週刊READING LIFE vol.145

ハネムーン in 1997《週刊READING LIFE Vol.145 きっと、また会える》


2021/11/01/公開
記事:月之まゆみ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
最初は地震だと思った。地鳴りのような振動がガタガタと部屋の窓をふるわせたからだ。
 
夫とともにとび起きた。見るとベッドサイドの時計は朝の6時前だった。
暗い部屋の中、勝手がいつもと違う。記憶が徐々によみがえる。
そう、昨夜、深夜にモロッコの古都フェズに到着ばかりだ。
 
眠ってからまだ数時間しかたっていない。
 
夫が言った。「これは地震じゃないよ。揺れ方がちがう」
そして厚いカーテンをひき窓を開けた。
ホテルのすぐそばにモスクがあり、天井の拡声器から、イスラム教徒のアザーンの声が流れていた。その声が建物を伝って地鳴りのような振動を起こしていたのだ。
 
晴れ渡るアフリカの本物の空。
 
神に祈る男のアザーンの声。それは音楽とも違い、不思議な諧調とうねりをもって地上にしみわたった後、一匹の龍となって天に昇っていくようだった。
 
モロッコで受けた初めてのカルチャーショックに二人とも言葉をなくす。
ただ日本ともヨーロッパやアジアとも違う世界の中心に今、自分たちがいるのだと実感できた。私たちは異国にいた。
 
モロッコに来る前、日本でたった一冊しか手に入らなかったガイドブックをたよりにやってきた。
イタリアのベネチアで挙式をあげ、当時、ヨーロッパで人気だったハネムーン先がモロッコだったというそんな単純な理由と、エキゾチックな響きで選んだがけだった。

 

 

 

フェズのメディナは世界一の迷路の街である。運悪くラマダン(イスラム教徒の断食)明けの祝日に私たちは到着した。
旧市街メディナの店のほとんどは閉まっていると言われたが、ここまで来て何も見ないのは悔やまれる。
二時間だけ公認ガイドを雇って迷宮の街を案内してもらう。
坂道にびっしりと立ち並ぶ店や通りに人気はない。
ただ店の奥に人の気配があり、ラマダン明けの食卓を飾る羊がそれぞれの家庭でつぶされているのか、どこからともなく血の匂いが漂っていた。
1200年つづく人のいない皮なめしの工場は、窯にしみついた染料と動物の革の匂いで異様な臭いを放っていたがその見学も終えると何もすることがなくなった。
 
一ヵ月の断食期間であるラマダンは国中の観光機能をマヒさせていた。
前日、ローマから到着したカサブランカの空港で、最初、フェズ行きの国内線に乗り換えようとしたところ、メイデーで飛行機は運航していないと空港係員から知らされた。
 
残された選択肢は列車でのフェズへの異動だったが、北アフリカには特急などない。
恐ろしく長い距離の一駅ずつ停車しながら、9時間かけてカサブランカからフェズまで移動した。
飛行機なら1時間で昼までには到着している距離を、列車で移動して深夜やっとフェズに到着し、ホテルのベッドに倒れこんだ。
 
列車もバスもあてにならないのでホテルに相談して、移動はドライバーを雇うことにした。
ホテルが紹介するドライバーだったので料金はやや高かったが、人物は保証すると聞いて
数時間後に現れたのがミスター・ビルだった。
 
翌朝、定刻に現れたミスター・ビルの車に乗って出発した。
アトラス山脈を越えるのだ。
ビルはほとんど英語が話せなかった。また余計なおしゃべりもしない礼儀正しい男だった。予想を裏切って表アトラスは観光開発が進み、スイスのシャレ―のような避暑地である高級別荘地の街をいくつか通り抜けた。
山脈を超えてサハラ砂漠に入ると岩の砂漠がつづき、一転してベルベル人の住む、テントが点在する荒涼とした本当のモロッコの原風景が広がった。
荒々しく厳しい自然、情け容赦ない太陽光と肌を突き刺すような紫外線。
 
