週刊READING LIFE vol.151

それが“にわか”の出所だ《週刊READING LIFE Vol.151 思い出のゲーム》


2021/12/14/公開
記事:山田THX将治(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
「歴史作るの、誰ヨ!」
日本国籍を有しているものの、青い目をしたニュージーランド出身の男は、疲労困憊している仲間を鼓舞した。その言葉は助詞の無い、外国人独特の日本語だった。
チームの指揮を執る、こちらはオーストラリア出身の指揮官は、相手の反則で得たペナルティに、同点を狙うキックを指示した。
ニュージーランド系日本人に叱咤されたチームメイトは、誰も指揮官の決断で‘良し’としなかった。
 
試合時間は、もう残っていない。次のプレイが止まれば、そこで終わりだ。
 
グラウンドでチームを纏める、これまたニュージーランド出身のキャプテンはレフリーに対し、同点を狙うキックではなく、逆転トライを狙ったスクラムを選択する旨を告げた。
チームの誰もが、同点で歴史が変わるとは思っていなかった。歴史を変えるには、勝利しかないとチームが一つに為った。
 
男たちは奮い立った。
英国南東部のリゾート地、イースト・サセックス州ブライトンのスタジアムでは、歓声が沸き起こった。観客の誰もが指揮官と同じく、格下で劣勢が予想された日本代表チームが、強豪相手に同点とすれば、孫子の代まで語り継ぐことが出来る試合に立ち合ったことに為るからだ。
 
遠く離れ、10時間の時差が在る日本では、多くのラグビーファンが眠い目を擦りながら、夢にまで見た歴史的瞬間を観逃すまいとテレビの生中継に噛り付いていた。
50年以上もラグビーを観続けてきた私も、これは夢ではないかと思いながらも、テレビの前に身動ぎせず構えていた。勇気ある決断をした選手達に感極まって、眼に熱い物が込み上げていた。
 
日本ボールのスクラムで再開されたゲームは、幾度かのフェーズ(局面)を重ねた後、トンガ出身の日本代表・マフィ選手からのパスを、これまたニュージーランド出身のヘスケス選手が受け取り、そのまま南アフリカ陣ゴール左隅に飛び込んだ。
逆転の決勝トライだった。
 
世界中のメディアは、
『歴史的ジャイアント・キリング(下剋上の意)』
『ブライトン(開催地)の奇跡』
『これ迄2勝のJAPANが、2回優勝の南アフリカを破る!』
と、大騒ぎに為った。
 
ゲームが行われたブライトンのスタジアムでは、数少ない日本人の観客を見付けては、英国人の観客が称賛をした。
そしていつしか、その称賛の輪に南アフリカの観客も加わっていた。
それはまるで、ラグビー・フットボールで試合終了を意味する『ノーサード(敵味方無しの意)』を具現化しているような光景だった。
 
世界中のラグビー関係者・ファンが、誇らしく思った光景だろう。
 
 
以上が、私が最も思い出に残っているゲーム、世にいう『ブライトンの奇跡』のハイライトだ。
しかし、このシーンに至るまで、また、このシーンから、数多くのドラマが生まれている。
ゲームは、まだ始まったばかりだ。
 
 
1823年、英国のラグビー校でフットボールの試合中、同校選手ウェッブ・エリス少年が、興奮の余りボールを手に取り、抱えて相手ゴールに走り込んだことを起源の一種とするラグビー・フットボール。
現代では、世界中多くの国でプレイされている。最近では、世界各国で女子のナショナルチームも結成されている。
また、通常15人制のラグビーを、試合時間が短い『7人制』にすることで、オリンピックの正式種目にも為っている。
 
1987年に為ると、サッカーに続きラグビーでもワールドカップが開かれる様に為った。日本は、強豪国に混ざって第1回大会から連続出場‘は’している。
因みに、ラグビー・ワールドカップに優勝したチームに授けられる優勝杯(カップ)は、『ウェッブ・エリス杯』と名付けられており、ラグビー発祥の若者を現在も讃えている。
 
日本でもラグビーは、明治維新で西洋文明・技術を伝える為に来日した外国人によって伝えられた。
1901年に為ると、慶應義塾大学に日本初のラグビー・フットボールチームが誕生する。慶應大学では自らのラグビー部が、日本初のクラブであることを誇りにしている。その証拠に、一般的に呼ばれるラグビー部が『慶應義塾大学體育會蹴球部(たいいく〈体育〉かいしゅうきゅうぶ)』と、旧漢字遣いで仰々しい正式名称としている。
これは余談だが、慶應大学ではラグビー部が“蹴球部”を名乗っているので、サッカー部は“蹴球”を使えないでいる。慶應ではサッカー部のことを“ソッカー部”と表記する。
“日本初”のラグビーチームであることを、内外に知らしめているのだ。
 
