青空の理由《週刊READING LIFE vol.138「このネタだったら誰にも負けない!」》
2021/08/09/公開
記事:深谷百合子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「負の遺産」という言葉がある。例えば、広島の原爆ドームやポーランドにあるアウシュビッツ強制収容所などは「負の世界遺産」とよばれている。過去に犯した過ちを繰り返さないよう、教訓として残されたものであり、観光スポットのひとつでもある。
今年のはじめ、私は「環境」の視点から中部地方のものづくり現場を取材する企画を思いついた。その取材対象のひとつとして、「四日市コンビナートの工場夜景」を考えていた。「公害という負の遺産を観光資源として生かした成功事例」として紹介しようと思ったのだ。かつて深刻な公害被害を発生させ、今でも「四日市」と聞くと公害をイメージする人が多い。その一方で、工場夜景の聖地として、夜のコンビナートを海から眺めるクルーズツアーは大人気だ。かつて公害の苦しみを与えたコンビナートを観光資源とすることに複雑な思いを抱く人もいたのではないか? その中で、どのようにしてクルーズツアーは始まり、10年以上続いているのはどうしてだろう? そんな風に思ったからだ。
でも、取材を重ねていく内に、私の中にひとつの違和感が芽生えてきた。「負の遺産」という自分の考えに対する違和感だ。確かに四日市公害は多くの人に大きな苦しみを与えたことは事実だ。その意味では「負」なのだけれど、今の日本の空気がきれいで、抜けるような青空なのは、「四日市があったから」とも言える。「四日市が道を作ってくれた」と言ってもいいんじゃないかと思ったのだ。
25年前、工場の環境対策の仕事をするようになって初めて、私は大気汚染のことや関連する法律を勉強した。何しろ初めて見聞きする言葉ばかりだった。例えば、「キョウチクトウは車の排ガスや大気汚染に強い」とか「アサガオの葉は大気汚染の影響を受けると変色する」など、「へー、そうなんだ。面白い!」と思う内容もあったけれど、ほとんどの内容は覚えるだけで精一杯。健康に害を及ぼす物質の名前とか、それらの環境基準はいくつだとか、なかなか頭に入ってこない。おまけに法律となると、超絶複雑だ。国の規制があって、さらに地域毎に、より厳しい規制があったりする。「で、結局うちの工場はどの数字を守ったらいいの?」と頭を悩ませた。
とにかく覚えて、自分の工場に当てはまるのはどの部分かを知るだけで、それ以上のことは深く知ろうとは思わなかった。四日市のこともそうだ。「何が原因で、どんな被害が出た」という、学校で習った内容以上のことは知らなかったし、知ろうとはしなかった。「うちの工場はもう対策をとっているし、自分とは関係無い」と心のどこかで思っていたからだ。
でも、今回当時のことを改めて調べてみて、自分が知らずにいたことがあまりにも多いことに気がついた。
近鉄四日市駅近くに、「四日市公害と環境未来館」という施設がある。2015年に開館した施設で、公害の歴史とその後の改善の歩みが映像や写真、音声等で展示、紹介されている。その中に、そこでしか聞くことのできない「関係者の証言」を集めたコーナーがある。
行政、市民、企業、それぞれの立場からの証言が集められているのだが、私はそこで初めてあの「超絶複雑」と思った法律が整備されてきた経緯を知った。
コンビナートが稼働して間もなく、市役所には市民から苦情が来るようになった。最初は、臭いやすす、そして騒音に対する苦情だったという。市民から苦情が入ると、市役所の公害対策課の職員が二人一組で出かけ、企業側、市民双方の話を聞き、企業へ改善を指示することを繰り返していたそうだ。苦情は深夜、土日もくるから、すぐに連絡をとることができるよう、宿直室には公害対策課職員の名札がかけてあったという。
私たちは普段、「行政はやってくれて当たり前」と思いがちだが、当時の三重県や四日市市の対応を知ると、大勢の苦しむ人を目の前にしながら、国との間にはさまって苦悩された様子がよく分かる。待ったなしの状況にあって、四日市市や三重県は「全国で初めて」の取組みを進めていく。ぜんそくの原因となる汚染物質を常時測定する装置の設置、公害認定患者の医療費全額負担、そして汚染物質の総量規制だ。
