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週刊READING LIFE vol.146

天の網は、マジでいろんなもの漏らさないでくれます?《週刊READING LIFE Vol.146 歴史に学ぶ仕事術》


2021/11/08/公開
記事:河瀬佳代子(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
もしも「過去の経験のうち、呆然とした瞬間を答えなさい」と問われたら、真っ先に思い出されることがある。それは数限りない会話を交わして、日々を過ごした学生時代のなかでも、一際忘れられないことだった。
 
時々「それ、気がつかなければよかったのに」ということに気がついてしまうことがある。
性格的なものなのかもしれないけど、誰も気がつかないことに目が止まることが多かった。その時も、たぶんそうだった。

 

 

 

英文学科の3年のときの話だ。
英文学科は大所帯で、クラスが4つもあった。附属高校から上がってきたので知り合いはたくさんいたし、違うクラスにも友達はいたけど、クラスやゼミや演習が一緒でなかったなら互いに名前も知らずに4年間過ぎていく人も多い。大学とはそんな場所だけど、それでも時々不思議な接点が生まれてくる。
 
大教室での授業が終わったあと、思い思いにくつろいでいる学科の子たちが横を通り過ぎるとき、偶然それは視界に入ってきた。
 
(あれ? あのプリント……?)
 
通路を歩いて行った子が脇に抱えていたファイルから見えていたプリントは、確かに私の筆跡だった。あの書き方は、私が書いたノートだ。プリントということはコピーしたものだ。
プリントを持っていた子と私とは、なんにも接点がない。顔は何回か見たことはあるけど、口を利いたことすらなかった。
 
(なんで、あの子が持っているの?)
 
その子が私のノートの何のコピーを持っていたか、一部分を見ただけですぐにわかった。あんなに書き込んだやつは1つしかない。次の試験範囲になっている、英詩の訳だ。今でも忘れもしない、John Keatsの、”Ode on a Grecian Urn”(邦題:『ギリシャの壺に寄せるオード』)を和訳したノートだ。
 
結構長くて、古語もあって、難しい詩で、私は授業を必死に聞いてノートを取った。図書館の訳本も読んだけど意訳が多くてこなれていない文なので、訳本と自分のノートとを照らし合わせて自分流の訳にしたものだ。本当に時間がかかっていた。数日間かかっていたと思う。
 
それなのに、それなのに、私がそんな想いをして作り上げたノートなのに、なんで一面識もない子が持ってるんじゃい! 静かにモヤモヤが沸き上がってきたところへ、友人が声をかけてきた。
「ねえ、あなたの、キーツの詩を訳したノート、あれ学科中の子がほぼ持ってるみたいよ。どうしたの?」
「なにそれ? 学科中って?」
「そう、なんかみんな持ってるのよ。みんなにノート流していいとかって言ったの?」
「そんなこと、あたしが言うわけないじゃない! ちょっと見てくるわ」
私は大教室を見回した。次の時間もここで授業の人がいるので、そこそこ人は残っている。知り合いを見つけて話しかけた。
「ねえ、キーツの詩のノート、持ってる?」
「持ってるよ」
「ちょっと見せてくれる?」
「いいよ」
正直そんなに親しいとも言えないけど、時々会話をするくらいの間柄の子だった。彼女はファイルからプリントを出した。A3の紙にコピーされたそれは、まぎれもなく私が書いた訳だった。
「これ、すっごく細かくて、読みやすいんだよ!」
あんた、なに言ってんの? そんなの当たり前じゃん、あたしが書いたんだから。このあたしが作ったノートなんだから完璧に決まってんじゃんよ。そう言いたいところをグッと我慢する。
「これって、どこからもらったの?」
「なんか、回ってきたんだよ。知らないうちに。みんなこれ持ってるよ。これ書いてくれた人、神だね! これみんな100点取れるから。コピーあげようか?」
ありがとう、今、時間ないからいいや、そう言って私は自分の席に戻った。
「どうだった?」
さっきの友人が訊いてきた。
「みんなが持ってるって言ってた。どうして? このノート、すごく親しい子にしかあげてないのに。ほんの数人だよ?」
「そうだねえ。その中の誰かが、誰かにあげちゃったんじゃない?」
「そうとしか考えられない。もう、ほんと嫌なんですけど」
ノートをちゃんと取って、試験用に仕上げることがどんなに大変か、仲間内にもちゃんとわかってもらってないのがすごくすごく残念な気持ちだった。ましてそれを気軽に、私が許可してない人にあげちゃうとか、信じられないよ。モヤモヤは既にはっきりとした不機嫌となっていた。

 

 

 

誰だか知らないけど「人のノートをちゃっかりと写して試験を切り抜けよう」っていう根性が、私にはわからない。こう書くとよほど頭が固いと思われてしまいそうだけど、だったら人のふんどしで土俵を取ってる人たちはどうよ? と言いたくもなる。
 
中国には、1906年に完全に廃止されるまで続いた科挙という制度があった。
そう遠くない昔まで、官僚登用のために実施したテストだったけど、実はカンニングも多かったと聞く。下着の裏や、靴下に、虫眼鏡で見ないとわからないようなちっちゃい字でびっしりなにやら書き込んだ記録が見つかる。米粒の数分の1くらいの大きさの文字をちまちま書いて、でも実際試験の時にそれを探し出せるかがすごく疑問な大きさで、そんな無理目なカンニングペーパー作ってる時間があるんなら、1つでも記憶した方がいいんじゃない? とも思うが、ちゃんと覚えないで試験に臨む人はいなくならなかった。
 
