週刊READING LIFE vol.145

前向きに生きるための魔法の言葉《週刊READING LIFE Vol.145 きっと、また会える》

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2021/11/01/公開
記事:和来美往(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
冬の朝、午前5時の出来事だった。
外は、まだ真っ暗だ。
私の携帯が鳴りだした。
私は、いつも、携帯を目覚まし代わりにしている。
かなりの時間鳴っても、携帯が鳴らすことを諦めるまで、ほっておくことは日常茶飯事だ。
携帯が鳴りだしたとき、毛布にくるまって就寝していた私は、もう朝か、と思いながら、より毛布の奥へと潜りこんだ。まだまだ寝ていたかったのだ。
 
となりで寝ていた夫が、鳴り響く音にたまらず起き出して、私の携帯を手にする。
これもいつも光景である。
しかし、その後がいつもと違っていた。
 
「はい、はい、そうですか」
 
夫が誰かと話をしているようであった。
目覚ましではない。
こんな朝早くに電話がかかってきたのだ。
 
私は電話が嫌いである。
なぜなら、良い知らせが、電話からやってくるという印象がない。
祖母の体調が悪い、飼っている猫がいなくなった、入院する・・・・・・。
この時も嫌な予感がした。
案の定、夫が私に言った。
「実家から電話だよ」
 
その頃は、祖母が入院していた時期だった。
きっと何かあったに違いと思った。

 

 

 

私は、いま、仕事の関係で東京に住んでいる。
実家は三重県にある。
三重県というのは、縦に長い。
伊勢神宮が有名であるが、それはちょうど県の真ん中らへんにある。
私の実家は、もっと南側、都会からかなり遠く離れた、田舎町にある。
今住んでいる東京の家から帰省するには1日がかり、おそらく8時間くらいはかかる。
何かあったとしても、すぐには帰れない。
 
そんなことを考えながら、夫から携帯を受け取った。
 
「もしもし」
電話の相手は、実家のとなりに住む兄だった。
「父ちゃんが、死んだ」
「え? 父ちゃん? ばあちゃんじゃなくて?」
 
祖母は入院中だったから、急変することもありうると思った。
しかし、なぜ父なのか?
元気だったはずではないか。
ちょうど昨日は、結婚50年目の金婚式で、兄たちと外食したと聞いていた。
 
兄の説明によれば、風呂場で倒れていたらしい。
とても寒い日だった。
ヒートショックという現象で、心臓麻痺だったという。
そのとき、母は入院中の祖母のところにいた。
変わり果てた父の姿を見つけたのは翌朝だった。
だから、すでに、息絶えていたのだという。
私のところに電話があったのは、父が亡くなったことを知ってから1時間くらい後のことだったようだ。でも、昨日の夜には、すでに亡くなっていたということになる。
 
電話が、兄から母に変わった。
「あんたは東京だから、帰ってこなくていいから」
完全に混乱していると思った。
父が亡くなったのに、娘の私が帰らなくてよいはずはない。
 
電話を切ると、私は準備もそこそこに、東京駅に向かった。
急いでいるようで、何となく、急いでいないようだった。
慌てて帰っても、父はもう、この世にいない。
慌てて帰る必要がないように思えたからだ。
ただ、淡々と、身体だけは実家に向かって動いていた。

 

 

 

父は長年、教員をしていた。
とても無口な人で、小さい頃、それが怖いと感じていた。
私が成人するくらまでは、会話らしい会話もなったように思う。
決して私が反抗していたわけではなく、仲が悪かったわけではない。
それが、私たち親子の関係性だったのだ。
友人宅に遊びにいくと、フレンドリーな父親が一緒に遊んでくれて驚いたことがあった。
そんな父親像は私にはなかった。
 
私が成人すると、お酒が飲めるようになり、酒好きの父と晩酌する機会が増えた。
そして、少しずつ、会話が増えていった。
私は祖母をよく温泉に連れていっていたのだが、父が定年となったのをきっかけに、両親も温泉旅行に加わった。知らないうちに、温泉旅行は父の楽しみとなった。
お酒好きの父と、知らない土地の居酒屋に行ったりした。
 
