜたような印象だ。私は教わった通り、泥汚れにウタマロせっけんの角を擦り付けてみることにした。まずは一番汚れがひどい裾から。
ぐい。
「……やわらかい?」
綿の布地に、思ったよりもたくさんウタマロのエメラルドグリーンがついた。少し色が付く程度かなと思っていたがそれ以上、トーストにバターをたっぷり塗るような印象だ。少しめり込むような手応えを感じる。普通の石鹸よりもかなり柔らかいのだろう。裾汚れのめぼしいところにぐいぐいとウタマロを擦り付けると、軽く水をかけ、もう何度目かしれないゴシゴシをしてみた。
ゴシゴシ。ゴシゴシゴシ。
きめ細やかで真っ白な泡がもこもこと溢れ出てくる。
ゴシゴシ。ゴシ。ゴシゴシ。
「……」
泡に少し茶色が混じっただろうか。
ゴシゴシ。ゴシゴシ。ゴシゴシゴシゴシゴシゴシ。
「…………」
もう30回はゴシゴシしただろうか。おそるおそる湯船から手桶で湯を掬い、ゴシゴシしていたところにかけてみた。こぼれた湯が洗面器に溜まるので、その中にスモックを付けて軽く押し洗いをする。改めてスモックを引き上げて、ゴシゴシしまくった裾を見る。
「……………………きれい!!!」
裾は新品と同じようにピッカピカになっていた! どれだけこすっても薄くなった気配すら見せなかった泥汚れが、初めから存在しなかったかのように跡形もなく消え去っている! 私はうひゃあと奇声を上げ、濡れたままのスモックをもって夫と息子に報告をした。見て、汚れがやっと落ちたの! 昨日から何やっても落ちなかったのに! こすっても漂白剤でも煮沸でもダメだったのに、ウタマロだと落ちたんだよ! 一人テンションが高い私を夫も息子も何とも言えない目線で見たが、私は夢中で風呂場へと戻った。さあ、この頑固な汚れを一網打尽にしてやる! ハイパーゴシゴシタイムの始まりだ!
ゴシゴシ、ゴシゴシ!
同じゴシゴシでも、汚れが落ちると分かっているゴシゴシはとても楽しかった。気分はスーパーマリオの無敵スターを手に入れたような心地だろうか。スモックを隅から隅までチェックして、あらゆる汚れを落としまくった。嬉しい、ゴシゴシ、楽しい、ゴシゴシ。世の中のママたちはこういう知恵を受け継いでいっているのね。バカの一つ覚えみたいに落ちない洗剤でゴシゴシするような無駄な時間を過ごしたりはしないんだ。ウタマロを作ったこの企業はすごいなあ。世の中の洗濯をする人はみんなすごいなあ。息子が大きくなって、なにかスポーツを嗜むようになったら、そのユニフォームもこうやってウタマロで洗うんだろう。息子が頑張るなら、ママもどんな汚れにも立ち向かっていくよ、ウタマロと共に……。
かくしてスモックはどこからどう見てもピッカピカになった。あとは洗ってふんわりと乾燥させれば清潔なスモックの再誕だ。洗濯機に他の洗濯物と一緒に入れてスイッチを押し、金曜からのゴシゴシの戦いを思い起こすと涙が出てきた。これは自分をねぎらってやらねばなるまい。私はデカフェのコーヒーを自分に淹れ、つかの間の休息を味わうことにした。
「…………」
それにしても、ウタマロせっけんはどんな仕組みであんなに頑固な汚れを落としているのだろう。コーヒー片手に検索してみると、公式サイトにその解説が載っていた。落ちやすい成分を使っているのはもちろんだが、石鹸の粒子がとても細かいため、汚れを絡め取る力が強いのだそうだ。また、洗濯機の普及とともに一時期売上が落ち、2000年ごろは廃番を考えるほどだったとのこと。しかし主に主婦から「なくさないでほしい」という電話や手紙が多く寄せられ、生産継続を決心し、現在まで連綿と受け継がれてきたらしい。ありがとう、当時の主婦、ありがとう、当時のウタマロの会社の人。おかげで今日私は息子のスモックを綺麗にすることが出来た。
