週刊READING LIFE vol.146

宗谷岬で海を見ながら死を覚悟したあの日《週刊READING LIFE Vol.146 歴史に学ぶ仕事術》


2021/11/08/公開
記事:椎名真嗣(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
40年ぶりの稚内の海。
40年前私はここで自分の命を絶とうと思い、この宗谷岬に立っていた。

 

 

 

当時、私はやっと会社に普及し始めたサーバー、PC、ネットワークを扱うIT企業の冴えない営業マンであった。
営業成績がパッとしない私は、当時はやりだしていたネット通販を主業とするある会社(ここでは仮にA社としておこう)へのアプローチに成功。最初はたまにPC2,3台をわが社に注文するだけの細い商いだったが、A社が売り出したある健康器具がバカ売れするようになり、A社の業容は急拡大した。業容拡大に応じ、必要なPCや周辺機器の調達量も増え、それらの機器の手配を一手に引き受けた私もあっという間にトップセールスマンに。気が付くとわが社の売り上げの3割を占める大口取引先にA社はなっていた。
ある日私はA社の購買責任者から呼ばれた。
A社の購買責任者は、私に
「今度新規事業を始めるにあたり、来月PC500台とその他周辺機器を調達したいので、見積もりと注文書を明日もってきてほしい」
と、言ってきた。
当時、PCは売価で100万円以上していた。
つまりこの商談が決まると一案件としては5億円以上。わが社の歴史の中でも一案件で5億以上の案件は今までない。
史上最高額の商談だ!!
私は寝ずに見積もりと注文書を作り、翌日早朝、購買責任者にそれら一式を渡した。
購買責任者は見積もり書に目を通し、大きくうなずき私に
「正式な注文書は稟議をかけて決済を通ってからになるが、それから手配するのでは来月には間に合わない。注文書には私のサインしか現段階では出せないが、それで機器の手配は先行して行ってくれないか」
と言ってきた。
今までも同様に正式な社判を注文書に押印せず、購買責任者のサインだけで、機器の先行手配を受けていた。
私は、二つ返事で了承する。
そして早速機器の手配を開始した。仕入れ先数社と掛け合い、私はPC500台をかき集めたのだった。
 
何とか希望納期通りに納品が完了した翌日の事だ。
私は正式な注文書の受領のお願いと今後のセットアップスケジュールの確認のためにA社の購買責任者に電話を入れた。しかし呼び出し音を何度鳴らしても誰もでない。
悪い予感がした。
私は会社のホワイトボードに訪問先A社と書いて会社を出た。
 
A社本社ビルに着くと、シャッターが下りている。
シャッターには張り紙が貼ってあった。
『告示書 破産者 A社
上記のものに対して昭和XX年 X月X日午前X時X分 東京地方裁判所において破産手続き開始が決定され、当職が破産管財人に選任されました。本件建物及び建物内の一切の動産は、当職が占有管理するものですから、みだりに立ち入りあるいは搬出等する者は処罰されることになります。なお、本件に関しては当職が委任を受けましたので、本件に関するお問い合わせは当職宛にお願いします。 昭和XX年X月X日 代理人弁護士 XXXXX』
 
やられた!
A社はつぶれたのだ。
目の前が真っ暗になった。
正式な注文書もとらず、機器は既に納品済み。
会社には何も報告せず、私単独で進めていたこの案件でまさかのA社倒産とは。
しかも売価で5億とは大きすぎる。
回収不能となると、仕入れ金額の3億はわが社の持ち出し。年商10億弱のわが社にとって3億の持ち出しともなると連鎖倒産の可能性も。もし倒産でもしてしまえば、それは私のせいなのだ。
 
茫然自失の中、会社に戻る気には到底なれなかった。
そこで私は外出先で体調不調になった旨、会社に連絡を入れて、明日も休ませてもらう事にした。会社に連絡をいれた後、
「とにかく東京を離れたい」
と、思った。
そして羽田空港に向かったのだった。
 