私が結婚をし、仕事の関係で東京に住むようになった。
会う機会が少なくなったが、一度だけ、父と母が東京に来たことがある。
父が大好きなジャイアンツの試合、東京ドームのチケットが取れたので、招待したのだ。まもなく結婚50周年だったし、お祝いのつもりだった。
知り合いからもらったチケットは、バックネット裏の最前列だった。
テレビで毎日見ていたジャイアンツの選手たちが、守備が終わるたびに、自分のもとに帰ってくるように錯覚するような席だった。
お酒好きの父は、お酒を飲むことも忘れ、ゲームを観戦した。
宿泊は、東京ドームが一望できる東京ドームホテルにした。
部屋の窓からの光景は、毎日テレビで映し出されるものと一緒だった。
その時の笑顔が最高に嬉しそうだった。
これまで、何もできなかったけど、これからも楽しい機会を増やしたいと思った。
 
これが、父が亡くなる3カ月前のことだった。
 
父が亡くなったとの連絡を兄からもらったとき、電話を切った私が最初に思ったこと、それは、「あのとき、東京ドームに招待できて、本当によかった」ということだった。
三重県の田舎から東京まで出てくるのは大変だろうと思い、誘うのはどうかと躊躇もしたが、あんなに父が喜んで姿は見たことがなかった。
私のなかでは、一番の親孝行だと思った。
後から聞いた話では、東京から帰宅後は、観戦がとても楽しかったという話を周囲の人にしていたらしい。
あのとき行動しておいてよかった、という想いが満ち溢れていた。

 

 

 

実家に到着したのは、夕方だった。
近所の人、親戚の人が、実家の周りに集まっていた。
田舎ならでは風景なのかもしれない。
私が到着すると、ざわざわとしていた周囲の人たちが、水を打ったように静まり返った。
何だか、とても気を使われているようで、悲しさを強要されているようで、イゴゴチが悪かった。
そして「早く早く」と急かされた。
今更急いでも仕方ないのに・・・・・・。
何だか冷めた目でイゴゴチの悪さを味わっていた。
 
家の中に入ると、母は呆然としていた。
兄は喪主となり、いろんなことを取りまとめるのにバタバタしていた。
父は、とても冷たかった。冷たくなっていた。
悲しかった。
 
それでも、一番気になったのは母のことだった。
自分が祖母の面倒を見ているときに、父が亡くなった。
自分さえ家にいれば、という想いが大きかったように思えた。
だから、私には悲しんでいる暇がなかった。
母を支えなくてはいけない。
母と一緒のように悲しんでいてはいけないと自分に言い聞かせた。
兄も母を支えたいはずだ。
でも、兄は葬儀を取り仕切るという大役がある。
兄も悲しんでいる状況にないように思えた。
そんななか、兄が言った。
「かあちゃん、頼む」
母がやらねばならぬことを、私が代わりにすることにした。
祖母が入院していたので、その面倒を見ること、喪服を着て病院に行ったので、心配した看護師さんから、「こっちは私たちがいるので大丈夫よ」と暖かい言葉をもらった。
お悔みに来る人の対応などもしていただろうか。
そのときの記憶があまりない。
 
亡くなった次の日だったか、その次の日だったか、父は火葬場に運ばれた。
木の箱の中に入った父と最後の別れとなった。
母は今にも泣き崩れそうだった。
私は、ずっと母と手をつなぎ、木の箱の前に立った。
母と一緒に父の顔を覗き込んだ。
私は、父に最後の言葉をかけた。
 
「またね!」
 
何だか、また会えるような気がした。
これが、最後の別れではない気がした。
だから、また会える日を楽しみにしている、という意味の言葉が私の口から、ふいに出たのだろう。
 
それを聞いていた母が父に向かって言った。
 
「またね!」
 
母も、父と、またどこかで会えると思ったのか。
私は母に「きっと、また会えるよ」というと、母は「うん」と頷いた。
涙はとめどなく流れていた。
それでも、少しだけ、悲しさの海の底から少し浮上していたかのようにみえた。
少しだけ、母の表情が変わったのだった。
 