時間がたつにつれ、ミステリアスだったミスター・ビルが私たちの旅の水先案内人となり、過酷な自然の中を目的地まで安全に運んでくれる頼もしい存在であることに気づいた。
車から降りると寄ってくる物売りから私たちを遠ざけ、買い物の交渉も手を貸してくれた。
 
一度、ある村でラマダン明けに、男たちが円形になって広場で踊っていた。
痩せた一人の男が天を仰ぎ、トランス状態ですさまじいエネルギーを発して踊っていた。あらかじめ了承を得て、遠くからカメラを構え夫がシャッターを押した瞬間、踊り手の男は、輪から飛び出して夫にとびかかってきた。
何が起こったかわからなかった。一瞬の出来事だった。写真を撮られるのが気にいらなかったのだろう。
踊り手を取り押さえる村人と私たちを守るビルで、その場は騒然となった。
彼がいなければとどうなっていたことだろう。
文化の違いに対する、私たち夫婦の理解はあまりに浅かった。

 

 

 

私たち3人は地図に線を引いたように北から南へ、東から西へとまっすぐに移動を続けた。
砂漠の日中の気温が50度以上にあがる。外にでると熱風が吹き、遠くをみるといくつも蜃気楼が見えた。外があまりに熱いので時折、何もしていないのに疲労感で猛烈な睡魔におそわれる。
車のなかで眠り込んでハッと目を覚ますとミスター・ビルがバックミラーにつけたお守りを左手でさわりながら、祈る姿を幾度となく見た。
祈りの時間に彼が車を止めることはなかった。
徹してドライバーの責務をはたしてくれた。どこまでもつづくむき出しの砂漠が広がる車窓の向こうにオアシスの蜃気楼をみながら祈る男の姿が守護神のような尊い存在に思えた。後部席から見ると不思議な安心感を抱きながら、流れて行く荒れた大地をただ観ていた。
 
蜃気楼を見慣れてきた頃、突然、本物のオアシスの街が現れる。
青々とした緑は消えず、どんどん存在感をもって街が近づいてくる。泉から湧き上がる地下水。そこは緑に覆われた楽園だった。鳥や動物、あらゆる生き物がオアシスで命をつないでいた。その恩恵は平等に分け与えられるのがわかる。
 
それを繰り返し見ていると、次第に謙虚な気持ちがわいて、人間が何の力ももっていないことに気づかせてくれた。
 
そして二人とも数日で体重がおちた。
日焼け止めなど何の役にもたたない紫外線の強さは、たった半日で私の左の顔に2㎝のシミをつくった。
カスバやトドら渓谷もまわり、最大の目的地である砂丘のサハラ砂漠のゲートウェイとなる街、エルフードに着いた。
 
サハラ砂漠で旭日を観るのが二人の夢だった。
 
しかしエルフードに到着するころには、二人とも軽い熱中症がつづき体調を崩していた。
ミスター・ビルが、旭日を観るためのガイドを手配してくれた。もはや世話人のように親身に動いてくれるが、一方で彼は一度も私たちと食事を採ることはなかった。
 
何度誘っても食事の同席を断る。彼が食べるものは制限があったし、3人の共通言語がなかったこともあるが、もっと私たちが知りえない別の理由があったことは間違えない。
けれどそんなことなどどうでもよいほど、いつのまにか3人のなかには信頼の絆が生まれていた。
 
翌朝、3時に起きて、ホテルに迎えにきた専任ドライバーとランドクルーザーにのって砂漠に向かう。
ドライバー兼ガイドが注意事項を乗り合わせた乗客に伝える。フランス人とドイツ人と私たちで総勢、7人だった。
暗闇のなか何の指標もないのに車はサハラ砂漠の中心に入っていく。
闇が濃くなりあたりはまるで死の入り口のようだった。
 