そんなことをやった人たちの合格率が、一体どうだったのかはわからない。でも、どんな時代にも「どうしても受かりたい、でも受かる自信がつくほど勉強していない。だからズルをしてでも受かる」人は存在していることはわかる。
 
私は自分できちんとこの詩を理解したくてノートを作った。それを試験対策にも使って、親しい何人かの友人にあげただけだ。そのコピーを何気なく渡してしまった友人は誰なのか、犯人探しをするつもりはない。たぶんその子だって何も悪気はなく、他の気のおけない誰かに頼まれたから「いいよ」ってコピーさせてしまっただけなのだろうから。
ただ、それを受け取った子や、そのまた知り合いが、科挙でカンニング方法を手に入れた人のように「ラッキー!」と思ったのだろう。授業なんて出てないし、出てたって頭に入ってこなかったけど、自分でちゃんと勉強する必要ないじゃん! このノートがあればもうバッチリ! そんな歓声まで聞こえてきそうだった。そこまで想像できてしまって、さらにイライラはつのった。科挙でカンニングがバレたら死刑もあったというのに、この子たちになんのペナルティもないなんてひどすぎる。

 

 

 

私が書いた英詩のノートはかなり評判がよかった。なぜなら私の耳にもその評判が入ってきたからだ。そりゃそうだよ、あんなに細かく書いた人なんていないもん。そのくらいの自負があった。
 
ちょっといい気分にもなったけど、同時に試験が近づくにつれて、私のノートを見てすごくいい点を取る人が出て来ちゃったらムカつくだろうなと想像がついた。もう出回ってしまったものをわざわざ「返して」とか「それは私のノートだから使わないで」などと言うつもりはない。本当は声を大にして言いたいけど、言ったあとが面倒くさいし、それを言うことは割とダサいと思っている。だから言わなかったけど、それならそれで考えはあった。
 
そして試験当日になった。
答案を書いている最中に、十分な手ごたえを感じていた。
しばらくして答案が返却され、予想通り満点だった。私のノートを使ってたんだから、さぞかし周りの皆様はできがよろしかったのですよね? と耳を澄ませると、それがそうでもなさそうなのだった。
「えー、もう、全然できてなーい」
「超難しかったよね~」
そんなおしゃべりがどこからか聞こえてきた。
 
私はおかしくて仕方がなかった。だって苦労しないでバッチリだって言ってたじゃない。もうこれでなんにもしなくていいからって言ってたじゃない。私なんかよりずっといい点取れて当たり前っていうか、全員満点じゃなきゃおかしいのに、あんたたち何やってんのよ! つい10日くらい前は、怒りではらわたが煮えくり返りそうだったのに、皆さんの予想以上に情けない結果を聞くにつれて、面白くてどうしようもならなくなった。
「……ねえ、なんか、おかしくってしょうがないんだけど」
私は友人に小声で話しかけた。
「だよね。みんな、玉砕とか言ってたし」
「あんだけありがたがっていたのに、なんか元気ないじゃんね?」
「ほんと。でも、よかったんじゃない? 溜飲が下がるってやつで」
「そうだね」
「でもさ、ちゃんとやった人が最後は絶対強いと思うよ。一生懸命やってたじゃない?」
「ありがとう。それは言えるね」
 
学科中にノートが広まってしまってからというもの、試験まで私は絶対この科目は完全無欠にしたいと思っていた。労せずしてノートを手に入れた人たちに負けたりしたら、私のプライドが許さない。だからそらで言えるくらいに全文暗記したし、また原文を書くことだってできるようにした。それが実ったのだった。友人は近くで私のことを見てくれていたから、ノートを作っていたときも、学科内に勝手に出回ってしまったあとに私が頑張ったことも知っていた。わかるひとにだけわかればいいし、結果が全てなのでそれでいいのだ。
 
あれから数十年の歳月が経っている。
よく「昔は全然勉強しなかったし、適当に人のノートパクったりしたけど、懐かしい思い出です」なんて振り返る人もいる。過去に自分がした情けないことを、さも若かりし頃の武勇伝みたいに話せるものなのだろうか。私にはよくわからない。もし子どもがいたとしたら、そんなこと堂々と話せるのだろうか。
 
あのときの皆さんは、今、どうしているのだろう。もう十分すぎるほどいい大人になりつくした皆さんは、ちゃんと生きているんだろうか。
「天網恢恢疎にして漏らさず」ともいう。どこまでも胸を張って、自分がしてきたことを言える人になっているのだろうか。自分が自分にしみ込ませたものだけは、よきにつけ悪しきにつけ絶対に裏切らない。遠い日のことを思い出しながらも、自らは真っすぐ歩いているのだろうかと振り返る必要があると、身の引き締まる思いがしている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
河瀬佳代子(READING LIFE編集部公認ライター)

「客観的な文章が書けるようになりたくて」2019年8月天狼院書店ライティング・ゼミに参加、2020年3月同ライターズ倶楽部参加。同年9月READING LIFE編集部公認ライター。
「魂の生産者に訊く!」http://tenro-in.com/category/manufacturer_soul、「『横浜中華街の中の人』がこっそり通う、とっておきの店めぐり! http://tenro-in.com/category/yokohana-chuka 連載中。

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2021-11-08 | Posted in 週刊READING LIFE vol.146

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