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週刊READING LIFE vol.144

路地裏の時計職人こそ、人間国宝だ《週刊READING LIFE Vol.144 一度はこの人に会ってほしい!》


2021/10/25/公開
記事:笠原 康夫(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
人に教えたいけど、実は内緒にしておきたいお店はありませんか?
昨年、そんな店に出会った。店と言っても腕のいい板前さんがいる寿司屋とか、おしゃれな隠れ家的なフレンチのお店ではない。店とは時計店である。
 
初めてその店を訪れた後の帰り道、私の頭の中はスガシカオの「Progress」のメロディーが流れていた。NHK番組の「プロフェッショナル」のオープニング曲だ。仕事に情熱を注ぐ仕事人を取材するドキュメンタリー番組だ。
あの日出会った、あの時計店の店主こそ、真の職人だと思った。まさに「プロフェッショナル」に出てくるような仕事人だった。
 
その時計店は、東京のど真ん中にある。虎ノ門の細い路地に面した雑居ビルにひっそり構えている。どうしてそんな目立たない場所に? と思うかもしれない。だが、この時計店は口コミや昔ながらの根強いファンに恵まれているようだ。だから敢えてこの場所でも十分やっていけるのだろう。
 
2020年12月、年の暮れにさしかかった寒空の中、電車を乗り継いでその時計店に向かった。

 

 

 

30代前半の頃、周囲の友人からこんな心理テストをされたことがある。
「あなたにとって腕時計とはどんな存在ですか?」
私は「無くてはならないもの、パートナーのような存在」、「いいものを長く大切に使いたい」と答えた。
周囲は「ステータスだ」とか「無くても困らない」など、答えは様々だった。
この心理テストはその人の異性に対する価値観を表すものだった。
私の回答は、「無くてはならない」「いいものを長く大事に」という、女性ウケしそうな理想的な回答ができたと我ながら内心満足していた。
 
その頃、会社で初めての昇進を迎えた。自分へのご褒美として、ボーナスをはたいて、腕時計を購入することにした。せっかくだから、少し背伸びしてでも、いいもので長く使える腕時計を選ぶことにした。ということで長年欲しいと思い続けていたオメガのスピードマスターを購入した。当時流行っていたクロノグラフというストップウォッチ機能を搭載したモデルだ。実用でストップウォッチを使うことは無く、ただのお飾りだが、見た目のカッコ良さだけで選んだ。
20~30代の頃の私は、物欲旺盛で見栄っ張り、身に着けるスーツや洋服にお金を費やしていた。常に頭の中は次のボーナスでは何を買おうかと悩んでいるミーハーな男子だった。

 

 

 

あれから20年近くが経った。
オメガは、延々と動き続けてくれた。おかげで不便は一度もなかった。ただ、不便がなかったがために、ほとんど手入れすることもなく、次第に愛着も薄れていた。
機械式の精密時計を永く使うための定石は、定期的にオーバーホールをすること。ただ、数多くの細かい部品を分解修理するわけだから数万円の費用がかかる。
その費用をかけることを惜しんで一度もオーバーホールしたことがなかった。
ズルズルと時間だけが経過し、気づいたら20年が経過していた。
 
また、デジタル時代になって久しいが、スポーツウォッチやスマートウォッチも併せて使い始めている。ふと気づくと時刻を把握するだけなら有名ブランドの機械式時計じゃなくてもコトは足りるな、という意識の変化もあった。
さらにここ数年、年齢を重ねるにつれて物欲も次第に薄れていた。
 
そして、コロナ禍になった。身の回りの整理をする時間が増えた。
断捨離ブームにも乗っかり、不要なモノの整理を始めた。
始めは明らかに不要なガラクタを処分していたが、そのうち処分するものもなくなり、とうとう腕時計が処分の候補になった。
巷では、腕時計の買取専門店も増えている。手元のオメガも換金すればいいお金になるかも? と淡い期待を持った。
 
そんなことを考え始めた矢先に、とうとうこの日がきてしまった。
20年余り、延々と動き続けていたオメガが突如として動かなくなった。針が微動だにしない。リューズが巻けない状態だった。
いままで何気なく毎日身に着けていたが、いざ長くつかっていたモノが動かなくなった途端、急に虚ろで淋しい気持ちになる。時が止まったようにさえ感じた。
 
慌てて、近所の時計店や修理専門店を探した。探してはみるが、普段から修理店とつきあいがないため、店の腕前や修理の値ごろ感も見当つかない。
数日間、悩んでいるうちに、妻の友人から優れた時計修理店があるとの話を聞いたことを思い出した。早速、そのお店に出向くことにした。
 
