この本に共感できるという、ランニングする人の特権。《週刊READING LIFE vol.137「これを読めば、スポーツが好きになる!」》
2021/08/02/公開
記事:清田智代(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
世の中には「●●攻略本」みたいなハウツー本が無数にある。スポーツに関する本もきっとたくさんあると思うけれど、スポーツが「好きなる」本があるかは、正直私もわからない。だって、何かを好きになるには、きっと心を揺さぶる衝撃的な瞬間、何かしらの理由があるだろうから。でも、もし「走ること」と「書くこと」の両方に興味があるとすれば、ぜひおすすめしたい本が1冊ある。
ランニングをしている方ならお分かりいただけると思うのだが、走るという行為は、確かに時に心地よくもあるけれど、大抵の間は辛さとの戦いとなる。走って間もなくするうちに心臓がバクバクしてくるし、そのうち足だって思うように上がらなくなる。自分から好んで走り出したくせに、「私はいったいなぜ走っているのだろう」と思うことさえある。そして「走って痩せたい」とか、「もっと長い距離を走れるようになりたい」とか、走ることにいろんな期待をかけてしまうと、走るのがなおさらしんどくなる。
そのうえ、少なくとも私の場合、走るときはいつもひとりだ。だからランニングの時間とは、自分と、自分の中にある孤独と向き合う時間ともなる。
本屋でその本に出合ったのは2017年の9月頃にさかのぼるが、この時期は私自身が走ることに心地よさと苦しみの両方を心身に感じていた時とちょうどぴったり重なる。
“Pain is inevitable. Suffering is optional.”
『痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)』。
この言葉を目にしたとき、私の背筋に衝撃が走った。タイトルの「走る」という言葉がひっかかり、手に取って紐解いたページには、私もうっすらと心に抱いていた感覚が、見事に言語化されていたのだ。
私が今まで「辛い」と思っていたあの感覚は、果たして本当に「痛み」だったのだろうか、それとも勝手に思い込んでいた「苦しみ」だったのだろうか。もし、あれが「苦しみ」だとしたら、心の持ち方次第で逃れることができるのではないか?
ランニングという行為を軸にした一種の「メモワール」――
作者はこの本のことを、こうたとえた。
さて誰の「メモワール」かといえば、走る小説家でおなじみの、村上春樹によるものだ。
その名も、『走ることについて語るときに僕の語ること』。
村上春樹は冒頭でこんなことを語っている。
『他人に対しては何とでも適当に説明できるだろう。しかし自分自身の心をごまかすことはできない。そういう意味では小説を書くことは、フル・マラソンを走るのに似ている。』
私たちはみな、人間だ。だから走っているときはきっと、同じ感覚を味わっていることだろう。でも、それを言語にできるかどうかはまた別の問題だ。そして私も今、フルマラソン完走を目指して走っているし、小説でないにしろ、「書く」という表現の仕方を磨きたいと思っているからこそ、彼が語ることがいっそうよく分かる。さらに、村上春樹という、多くの人の心を動かす小説を何本も書いている人でさえ、ランニングとフルマラソンは似ているという感覚を持っているのだとすれば――私のランニングと、ライティングという、自分自身との戦いに終着点などはなさそうだ、ということを痛感した。
読めばあなたもランニングが好きになるであろうこの本のことを語る前に、私が走るようになったいきさつを少し紹介したい。
私が走ることを始めたのは、日本のマラソンブームもとっくに終わった後、まだほんの数年前の話である。
ある夏の日の夜から毎日のように肢体にじんましんができ、かゆくて眠れなくなってしまった。病院に行っても原因が分からないし、薬を変えても症状は治まらない。それなのに薬は副作用だけはしっかり出るもので、気分は沈むのに食欲は旺盛で、最悪な日が数か月続いた。夜はかゆくて眠らないから、慢性的な睡眠不足。
そんな状態を何とかしようと思ってはじめてみたのが、ランニングだった。
なぜこのタイミングで、ヨガとかストレッチとか他のスポーツではなく「ランニング」を始めたかをよく聞かれるのだけど、正直私もその理由はわからない。村上春樹の口調を真似すれば、きっとランニングも、そしてランニングのきっかけとなったじんましんが発症したことも、人生の重要なことを学ぶための、自然な流れだったのかもしれない。
いずれにしても、ランニングはもちろんはじめから順調に走れたわけではない。まるでカメのように、少しずつ走る時間と距離を伸ばしていったのだけど、幸運にもランニングは私の性格や体調の相性と非常によかった。家の周りを少し走るだけでも鬱っぽさが晴れたし、カロリーも消費された。そして体の中でじんましんよりも疲れが勝るためか、走る日はよく眠れた。
走ることを日常に取り入れてみたら、じんましんが発症する日はしだいに減り、気づいたときには完治していた。そのうちに走ることが楽しくなり、より速く、より長く走れることが喜びとなった。ランニングウォッチを購入し、走って得られる効果を数値で可視化することで達成感を得られるようになったことも、自己肯定感を高めるのに有意義なことだった。やがては10km走へ、ハーフマラソンへ、そしてフルマラソンへと目標の射程が伸びていった。やればできる。きっかけはどうあれ、フルマラソンを完走できたことは、私の中の数少ない成功体験となった。
以上が私のランニングをはじめたいきさつである。私の話は些細なことかもしれないが、村上春樹もこの本の中で、彼が走り始めたきっかけについて語っている。そして彼が小説を書くことになったきっかけについても触れている。
うまく言葉にできないけれど、彼が感じていることは、私が走ったり、書いたりしているときに感じることと重なって、妙に共感してしまう。スポーツに関しては、「技術」を学べる本はあれど、体を動かすことについて「共感」できる本って、そんなにないのではないだろうか。また、書くことについても同じだ。
この本は、村上春樹が「走ることについて正直に書」き、村上春樹という人間について正直に書かれた本だ。30代で走りはじめたこと、それからフルマラソン、そしてウルトラマラソンという100kmもの距離を完走するまでの軌跡、それから四半世紀を経て、体は老いてもなおトライアスロンという未知の世界に挑戦する理由が、彼なりの言葉で表現されている。これを読んでいると、まるでフルマラソンをやっと完走できた程度の私でも、いつかまだ見ぬ世界を見ることができるような、夢のような錯覚に陥るから不思議だ。
たかがランニング、されどランニング。
はじめは辛く感じることもあるかもしれないけれど、走ることをやめない限り、きっと走っていてよかったと思える瞬間に出合うことができるだろう。
そしてあなたの人生にもエピソードが増え、やがてひとつのストーリーが生まれることだろう。
それは誰にもまねできない、かけがえのないストーリーだ。
走ることをやめなければ見えてくるであろう世界を、この本は作者の体験談をもって教えてくれている。
□ライターズプロフィール
清田智代(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
書くと走るを繰り返すしがない市民ランナー。
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