虫の命は短いけれど、自分の命はどうだろうか?《週刊READING LIFE vol.140「夏の終わり」》
2021/08/23/公開
記事:中川文香(READING LIFE公認ライター)
私が小学生の頃、うちの玄関には夏の間いつも鈴虫がいた。
父が毎年、知人から譲り受けてくるらしかった。
玄関に置かれた30㎝ほどの大きさの飼育ケースの中には柔らかそうな茶色い土が敷き詰められ、その上に落ち葉や枯れ枝が置かれ、地面から生えた爪楊枝にはナスやキュウリが刺されている。
はじめの内は「真っ黒でなんだか気持ち悪いな」と思いながら遠巻きに見ていたけれど、観察を続けている内にかわいく思えるようになっていった。
飼育ケースの様子を見ようと近づくと、サッと葉陰に隠れる。
でも、こちらが動かずにじっとして眺めていると恐る恐る様子を伺いながら出てくる。
黒くて小さい鈴虫の赤ちゃんは、エサであるナスやキュウリに上って、その小さな顎で一生懸命食事をしていた。
そのうちに段々と大きくなり、最後の脱皮を済ませると、白くてまだふわふわと柔らかそうな羽根を持った成虫へと変化を遂げる。
不思議なことに時間が経つとその羽根は黒く変化し、まるでアイロンでもかけたかのようにピンとまっすぐに伸びるのだ。
そして、夜になると黒く透きとおったその立派な羽根をこすり合わせ、一心不乱に綺麗な音を鳴らす。
家族で夕食をとった後、テレビを見ながらくつろいでいると “リーンリーン” と遠くから輪唱のように何匹もの鈴虫の羽音が聞こえた。
そっと近づいても、足音にびっくりするのか一斉に音が止んでしまうのだが、しばらくじっとして待っているとまたその鈴のような美しい音を聴かせてくれる。
みんな立派な成虫になってしまうと、大合唱で毎晩うるさいくらいだった。
外で鈴虫の音を聴くことは本当に少なくなったけれど、まれに草むらからその音がしたとき、私の記憶はいつもあの時の玄関先までぐんと飛んでいく。
朝起きると、飼育ケースの中に死んでしまった鈴虫の死骸が残っていることがあった。
他の鈴虫たちを驚かさないように、そっと割りばしでつまんで、飼育ケースから出す。
あの頃は知らなかったけれど、鈴虫のオスは交尾を済ませると死んでしまうそうだ。
「夜、あんなに元気に羽根を合わせて綺麗な音を出していたのに、なんで数時間後には死んでしまうのだろう?」と不思議に思っていたけれど、毎朝のように死んでしまっていたのは、大仕事を終えて静かに眠りについたオス達だったのかもしれない。
鈴虫はタンパク質が不足すると共食いをしてしまうそうで、それを避けるために煮干しや鰹節の粉末なんかをナスやキュウリと一緒に入れていた。
そんな風に対処をしても、交尾が終わった後にメスがオスを食べてしまうこともあるそうだ。
産卵に備えて栄養をつけないといけないメスは、次の命をつないでいくために、同じ種族であるオスでさえも食べてしまうのだ。
これも小学生の頃だけれど、登校途中でセミが脱皮しようとしているところに出くわしたこともある。
いつもの通学路をいつものように歩いていると、見慣れたブロック塀に白い物体が見えた。
何だろう? と思って近づいてみると、今まさに、セミが羽化しようとしているところだった。
羽化したばかりの鈴虫と同じように、殻から少しだけ顔を出したセミもまた真っ白く、触れたら柔らかそうな見た目をしていた。
一生懸命体をよじって殻から出ようともがいている姿をしばし観察したけれど、中々脱皮が進まず、「これでは遅刻してしまう」と、やむなくその場を離れた。
学校帰りに気になって朝と同じブロック塀を見てみると、そこにはセミ本体はおらず、もぬけの殻になったセミの抜け殻がくっついていた。
きっとあのセミは無事に殻を抜け出して、大空に飛び立っていったのだろう。
「遅刻してでもちゃんと最後まで見ておけば良かったな」というちょっとした後悔もあったけれど、その後悔は20数年後に解消されることになった。
時が経って30歳になった私は、夜、実家の庭をトコトコと歩く動く茶色の物体を見つけた。
セミの幼虫だった。
「放って置いたら間違えて踏んでしまうかも」と思い、手近な木につかまらせると、しばらくうろうろとした後じっと動かなくなった。
もしかしたら脱皮するところが見られるかも。
急いで家に入り、長袖に着替えて蚊への対策をしてから木の生えている場所まで戻ると、先ほどと変わらない様子でじっとして、セミの幼虫が枝に止まっていた。
5分、10分……じーっと眺めていてもなかなか脱皮は始まらない。