その店は虎ノ門に構えている。
当日は、新橋駅から虎ノ門方面へ歩いて向かった。
スマホの地図を頼りに路地を進む。虎ノ門と言うとガラス張りのビルをイメージするかもしれないが、そんなビル群に埋もれた昔ながらの雑居ビルも多く残っている。この時計店も古びた昔ながらの雑居ビルの3階にあった。
いかにも昭和チックなビルだなぁと思いつつ、3階を目指した。昭和の古いエレベータはゆっくりゆっくり昇り、ようやく3階に到着。
そして、時計店の玄関にたどり着いた。着いたところで面食らった。
そこは店の構えではなく、鉄製の重たい扉。まるで客を拒んでいるかのようだった。かろうじて時計店の名前を記したプレートがペタッと貼ってある。
「ムムッ。まさかここか?」
即、ドアノックする勇気がなく、数十秒の間、扉の前で躊躇した。
そして、おそるおそる重たい扉をノックした。
「ドン、ドン」
すると、中から「どうぞ~!」と意外にも威勢のいい声が響いた。
 
「ごめんください~」拍子抜けしながらも、昭和なビルの雰囲気につられるように昭和的なあいさつをしながら扉を潜った。
店内は、15坪程度の狭い空間。ショーケースには腕時計が並んでいる。「よかった、ちゃんとお店になっている」と安堵した。
「こんにちは、本日はいかがされましたか~」威勢の良いハリのある声色で店主が椅子からスッと立ち上がり、カウンター越しに声をかけてくれた。カウンターの奥は時計の修理台になっている。店主は修理の最中だった様子で、眼に当てていたルーペをおでこにずり上げながら笑顔で迎え入れてくれた。
 
お店というより修理店なんだな。とりあえず、あまり商売っ気はないことは店の雰囲気で感じ取れた。
時計職人というと、少し薄汚れたルーズな身なりをイメージするが、この店主は違った。アイロンの利いたブルーのボタンダウンのシャツにスラックス。その上から黒のエプロン姿。小ぎれいな紳士的な印象だ。しっかりお客と向き合う姿勢なのだろう。
 
早速、カウンターに向かい、オメガの腕時計を差し出した。
「急にリューズが巻けなくなってしまいました」
すると店主は軽快に、「このモデルは故障が多いんですよ。クロノグラフが禍してよく故障するんです。たくさんの人がお持ちになります」と言った。
さらに続けて、クロノグラフの構造の説明を交えながら、故障の原因について説明してくれた。
そして、時計を耳元で振ってみたり、いろいろ試した。
「リューズの摩耗の可能性もありそうですね」
その後、クラッチ車に始まりリューズの奥のパッキンの話に至るまであらゆる部品の名称を挙げながら、故障の原因について細やかに説明してくれた。
 
この店主、しゃべり好きだな。最初の2、3分でそう気づいた。
この後の会話も95%は店主がしゃべり続けた。ただ、なぜか一切、嫌味がない。童心、無邪気に自分の知識と経験を披露してくれているといった印象で聞いていて楽しい。
 
また、機械音痴の私でにも理解できるよう、便箋に図を描きながら時計の構造についてレクチャーしてくれた。
さらにいまさらながら、リューズの正しい巻き方まで懇切丁寧に教えてくれた。
確かにいままで時計の取り扱い方法の説明を受けたことはなかった。
もっと早く店主に会っていればよかったと思った。
 
ただ、こちらが話すわずか5%で私の要望を的確にくみ取り、無理のないよう提案、誘導してくれる。
 
「もしかして自転車にお乗りになりますか?」
「はい。毎日、通勤で駅まで乗りますが……」
自転車のハンドルから受ける衝撃がオメガの故障の要因になっていることを突き止めてくれた。
また、雨の日に自転車に乗るとリューズから水が入る原因になるなど、目からうろこの連続だった。
こうして私の生活スタイルや腕時計とのかかわり方を自然に聞き出しながら、原因を分析し、的確な指摘をしてくれた。
時計の扱い方、向き合い方を聞かれているうちに不思議と自分自身を丸裸にして見せているような感じがしていた。
 
話を聞いているうちに時計の構造の緻密さを再認識した。そして20年にわたり持ち続けてきた時の重さを感じ始めていた。
 
こんなやり取りが続き、気づくと1時間が経過していた。
その間、修理費用に関する説明に及ばなかった。だが、私の心の中ではこの店主は信頼に足る人物だと確信していた。
十数年もオーバーホール代こそ惜しんでいたが、この1時間の店主とのやり取りでこの店主にすべて託そうと意思は固まっていた。
完全に財布の紐は緩んでいた。緩むどころか開放状態だった。
「お任せします!」
その場で修理を依頼した。
 