死後の世界を信じるか?
そんな話ではない。
父は、昔から、そんなオカルト的な話は信じなかった。
「死んだら、真っ黒、何もない」と言っていた。
そんな父が、温泉旅行中だったか、私に言ったことがある。
「四国88か所をお遍路で周ったときの白装束が金庫にある。死んだときはそれを棺桶に入れてくれ」
お遍路といっても歩いて周ったわけではない。
車で連れってもらったのだと思う。
それも、信心深くない父のことだから、旅行気分で行ったのだろう。
そのときに、88か所のお寺の御朱印を白装束にもらっていた。
その白装束を、自分が死んだときに、持たせてくれと、酔った勢いで私に言ったのだ。
 
父がそんなことを言うのは意外に思えた。
死後の世界について話す叔父のことを、完全否定していた父が、四国88か所や自分の死後のことを言うとは、想像がつかなった。
そして、こんなことを頼むのは私しかないと言っていた。
私は、家族のなかでは、一番信心深いと思われているからかもしれない。
ただ、仏壇に毎日お参りするくらいのことなのだが、そんな私なら、それを託せると思ったのかもしれない。
兄から父死亡の一報をもらい、実家に向かう新幹線の中で、そのことを思い出した。
騒音のなかの新幹線から、兄に電話をして、父の遺言を伝えた。
やはり兄は「父ちゃんがそんなこと言ったのか?」と意外に思ったようだった。
私が実家に到着したとき、白装束が父の胸元に置いてあった。
その白装束を着て旅立とうとしているからなのか、父とまた会える気がしたのだ。

 

 

 

父が亡くなって、何カ月か経っても、母は父の所有物を捨てられずにいた。
実際のところ、母が捨てられないというより、兄が捨てることを拒んでいたように思えた。兄は、喪主という大役で精一杯で、悲しむ余裕すらなかっただろう。
未だに父が居ない悲しみから抜け出せないでいるように思えた。
 
私は定期的に実家に帰り、要らないものを処分しはじめた。
父の持ち物を全て残しておく必要はない。少しずつで良いので整理しようと言った。
箪笥もたくさん要らない。
それより、母の趣味である茶道が家で出来るようにすれば、母が母の人生を楽しむことができると思ったのだ。母は茶道教室を開催していたこともあり、そんな空間づくりを、きっと父もそれを望んでいると思った。
父が亡くなっていた寒い浴室もリフォームすることにした。
母までヒートショックで心臓麻痺なんてことになっては、後悔してもしきれない。
暖房機能のついた温かい浴室に変えたのだった。
父がいるときに変えていたら、とも思うが、今できることをするしかないのだ。
 
今、母は趣味の茶道を楽しんでいる。
実家の一室で、仲間とともに、茶道の研究をする。
そして、公民館で、お茶の世界をボランティアで教えている。
 
亡くなった人と、また再会できるのか、本当にところはわからない。
自分が死んだとき、昔、父が言っていたように、何もない真っ暗な世界となり、その先は何もないのかもしれない。
しかし、それは、それで良いのだ。
ただ、そんな世界があると信じることで、悲しみが少し癒される。
そして、また会ったときに報告できる自分でありたいと思える。
今も生きていたら、どんなにいいだろうと考えても、それは叶わぬ夢であるし、命が尽きるのは、生きる者の宿命でもあるのだ。
生きている限り、別れは付き物である。
本当のところ、また会えるかどうかなんてわからない。
 
「きっと、また会える」
 
また、会える世界があると思うことで救われることがある。
これで終わりじゃないと思うことで救われることがあるのだ。
 
「きっと、また会える」
 
だから、会えるまで、そこに行くまでは、この世で生きている人が、存分に楽しんで生きればいい。
悲しんでいたって、楽しんでいたって、きっと会えるんだから、楽しんで生きたほうがいいに決まっている。
 
前向きに生きるための、魔法の言葉なのだ。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
和来美往(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

三重県生まれ、東京在住
2020年の天狼院書店ライティングゼミに参加。書く面白さを感じはじめている

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2021-11-01 | Posted in 週刊READING LIFE vol.145

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