途中で車をおりて私たちは迷わないよう、手を取り合って一列になって歩く。
足元の砂は崩れ落ちてうまく歩けない。
星も月もない夜だった。
どうやら砂丘の砂の壁をのぼっているらしい。何度もバランスをくずして倒れそうになった。右も左もわからず立ち往生していると、シュラバを来た裸足の男がどこからともなく現れた手をかしてくれた。その男に導かれて私と夫はそれぞれ砂丘の頂上にたどりついた。
 
あとは日の出を待つだけだが、そこは死の世界だった。
歩いている時は夢中で気づかなかったがじっと静止していると恐ろしく寒い。皆で固まって互いの体温で身体を温めあう。
 
しかし寒さにまして恐怖を覚えたのは流砂だった。
吹く風とともに眼に見えないミクロの粒子が、耳や鼻、そして目から入ってきて身体の粘膜に付着していく。
払っても、払ってもあっというまに体中が砂で浸食されてしまう。
眼を閉じて、耳と鼻、口をタオルでおおっても生きた砂の力にはかなわない。耳から入った砂はザーッ、ザーッと頭のなかで幻聴を生み、舌のうえもざらざらした砂の味でいっぱいになり気が狂いそうになる。
 
闇、寒さ、砂におかされる恐怖。
 
夫の手を握りながら、つらい。もうダメだ。そう思った数分後だった。
小さな音がした。かすかに地平線の暗闇の向こうの色が変わった。
紫のグラデーションが生まれた。まず空の色が変わった。
空が動き出した。
一本の細い閃光が遠くから放たれる。
 
誰しもがアッと声なき声をはっした。
眼を射るような強い光が射しこんで、やがて光の帯になり、大きな熱をともなって大地をなめるように覆った。
 
砂漠の絶対神である太陽が現れたのだ。
 
オレンジ色に燃える太陽が爆発するような熱をともなって顔をだした。
目の前の世界がみるみる変わる。
まず砂にあたると波紋に影をつくり様々な文様の砂漠ができあがり、死の世界から生の世界へ変容していく。
あっというまのことだった。
メラメラと神は燃え上がりながら世界中で見たこともない大きさとなって空に昇り始める。
放出する熱量はあっというまに地表が温めて、それまで仮死していた万物に命を与えた。
 
地中からはサソリやあらゆる虫が顔をだした。身を丸くして寝ていたラクダが目覚める。
生きとし生けるものすべてがざわざわと動きはじめ息づいた。
 
太陽は万物に平等に熱を与えた。圧倒的な別天のエネルギー体を目の前にして誰もが畏敬の念を抱いて泣いていた。
古代から人間のなかに刻まれた太陽によって活かされたDNAが目覚め、生まれたての世界、生まれたての日に感謝していた。
太陽が天の中央に昇りきるまでたった数分で世界の全て変わった。
 
生きることは熱量なのだと知った。
 
熱がなくなると有機物はすべて死んでしまうのだと知った。
 
天地を創造した太陽は、いつものように空に君臨して今度は灼熱に変わった。
思考も細胞も、毎日が死んでは再生されているのだと知った。

 

 

 

旅の目的も果たして、ミスター・ビルとの別れも近づいていた。
 
私たちは体力を回復するために、バスタブのついた清潔なホテルで休息しなければならなかった。
 
長距離バスの発着所がありフランスのチェーンホテルがある何の特徴もない街で私たちは別れた。
別れのあいさつの時、彼は初めて家族のことを答えた。
砂漠の旅で彼のベンツのフロントガラスにはとんできた小さな石のひび割れができていた。それを指さして大丈夫かと聞くと、気にしないでいいと言った。
私は自分の頬にできたシミを指さして、フロントガラスと同じだと笑った。誰もが無傷でいられないハードな旅だった。
 
たった一つの生かされる理由にたどり着くための旅だった。
 
ビルの車を降りて彼と握手する。
彼の車が走り去ってしまってから、彼と一枚も写真をとっていないことに気づいて愕然とした。
彼と一緒にいた証拠がいっさいのこらないままいなくなったビルは、私たちのなかで伝説の男になった。