「触ってしまったから弱ったのだろうか?」と不安に思っていると突然もぞもぞと動き出し、やがて背中の部分に小さなひびが入った。
体をよじるようにして左右に動き、だんだんと背中のひび割れを大きくして顔を出そうとする。
少し動いては休み、少し動いては休みを繰り返し、割れ目からようやく頭が出てきた頃には私もじっとりと汗をかいていた。
そこからもゆっくりと、でも着実に、殻から懸命にはい出ようとする。
少しずつ、その柔らかな白色の体を茶色の殻から引きはがすように動いている。
もぞもぞ、もぞもぞ。
頭が出て、羽根の付け根の部分が見え、背中が見えてきた。
私の背中にはつーっと汗が流れた。
まだふにゃふにゃで、くしゃくしゃと折りたたまれたようになっている羽根は、湿っぽい感じだった。
羽根が全て出て、またゆっくりと身体を左右に振って、更に殻の外に出ようとする。
枝につかまっているセミの背中の部分が割れて、背中から這い出ているので、いわばエビ反りのような状態でどんどん外に出てくる。
すでに殻から抜け出した足は空中に浮いて、何にもつかまっていない。
半分ほど残っているお腹の部分で器用にバランスを取って、少しずつ殻から抜け出ようとしていた。
「もう落ちる」というギリギリのところで、セミはくるっと腹筋をするように枝の方に身体を起こし、殻がつまかえている部分よりも上の方の枝にしがみついた。
誰に教わったわけでもないのに、夏の間にたくさんのセミがこうやって同じように殻から抜け出しているのだ。
それから枝につかまったセミはじっと羽根が乾いて伸びるのを待っていた。
つかまっている枝を蟻が歩いて行っても、スマホカメラのライトを浴びせても、ただひたすらにじっとしていた。
くしゃくしゃだった羽根はしだいに伸びていき、色こそ普段見かけるようなセミと違ってまだ薄い白色をしているものの、見た目はほとんど昼間に枝につかまってジージーと鳴くセミそのものになっていった。
二時間ほど見ていただろうか。
羽織った長袖シャツはじっとりと汗ばんでいたけれど、神秘的な光景を見てスッキリとした気持ちになった。
セミは成虫になるまでの長い間を土の中で過ごし、羽化して空を自由に飛び回れるようになっても、たったひと夏でその短い生涯を終えてしまう。
夏の終わりに道端に転がったセミの死骸を見た時も、飼育ケースの鈴虫を見た時も「ああ、夏が終わるんだな」という確かな寂しさがあった。
セミも鈴虫も、人間の私からしてみれば、その短い命をただ次の新しい命へとつなぐためだけに生きているように見えた。
ただ生きて、ただ次の世代へつなぐことだけを考えて、短い夏の間に命を精一杯燃やし尽くしている。
アメリカには幼虫の姿のまま17年間を地中で過ごし、17年おきに大量発生する「ブルードX」という名の周期ゼミがいるそうだ。
17年を地中で過ごし、短い夏の間だけ地上に姿を見せ、次の子孫を残して死んでいくのだ。
ただ、生きるためだけに生きている。
とてもシンプルな生き方のような気がする。
人間は、その本能よりも理性を発展させていったおかげで繁栄もしていったのかもしれない。
けれど、本能を置き去りにしていったせいで生きることそのものに対する、生命力のようなものも薄くなっていってしまっているのではないか。
お腹がすいたけど、仕事が忙しいから今はやめておこう。
睡眠不足だけれど、やりたいことがあるから今は寝ないでおこう。
そうやって私も過ごしてきたけれど、本能の声を無視して生きてきた結果、生きることそのものに対する力のようなものが年々薄くなっていってしまったような気がする。
夏の間だけの命をぎらぎらと輝かせて生きているように見える虫たちと比べて、私はなんてひ弱な生き物なのだろうと思う。
虫よりも長く生きるとしても、その濃さはどうだろうか?
□ライターズプロフィール
中川 文香(READING LIFE公認ライター)
鹿児島県生まれ。
進学で宮崎県、就職で福岡県に住み、システムエンジニアとして働く間に九州各県を出張してまわる。
2017年Uターン。2020年再度福岡へ。
あたたかい土地柄と各地の方言にほっとする九州好き。
Uターン後、地元コミュニティFM局でのパーソナリティー、地域情報発信の記事執筆などの活動を経て、まちづくりに興味を持つようになる。
NLP(神経言語プログラミング)勉強中。
NLPマスタープラクティショナー、LABプロファイルプラクティショナー。
興味のある分野は まちづくり・心理学。
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