週刊READING LIFE vol.149

もがき苦しんでこその至高の味《週刊READING LIFE Vol.149 おいしい食べ物の話》


2021/11/29/公開
記事:河瀬佳代子(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
東京には世界中の食べ物が集まると言われている。
確かにそうだ。カレーひとつ取っても北インドだの南インドだのタイだのベトナムだの、どこの国のどんなカレーだって食べられる。
カレーにとどまらず、やれスイーツだフレンチだイタリアンだ、目新しい食べ物が出てくるとすぐに食べられるようになる。調理品もあらゆるものが売っているし、いわゆる家庭料理だって日本ではちゃんと作る人がまだまだ多い。お取り寄せもあるので、ありとあらゆる「食」を集めることができるのが、東京のみならず今の日本と言えよう。
そしてもちろん私自身もその恩恵にあずかっている。
「今日はこれが食べたいな」と思い浮かんだものならたいてい手に入るし、食べられる。あの店がおいしいと聞きつければいそいそと出かけるし、友人同士でグルメ情報交換もする。要するに自分が食べるものを選び放題なわけで、これまでに数え切れないものを味わってきた。そしてそのどれにも満足している。
改めて「あなたにとって、今までおいしいと思った食べ物は何か?」と聞かれた時、いくつか思い浮かぶものがあった。その中でもとりわけ印象に残るものは、間違いなく小学校3年生の時に味わった、あの食べ物だろうと確信している。

 

 

 

小学生のときは帰宅すると、もれなく近所の子たちと遊んでいた。小学生でも低学年だったから、齢の違う子たちとも男女混じってわいわい時を忘れ、日が暮れるまで遊んだものだった。
その日もランドセルを置いて着替えて、すぐに「遊ぼう」と近所の子と合流していたのだろう。大通りから一本中に入った細い通りから、さらに奥に入った路地裏で、私たちはいつも遊んでいた。
「公園に行くよーーーっ!」
路地裏から、近くの公園に移動して遊ぶことになった。まず、すばしっこい子たちが走り出す。ネズミのように足の速い子に続いて、残りのみんなも慌てて追いつこうと走り出した。
「待ってよー!」
早く行かなきゃ! 一同の中で間違いなく一番足が遅い私は、この時もワンテンポ遅れて走り出したように思う。もうみんな、突き当たりのT字路を曲がっていた。急がなきゃ置いて行かれちゃうよ。私は一気にT字路を右に曲がり始めた。その時だった。
前に何もないはずだったのに、いつの間にか乗用車が右から来ていた。
「あっ!」
止まらなきゃ、と思ったって全力で走っているのでそう簡単には止まれない。右に曲がろうとしていた私は、乗用車の左の前側に思いっきり衝突した。
「痛い!」
右の脇腹、盲腸のあたりをしたたか乗用車にぶつけていた。私はその場にうずくまった。
「……」
ぶつかる音を聞いた子が戻ってきてくれた。
「大丈夫?」
「……うん」
「おうちの人、呼んでくるね」
現場は家から数軒くらいしか離れていないところだったので、母はすぐに来てくれた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「うん」
「痛い? 歩ける?」
「わかんない」
幸いだったのは乗用車が徐行していたことだった。ドライバーは若い男だった。
「大丈夫ですか?」
「……うん」
「申し訳ないです……」
男は母と話していた。
「こちらも飛び出していたみたいですから」
「とりあえず、病院にいきましょう」
そこからどうやって病院まで行ったのか覚えていない。外傷はなかったし、救急車に乗った記憶もない。でも歩いて行ったとも思えなかったから多分タクシーか何かで移動したのだと思うけど、とにかく私は入院することになった。

 

 

 