羽田空港で発着掲示板を見上げる私。
「稚内 10:35発」の文字が見える。
空席がありそうだ。
北海道生まれの私であったが稚内には今まで一度もいったことはなかった。
ただ子供の頃、母から「終戦後まもなく樺太から命からがら船でたどり着いた地が稚内だった」という話を聞いていた。
2月のこの時期。稚内は日中でもプラスの気温になることはない。それでも今どこに行く当てもない私は、稚内行のチケットを買い、飛行機に乗り込んだのだった。
 
気が付くと私は稚内 宗谷岬にたたずんでいた。
空は鉛色にどんよりと曇り、強風と小雪が私の頬を殴った。
目の前の海もどんより黒く、荒れている。
そのような景色の中いると自然と『死』という言葉が頭をよぎった。
死ぬ前に母の声を聴いておこう。
私は近くにある公衆電話にテレホンカードを入れて、実家に電話をかけた。
 
3コールすると、母が出た。
「お母さん、俺。今会社の出張で稚内にきているのだけど」
私は嘘をついた。
母は
「ありゃー、そりゃ大変ね。」
と全く私の話を疑わず、返してきた。
そして、
「稚内、今寒いでしょ。風邪ひかないように気を付けないとダメよ。稚内といれば樺太から引き揚げてきたときの事を思い出すわ」
私が聞きもしないのに、樺太時代の事を母は話始める。
「当時私は7歳で、妹は3歳だったわ。私たち家族は樺太にわたって農家をしていたのよ。だけで、戦争負けちゃったでしょ。するとお国からは樺太にあるものはすべて捨てて、内地(日本)に引き上げろ、というお達しがでたのよ。苦労して買った家財道具だとか一切合切捨てて、持っていける現金と衣類だけもって、着の身着のまま家をでたわ。そしてとにかく港に向かったの。港に行けば、引き揚げ船があるからそれに乗って内地に帰れるということだったのね。港までの汽車なんて当然動いていなかったから、歩くしかなかったわ。百キロ以上の距離を長い行列を作りながら、ただ私たちは黙々と歩いた。道端には歩けなくなったお爺さんや病人が倒れて動かなくなっていたわ。機銃掃射で死んでいる人もそこかしこに倒れていて、それは無残だったわよ。そして2日間野宿をしながら、何とか港についたの。やっての思いで家族4人、船に乗ったのよ。そしたら、3歳の妹がそれこそ火が付いたように泣き出してね。とにかくおなかがすいた、パンが食べたいって泣き始めたの。母は、何とか我慢させようとするのだけど、どうしても泣き止まない。それで私も妹がかわいそうになって、母からお金を預かって、パンを買いに下船したの。船の周りには人がひしめき合い、中々パンを売っているお店が見つけられない。人をかき分けながら、やっとパンを売っているお店を見つけて、パンを買っている最中だったわ。 『ボー』って汽笛が鳴るの。船がでちゃうと、思った私はパンをもって急いで、船の方に戻ったわ。だけど、帰りもすごい人で、思うように進めず、船着き場に着いた時には、船は既に出たあとだった。家族から一人取り残されて、不安で押しつぶされそうになっている時に、『きよこ』って私の名前を呼ぶ母の声が聞こえたわ。振り向くとそこには母が! 中々私が帰ってこないので、結局父も母も妹も折角乗れた船から降りて、私を待ってくれていたのね。私は母の顔が見られてほっとして、わんわん泣いた。そして、『遅くなって、ごめんなさい』って何度も何度も謝ったの。母は『いいのよ、いいのよ』って言いながら私の頭をずっとなでてくれたわ。
だけど、この後いつ船がでるかなんてわからない。父も母も私も妹も疲れ切って、母なんて『いっそ、家族4人、この海に身投げをしよう』なんていうのよ。すると父が『生きていればなんとかなる!』っていって母を止めたわ。そうこうしていると夜になって、また野宿かと思っていたら、夜中にもう一隻船がでるという知らせがあり、何とかその船に乗って、翌日稚内にたどりついたの。」
ここまで話をすると、母は一呼吸おいて、こう続けた。
「稚内に着くと知人から『なんで稚内にいるのだ』って聞かれたの。その知人は私たちが最初に乗った船を出港前に降りたなんて知らなかったのよ。知人の話では、私たちが最初に乗ろうとしたあの船。実はソ連軍の魚雷で沈没しちゃったんですって。魚雷で乗船者のほぼ全員が死亡。そんな事を私たちに話してくれたわ」
ここまで、話をすると母は電話口の私の名前を呼んだ
「だからね、まさし。
人生で大事な事って2つあると思うの。1つは『自分ができることを一生懸命やる』事。妹のためのパンを買うために私は一生懸命パンを探した。それで結局は最初の船に乗れなかったけれど、乗れなかった事で命拾いできたのは、自分ができることを一生懸命やったからだと思うの。
そしてもう1つ大事なこと。それは生きていればなんとかなるってこと。もし、父が最初の船に乗れなかった事に絶望して死を選んでいたら、私も死んでいたし、あなたも生まれていない。父があの時言った通り、『生きていればなんとかなる』のよ。この2つはお母さん大切だと思っているので、あなたも覚えておいて。じゃあ、仕事大変だろうけど、がんばってね」
私の返答も待たず、母は一方的に話を終え、電話を切った。
 