通常、大気を汚染する物質は濃度で規制する。でも濃度を規制するだけでは不十分なのだ。大切なのは汚染物質の量を減らすことだ。食生活における塩分にたとえてみると分かりやすい。もしも「健康のために1日の塩分濃度は1%以下にしましょう」という濃度基準だったら、塩分濃度1%の味噌汁を20杯飲んだとしても問題無いことになる。でも、それでは明らかに塩分の摂りすぎになってしまう。それと同じことで、健康に害を及ぼす汚染物質は排出量を規制していく、それが総量規制である。
今では地方の状況に応じて、国の定めた基準よりもさらに厳しい基準を定めることは普通のことなのだが、当時(昭和46年)は地方が国をリードすることに対しては論議があったそうだ。
「総量規制は、明らかに国の法律を上回る規制をするわけですから、国の方は腹をくくればその条例は無効だとすることもできた。けれども、国もあの時点ではもうここまできたらやらざるを得ないと。三重県が先にやったら、その後をついていったらいい。そういう風に考えたと当時の局長は言っていました」と証言映像で当時の状況が語られている。
総量規制をきっかけに、企業側では汚染物質を除去する装置の設置が進んだ。そして規制開始3年後には、汚染物質の排出量は3分の1程度にまで減少したのだ。規制にしろ、公害認定患者の医療費負担にしても、四日市が先行して取組み、後から国の制度が追いついてきた。
証言映像の中には、こんな言葉がある。四日市ぜんそくの原因が工場から排出される汚染物質であることを公害裁判で証言した元三重県立大学医学部教授の吉田克己さんの言葉だ。
「四日市以外にも日本には大気汚染の公害は沢山ありました。けれども、一番早く解決まで持ち込むことができたのは四日市だったと思います。。それが四日市の名前が残っている理由じゃないかと思います。他の都市での大気汚染が解決したのは、全部四日市の後です。四日市は最初にこういうやり方があるというルートをつけたということではないかと思います」
四日市公害は、石油という燃料を燃やし、それによって出た物質がぜんそくの原因となった。日本で起きた他の公害問題と決定的に違うのは、どこか特定の企業が汚染物質を出したということではなく、複数の企業から汚染物質が出ていたということだ。そして、燃料を燃やすことによって引き起こされたということは、四日市だけでなく、世界中どこにでも起こりうることだったのだ。もっと言えば、燃料を燃やすという行為は、工場だけがやっているわけではない。私たちも普段、日常生活でやっている。自動車を利用する時、ガソリンや軽油という燃料を燃やしている。現に、今の日本では自動車による大気汚染はなかなか改善していない。決して他人事ではない。
中国に居た頃、よく中国人から「日本の空気はきれいだ」と言われた。日本に出張に来た中国人が、青空を嬉しそうに写真に収める姿を見て、私はどこか誇らしい気持ちも感じていた。逆に日本では、「中国の大気汚染はひどい」、「青空が見えるのは特別な時だけ」等と揶揄するような声をよく聞いた。でも、そんな風に日本の青空を誇っていられるのは「四日市」があったからだと私は思う。
日本の空が青いのは、決して当たり前のことではないのだ。
□ライターズプロフィール
深谷百合子(READING LIFE編集部公認ライター)
愛知県出身。
国内及び海外電機メーカーで20年以上、技術者として勤務した後、2020年からフリーランスとして、活動中。会社を辞めたあと、自分は何をしたいのか? そんな自分探しの中、2019年8月開講のライティング・ゼミ日曜コースに参加。2019年12月からライターズ倶楽部参加。
書くことを通じて、自分の思い描く未来へ一歩を踏み出す人の背中を押せる存在になることを目指している。
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