それからというもの、私は息子の洗濯物をウタマロで洗いまくった。1週間履いた上履き、どろどろの靴下と体操着、どうしてそこが汚れるんだと聞きたくなる帽子。どれもこれもウタマロがピカピカにしてくれるので、汚れたのを見るとワクワクするほどだった。制服の洗濯以外にも何か使えないかと家の中を見回すと、くすんだ服があちこちから出てきた。スニーカー用のカバーソックス、着古したTシャツ、夏場の泥遊びで息子が良く着ていたハーフパンツ。どれもずいぶん年季が入った汚れだが、ウタマロでゴシゴシすると、見違えるように綺麗になった。何度も洗って、何度も乾燥機を使っていたから、もう落ちないと思っていたが、しっかりと落ちた。このTシャツ、こんなに鮮やかな色だったんだな。この靴下も捨てようと思ってたけど、まだまだ履けるな……。
洗濯、楽しい。
綺麗にするの、楽しいな。
ウタマロで洗ってみても落ちなかったものに、息子が0歳の頃のミルク汚れがあった。ミルク汚れは時間が経つと黄色く黄ばんでしまう。お気に入りのベビー服を妹にも着せてみたかったが、黄ばんでいるので気が引けて、かといって捨てるのも躊躇われるようなものが何枚もあった。ウタマロで落ちなくても、何か方法があるのではないか。ネットで調べると、今度は酸素系漂白剤というものの存在を知った。私の家にあるのは塩素系の漂白剤で、白色以外の衣服に使う時は色落ちに気を付けなければいけない。なのでベビー服には試しておらず、結果として黄色いミルク汚れをそのままにしてしまっていた。だが酸素系漂白剤なら、タンパク質由来などの汚れを分解しつつ、衣服のもともとの色にはあまり影響を与えないらしい。早速酸素系漂白剤も買ってきてつけ置きし、夜の残り湯で濯いでみると、見たこともないような真っ白いベビー服が目の前に現れた。
「……すごい!」
革命だ。これは吉田家の洗濯の歴史の革命なのだ。
黄ばんでいたところが白く戻り、色の部分も鮮やかさを取り戻したベビー服。娘が着るととても可愛らしく、在りし日の息子のことも思い出されて涙ぐまずにいられない。これは素晴らしい、ウタマロと同じくらい素晴らしい。私はクローゼットをどんどん漁り、何となくくすんだような気がしていたシフォンのワンピース、汗ジミが出来てしまったけどお気に入りで処分しかねていたセーター、何度洗っても変色したままに見える抱き枕カバーなど、あらゆるものを洗って洗って洗いまくった。どれもピッカピカになって、仕上がりを見るたびに惚れ惚れしてしまう。服を買った直後のウキウキした気持ちを取り戻したような、あるいはそれ以上のときめきを得ることが出来て、私はすっかり洗濯が楽しくなった。
洗濯をしていると、子供の頃はなんの疑問も持たずに着ていた清潔な服が、母の努力によって保たれていたことを思い知らされる。母はウタマロも酸素系漂白剤も知らなかったからなおのこと大変だっただろう。私の幼稚園のスモックも、汚れたままだった記憶はないから、母はそれはそれは苦労して洗ってくれていたことだろう。今では口うるさい母をやかましく思ってつい反抗してしまうことも多いが、母の愛とはこういうところにきらきらと隠れているものなのだ。
自分で自分の服を綺麗にしている時も、その時の思い出の残滓を濯いでいくような感覚になる。この服であの人と食事に行った時、あんなことを言われて悲しかった。けれど時が過ぎれば、お互い若かったとも言えるし、耳に痛い指摘をいただいて有難かったとも思える。無意識に封印していた記憶と体験を、ウタマロが、酸素系漂白剤がどんどん綺麗にしていく。そうするとこの服を着て泣いていた当時の私が、少しだけ笑ってくれるような気がするのだ。大丈夫、貴方が着る服は綺麗だから、私が綺麗にするからね。
息子と娘、夫、そして私自身のために。
今夜も私は、ウタマロでゴシゴシしながらちょっと泣くのだ。
□ライターズプロフィール
吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。天狼院書店にて小説「株式会社ドッペルゲンガー」、取材小説「明日この時間に、湘南カフェで」を連載。
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