私は翌日、羽田行の飛行機に乗り、会社にトンボ帰りしたのだった。
 
会社に着くと社長をつかまえ、A社の事を正直に話した。
聞いていた社長は私を責めるわけでもなく、早速銀行に電話をして短期の資金調達を依頼。一方私は管財人に連絡をして、何とか売掛金の一部でも回収できないか相談を持ち掛けた。しかし管財人からの情報ではわが社と同じようにA社に売掛金がある会社は30社以上にのぼり、負債総額は数十億円との事。A社からの債権回収は難しい状況であった。
結局、売掛金の回収はできなかったが銀行から短期の資金調達は成功し会社は連鎖倒産を免れたのだった。
その半年後。
 
「椎名さん、山田さんという方からお電話です」
会社に個人名で電話してくる人間なんて、そんなにいない。
山田という名前の知り合いは何人かいるが、誰だろうと思い、電話に出た。
「はい、お電話代わりました。椎名です」
「すみません。以前A社でお世話になった山田です」
あのA社の購買責任者からの電話だった。
「その節は椎名さんには大変ご迷惑をおかけしました。実は今私はB社の購買担当者になっていまして可能であれば貴社から見積もりをいただきたいと思っていますが可能でしょうか?」
B社と同じくA社はネット通販から立ち上がった会社であったが、その後金融事業などの多角化が成功していた。B社の社長はTVにたびたび出る有名人だ。私も過去何度か新規開拓しようとB社にアタックしていたが、まったくアプローチできないでいたのだった。その難攻不落のB社にA社の元購買責任者が転職していたのだ。
「はい、喜んで」
私は大きな声で答えた。
そしてあれから40年。
B社との取引はいまだに続いている。

 

 

 

「この40年色々なことがあったな」
定年を迎える今日。
私は職業人生のターニングポイントとなった、この稚内 宗谷岬にきている。
宗谷岬でしばらく感慨にふけった後、今日一泊する旅館に戻った。
そした私は会社の全社員にこんなメールを書いて送った。
 
「40年間本当にお世話になりました。今日は私の会社員生活最後の日です。大した実績も残せませんでしたが、40年間働いた中で、私が仕事で大事にしていたことを皆さんにお伝えして、お別れの言葉にかえさせていただきます。それは自分のできることを一生懸命やること。そして生きていればなんとかなる。この2点です。長い仕事人生、色々ありますが
あきらめずに自分ができることを一生懸命すれば、たいていのことは乗り越えられます。皆さん頑張ってください! 会社を辞めても応援しています!」
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
椎名 真嗣 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

北海道生まれ。
IT企業で営業職を20年。その後マーケティング部に配置転換。右も左もわからないマーケティング部でラインティング能力の必要性を痛感。天狼院ライティングゼミを受講しライティングの面白さに目覚める。
現在自身のライティングスキルを更に磨くためREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部に所属

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2021-11-08 | Posted in 週刊READING LIFE vol.146

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