 

 

 

ビルと別れて夫は体調を回復させるのにホテルの部屋で休んだ。
 
私はプールで泳いだり日本からもってきた本を読んだりして過ごした。
あまりにすることがないので、ポストカードを数枚買った。
部屋だと物音で夫を起こすので、部屋の外のプールへつながる階段に座って、葉書を書き始めるところだった。
 
ふと視線をあげると、さっきまで人で賑わっていたプールから人気がなくなっていた。
1日が終わろうとしている。
夕暮れまでのぽっかり空いた時間。
小さなプール。ヤシの木。誰もいなくなったビーチベッド。飲み残しのグラス。
すべてがどこにでもある平凡な日常。
死ぬほど退屈な空気があたりに充満していた。
 
気を取り直して葉書を書こうとしたが、手帳をめくるとどの宛先も、今までと違って見えた。
「この度、結婚しました。挙式をベネチアであげて、ハネムーンでモロッコに来ています」その先の文章がいっこうに思いつかない。
本当に一人になった途端、結婚した実感が突然わいてきた。
差出人の苗字も変わる。
これからは二人称で語る現実に気づき、私は大きな違和感を受けた。
 
ハネムーンももう終盤だった。結婚に伴う人生の大きなイベントが終わろうとしている。しかもモロッコの田舎町で……。
イベントをハラハラしながら乗り越えているうちはよいが、それも過ぎ去ってしまうと
この町のように変化のない平和な日本での暮らしが待っている。
目の前には、延々と続く単調な人生。
 
急に大きな戸惑いに襲われて、階段で一人、私は手帳を握りしめて泣いていた。
その時、結婚して確実に失うものもあるのだと知った。
 
そしてひとしきり泣いた後、そろそろ部屋に戻ろうとたちあがった。
これから一緒に人生を歩む伴侶の体調を気遣い、食事を採らせなければならない。
 
辛いことも楽しいことも分かち合う。数日前にベネチアの市庁舎でそう誓ったばかりだ。
少なくとも私の人生は平凡ではあるけれど孤独ではない。
待つ人のいる部屋に戻るのは愛で満たされることだ。
私はそうやって部屋に戻った。
 
二人だけで旅したモロッコの経験は、その後の私の人生を予見したものだった。
日常の結婚生活は予期せぬハプニングの連続で、時に夫と口論し、知恵を出し合い、乗り越えてきた。そしてどちらかが弱ると元気は方が手を差し伸べてきた。
 
そして私の40代はまさにサハラ砂漠で旭日を迎える前の暗闇にも似て、じりじりと襲うジレンマと承認要求の砂嵐に耐え抜いた先に、ようやく自分を再生できた。
 
もしモロッコに行っていなければ?
もしミスター・ビルに会ってなかったら?
私たちはここまで強くなれただろうか。
 
だが振り返ると、人生の折々にミスター・ビルのような導き手が必ず現れた幸運な人生だった。
25年も経ち、彼の顔ももう覚えていないが、砂漠のなかで彼の祈る後ろ姿だけは、いまも時折、思い出す。
また会いたいと願いながら、実は姿を変えたミスター・ビルに何度も出会っては別れているのではないかと最近は思い始めている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
月之まゆみ(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)

大阪府生まれ。公共事業のプログラマーから人材サービス業界へ転職。外資系派遣会社にて業務委託の新規立ち上げ・構築・マネージメントを十数社担当し、現在、大阪本社の派遣会社にて新規事業の事業戦略に携わる。
2021年 2月ライティング・ゼミに参加。6月からライターズ倶楽部にて書き、伝える楽しさを学ぶ。
ライフワークの趣味として世界旅行など。1980年代~現在まで、69カ国訪問歴あり。
旅を通じてえた学びや心をゆさぶる感動を伝えたい。

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2021-10-27 | Posted in 週刊READING LIFE vol.145

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