入院先は、幼稚園で一緒のクラスだったけいこちゃんのお父さんが経営する個人病院だった。そこが一番家から近く、たまたまベッドに空きがあった。
「大変でしたね」
院長であるけいこちゃんのお父さんが、直接診察してくれた。
「話せる? 痛いところはある?」
当時は恐らくだけどCTなどというものは個人病院にはなかった。レントゲンはあったけどCTはまだ大学病院くらいにしか設置されていなかった。個人経営の専門医院でさえ脳ドックが受けられる今からは考えられないくらい、医療は昔の体制だった。
「なんとなく、痛い」
「ぶつかったあたりかな?」
右のお腹に聴診器を当てながら、けいこちゃんのお父さんは話していた。
「……出血はないですが、もしかして内臓にダメージがあるかもしれません。今日は入院した方がいいでしょう」
「わかりました」
「様子を見るので今夜は飲食禁止、絶食になります。歩行も禁止です」
ぜっしょく……。そんな言葉聞いたこともなかったけど、何にも飲んだり食べたりしちゃいけないんだ。そのことだけは枕元の会話からわかった。
「まったく、急いで飛び出すからよ。道路にいるときは周りをよく見なさいと、あれほど言っているのに」
母はまるで私が100%悪いかのように言っていた。わかってるけど、お母さん、私、今、入院してるんだよ? 大変なんだよ? と言いたかった。言いたかったけどとても疲れていたので、うなずくしかなかった。
「今日は何も食べられないからね。お水もダメだって」
「水、飲んじゃダメなの?」
「内臓が破裂していたら大変だから、お水も飲んじゃいけないってさっき言われたよ」
点滴くらいはしていたと思うけど、水が飲めないのかあ。私は確認しながらがっかりしていた。その時、職場から駆けつけた父が顔を出した。
「おい、大丈夫か」
「……うん」
娘が交通事故に遭ったと聞いてすぐに来てくれたのだろう。いつもなんとなくしか見ていなかったけど、こうしてベッドの中から眺めると、背広を来ている時のうちのお父さんってちょっとカッコいいかもしれないな、と思った。
「話ができるんならそんなに大したことないかもしれないけど、お医者さんのいうことをよく聞いて入院していなさい。また明日来るからな」
両親は帰っていった。当時は子どもの入院に親が付き添って、横にベッドを入れて一緒に寝泊まりするなどということはあまりなかったかもしれない。そういうことをするのは病気が重い子だけだったのだろう。私のように会話ができるくらいなら付き添いは必要ないと言われたのかどうかはわからないけど、友達のお父さんの病院とはいえ、ここにたった一人、一晩取り残されるのかと思うと少し不安になった。
病室にはTVもなく、飲食も歩行もしてはいけなかったので、みんなが帰ってしまうと何もやることがなかった。つまんないな。そう思っていると病室のドアが開いた。
「……失礼します」
ドライバーの男だった。
「この度は、申し訳ないです」
「はい……」
親がいるときに、お見舞いに来てくれたらよかったのに。でもたぶんもう下で、両親と話でもしてから来たのだろう。
「具合はどうですか?」
「……まだなんとなく痛いです」
「そうですか」
男は何かを持ち上げるような動作をした。
「とりあえず、これを。食べられるといいけど」
男は見舞いの品を持ってきていた。差し出したのは、果物かごだった。
「ありがとう。でも、今は食べられないです」
「そうですか」
「内臓が破裂していたら大変だから、今日は食べちゃダメだってお医者さんが言ってました」
私は医者や親から聞いたことをそのまま男に伝えた。私、入院しちゃったんだから、ちょっとだけ懲らしめてやろうかなという、少し悪い気持ちが働いたのだ。
「そうですか。それは悪かった。ごめんなさいね。食べられるようになったら食べてください。では」
男が帰ったあと、私は枕元のテーブルに置かれた果物かごを見つめた。
りんごにぶどう、パイナップル、そのまわりを果物の缶詰が取り巻いていた。とてもありふれた見舞い用の果物かごだった。それでもその品々は本当においしそうに見えた。もうどのくらい、水を飲んでいないだろう。絶食と言われていたし、なんとなく身体はだるく食欲はなかった。歩いてもいけないし、何もすることがないからもう寝よう。今日1日のいろいろなことの疲れがどっと押し寄せてくるような気がして、私は眠りに落ちた。

 

 

 

翌朝目が覚めた時、真っ先に意識したのは喉の渇きだった。
(……水、飲みたい)
私はナースコールを押した。
「喉、乾いてるんだけど、お水飲みたいです」
「先生にあとで診察してもらって、いいって言われるまではダメなのよ。大変だけど我慢しましょうね」
「……はい」
ダメなのかなあ。ちょっとくらいいいじゃん。でも看護師さんはうんとは言ってくれなかった。
水が、飲みたい。
水、水、水。
み・ずーーーー!!!!
飲めないとなると余計にそのことばかり気になって仕方がなくなった。今頃、みんな学校に行ってるんだろうな。そろそろ授業始まるのかな。ぼんやり考えていても水は飲めない。
「おはよう、どう? 具合は」
母がやってきた。
「うん。昨日よりはいいけど、お母さん、喉が渇いたよ。水が飲みたいよ」
「そうねえ。絶食だからね。けいこちゃんのお父さんに聞いてきてあげる」
そう言って母は病室を出ていき、しばらくして戻ってきた。
「やっぱり、もう少し様子を見ないとダメなんですって。ある程度、丸一日くらい時間が経って変化がなかったら大丈夫だけど、それまでは我慢してくださいって」
「えー、まだなの」
仕方がない。飲み食いさせてもらえないんだから。母も用があると帰ってしまい、ただひたすらベッドに横たわるしかない私は、あらゆる想像をした。今、何時間目かな。中休みの時間でみんな遊んでるのかな。今日の図工の授業に出なくてめちゃラッキーだったな。そろそろ給食の時間なのかな。
 
給食というワードを想像したのがまずかった。
給食!
給食!!
給食!!!
 