実際の見積りは、市中の修理店の半額程度の料金に収まっていた。
やはり商売っ気がなかった。
 
1ヶ月後、オメガが修理を終えて手元に戻った。
ガラス面からバンドに至るまでピカピカに磨かれた状態で戻ってきた。
まるで息を吹き返したかのようだった。
そして、ご丁寧にも便箋に手書きされた取扱い説明書まで付けてくれた。
まさに至極の特別感だった。
 
店を出て、新橋駅に向かう路地を歩きながら、余韻に浸った。
新しい息吹を吹き込まれた腕時計。それは持ち主の私にも吹き込まれた。
私の中にこの腕時計を大切に使いたいという気持ちが復活していた。
腕時計への愛着が戻っていた。
つい1ヶ月前、売りさばこうとしていたことが恥ずかしくなった。

 

 

 

この時計店は虎ノ門で代々、時計店を営んでいる。
店主は、国内で2,000人程度と言われる一級時計修理技能士の国家資格の保有者している。また、メーカーや技能訓練所で技術指導員としての顔も持っている。
 
その縁からか、メーカーが自社で修理しきれない仕事の依頼まで受けているようだ。メーカー顔負けの修理職人なのだ。
時には同業の時計修理店がお手上げになった修理の依頼もあるらしい。最終修理工場のような存在なのだ。
ただ、店主はこうした業者経由の依頼を快く思っていないようだ。業者を介するごとにお客への請求額が高くなるからだ。店主は徹底したお客様ファーストの精神の持ち主だ。
 
店主は、いろんなエピソードを話してくれた。
80歳を超えた老婦人が店主の元を訪れた。50年以上前に新婚旅行で訪れた海外の高級デパートで購入した記念のロレックスを店主の元に持ち込んだ。
50年前のロレックスは、ロレックス正規店でも部品が無いとの理由で修理を断られたらしい。どこに行ってもたらい回しになり、最後の最後に店主の元に持ち込まれたのだ。
老婦人は他界した夫との思い出の腕時計はどうしても使い続けたいと切に願っていた。
さすがの店主も部品がないことには修理は出来ない。だが、老婦人の時計に込める思いを知った店主は、こう提案した。
「ゼンマイを動かす部品はないから残念ですが、ゼンマイ式では復活できない。だけど中身を電池式に変えてみることができますよ。外観は今のロレックスのままで」
こうして、そのロレックスは電池式の時計に生まれ変わり、老婦人は再び、時が動き出した。夫との思い出は永く受け継がれることになった。
 
店主は持ち主の気持ちに寄り添い、時には改造をしてまでもお客の要望を叶える。

 

 

 

おしゃべりの店主は、お客としゃべる時間以上に人知れず独り籠り、修理に莫大な時間を費やしてきているのだろう。
 
仕事に情熱を持つ。好きこそものの上手なれともいうが、この店主くらい極めると人の気持ちを動かすことができる。国宝級の職人だ。
 
NHK番組のプロフェッショナルのエンディング風に語るなら、こうだろうか。
「その男は時計の再生屋ともいわれる。時計に息吹を与え、時計を生まれ変わらせる。時計と向き合って数十年。時計だけでなく、時計の持ち主である市井の人々とともに歩んできた。細胞レベルで時計を知り尽くし、精魂込めて時計と向き合う。時計職人の人間国宝ともいうべき存在だ」
 
店主のことをたくさんの人に教えたいが、おしゃべり好きの店主はお客が来店するたびにおしゃべりに花が咲き、肝心の修理の仕事の手が止まってしまうだろう。だから店主の存在は、しばらくそっと私の心の中にしまっておこうと思う。
 
今回、店主には腕時計だけでなく、持ち主の私自身もチューニングしてもらった。私の合理的な価値観は、まるで逆方向にネジを巻くように一変した。私にとってやはり腕時計は無くてはならない存在であることを再認識したのだ。
 
そして仕事に対する向き合い方にも刺激をもらった。
歳月、人を待たず。50歳になった今、若い頃、自分が思い描いた仕事人生を歩んでこられたか、疑問は多々ある。この店主には遠く及ばないが、とりあえず、明日から目の前のやれることから取り組んでみようと思う。
 
いつも左手首の上で私と共に過ごしてくれるパートナーを眺めながら、あと一歩だけ、前に進もう! と自らを鼓舞している。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
笠原 康夫(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

岐阜県生まれ。東京都在住。
ちょっとした好奇心で21年4月開講のライティング・ゼミに参加。これがきっかけで、気づいたら当倶楽部に迷い込んでしまった50歳サラリーマンです。
まずは、凡人の目線で、等身大の自分を愚直に書き綴っていきたいと思います。

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2021-10-20 | Posted in 週刊READING LIFE vol.144

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