水が飲みたいだけじゃなくて、お腹も空ききっていたのだった。無理もない。子どもが丸一日飲まず食わずなのだ。今日の給食のメニューなんだろう。ソフト麺かな。食パンにチョコレート塗るやつかな。そう思うだけで気が狂いそうになった。
 
(お腹空いたよ……。水が飲みたい……)
 
ベッドの上で、私は餓えにもがいていた。あまりにも動くのでシーツはぐちゃぐちゃになっていた。携帯電話なんてない時代だから親に連絡なんてできやしない。
ただひたすら、辛すぎる時が去るのを待っていた私の目に映ったのは、枕元のテーブルの上に置いてあった、昨日車のドライバーが持ってきた果物かごだった。桃の缶詰の、缶に書いてある桃の絵があまりにもリアル過ぎて、これじゃまるで拷問じゃないかと思った。ばかやろう! 私は泣きたいのを我慢して、果物かごが視界に入らないように反対を向いて寝た。
 
「……お待たせしました。様子見ましょうか」
どれくらいの時が経ったのだろうか。気がつくと、けいこちゃんのお父さんが診察に来てくれた。
「お水、飲めなくて大変だったね。もし何か飲んだり食べたりして、異常が起きたら大変だから、丸一日は様子を見ないといけないんだよ。でもよく我慢したね。もう大丈夫です。急に普通の食事をすると胃腸がびっくりするので、これから病院の食事を出しますから、それを食べて、おうちに帰っていいですよ」
やったー、退院できる! そしてご飯が出るんだ! 嬉しい!
しかも病院で食べるご飯なんて初めてだよ? 一体どんなご飯が出るのかな? 嬉しさのあまり、一気に想像が広がった。
「お待たせしました。これ食べてくださいね」
まだ夕食には少し早い時間だったけど、看護師さんがご飯を持ってきてくれた。私はわくわくしながらお盆の上を見た。
「え……」
そこにあったのは、一杯の味噌汁だった。
「お味噌汁、だけなの?」
「そうなの。まず胃を慣らさないといけないから、まずはこれ飲んでね。これで何も変わりなかったら、普通の食事に戻して大丈夫ですよ」
「……はい」
ちょっと想像していたのとはだいぶ違ったなあ。そう思ったけど、お腹がペコペコに空き切っていた私は、その味噌汁を恐る恐る一口飲んだ。
 
(……おいしい!)
 
あまりのおいしさに、私はあっという間に味噌汁を飲み干した。今思い返すと、具が全く入っていない、化学調味料のだしか何かで味付けした味噌汁だった。汁だけの味噌汁、でも、それは飢え切った私の身体に瞬く間に沁みていった。本当に、格別の旨さだった。

 

 

 

あれから長い年月が過ぎ、数えきれないくらいの食事をしてきた。
シンプルな素材を丸ごとかじったり、凝った料理を作ったり、会食をしたり、エスニック店巡りをしたりなど、気の向くままに様々なものを味わってきた。入院もしたので病院食も食べたけど、それでもこの時の具なし味噌汁ほどおいしいとは感じなかった。
 
飽食の中に生きていると、あれが食べたいから、これを今日は食べると思っていても、食べた瞬間にその味を忘れてしまうものなのかもしれない。随分贅沢な話かもしれないが、人は飢餓状態、それも強制的な飢餓から解放されたあとが最も食べ物がおいしく思えるのだろう。しかも人生経験の少ない子どもであれば、そんな体験は滅多にないので余計だったに違いない。
今後この体験を超えるような「おいしさ」に出会えるかどうかはわからないけど、今まで出会った味の1つ1つに感謝するとともに、これから出会うであろう様々な味もできる限り記憶したいと思っている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
河瀬佳代子(かわせ かよこ)

「客観的な文章が書けるようになりたくて」2019年8月天狼院書店ライティング・ゼミに参加、2020年3月同ライターズ倶楽部参加。同年9月READING LIFE編集部公認ライター。
「魂の生産者に訊く!」http://tenro-in.com/category/manufacturer_soul、「『横浜中華街の中の人』がこっそり通う、とっておきの店めぐり!http://tenro-in.com/category/yokohana-chuka 連載中。

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2021-11-24 | Posted in 週刊READING LIFE vol.149

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