 
御存知の通り、ラグビー・フットボールは、敵が力任せに運び込むボールを、身体を張ったタックルで止める競技だ。当然のこととして、体格が大きい方が有利にゲームを展開するのが常だ。
必然的に、ラグビー発祥の地である英国を始め、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、そして南アフリカといった旧英国領(フランスを除く)で盛んにおこなわれている。それらの国は、日本人に比べて総じて体格が大きい。
 
日本で盛んに為ったラグビーだが、ゲームは主に、大学や高校の部活の延長である選手権が中心だった。大学・高校でプレイした選手による、社会人チームのリーグも有ったが、仕事をしながらの活動だったので練習時間が限られ、実力的には大学チームと変わらなかった。
学校を卒業した選手達が、プロ選手として活動している現在は見られなくなったが、30年程前迄、ラグビーの日本選手権は、大学日本一のチームと社会人ナンバー1チームによって競われていた。
今と為ってはウソみたいな話だが、結果は拮抗していた。
 
 
大学生や高校生によるゲームが、多くの観衆を集め注目されていた日本のラグビー界だったが、ナショナルチーム(日本代表)は、外国のナショナルチームには歯が立たなかった。
それもそうだろう、伝統が在り体格にも勝る英国系のチームとでは、日本のナショナルチームは、その成り立ちからして違っていたからだ。
 
そんなことから、ラグビー・ワールドカップが開催される様に為る1980年代後半頃は、日本国内のゲームには観客が集まるものの、国際ゲームともなるとすっかり“負け犬根性”が定着し、観客には厭戦気分が満ちていた。
 
しかしアジアにおいては、日本のラグビー界は先頭を走っていて、他のアジア諸国を圧倒していた。何しろ、2023年に10回目の開催を迎えるワールドカップに、唯一出場経験が有るアジアのナショナルチームなのだ。
但し、先にも述べたが日本代表チームのワールドカップにおける成績は芳しくなく、『ブライトンの奇跡』が起きた第8回大会前迄の通算成績は、1勝2分21敗と全く誇れるものでは無かった。しかも、唯一の勝利は第2回大会(1991年)に挙げたもので、それ以降は2引き分けを挟んで16連敗と、アメリカ風の表現を借りるなら“ドアマット・チーム(踏み付けられるばかりの意)”の成績だった。
中でも、第3回大会(1995年)の、決勝まで進んだニュージーランド(愛称・オールブラックス)相手の予選が酷かった。後に開催地の名を取って『ブルームフォンテーン悪夢』とギネスブックに今でも残る、145対17という屈辱的敗戦も含まれていた。
日本代表は、“ドアマット・チーム”そのものだった。
 
 
そんな“ドアマット・チーム”日本が、ワールドカップ2回優勝を誇る南アフリカに勝利をしたのだから、『ブライトンの奇跡』が如何に凄い快挙だったのか御理解頂けることだろう。
 
ただ、この奇跡に至る道程には、数々の英断と幾つかのチャンスが有った。
 
 
ラグビーに馴染みが無い方は、
「歴史作るの、誰ヨ!」
と、鼓舞したニュージーランド出身のルーク・トンプソン選手、キャプテンを務める同じくニュージーランド出身のリーチ・マイケル選手や、トライを決めた選手が、外国名であることを不思議に思うことだろう。
これはラグビー界独特の、『選手ファースト』の精神から来るものだ。
他の競技では、ナショナルチームに入るには、必ず国籍が必要となる。オリンピック出場の為に、カンボジア国籍を取得したタレントの猫ひろし氏で、日本でも知られる様に為った規定だ。
ところがラグビーでは、ナショナルチーム参加資格選手の項に“国籍を有する者”は勿論、“両親又は祖父母の誰かが国籍を有する者”という緩やかなルールが在る。その上、“3年以上、当該国の同一チームに在籍した者”という特別なルールも在る。
『選手ファースト』を具体的にした、選手個人の意向を重視した思想だ。
これにより、私の様な古くからのラグビーファンは、日本代表に外国名の選手が居ても、何の不思議も感じることは無かった。それはまるで、学友の中に留学生が居る様なものだったからだ。
外国籍の者であっても、学友に変わりが無いのと同じだった。
 
但し、『選手ファースト』には、一つだけ必要な決断が有った。
今年からのルール変更で緩和されたが、選手は生涯にわたって、一つのナショナルチームにしか所属出来ないという規定が在った。
この規定により、高校の時から留学の為来日し、日本でラグビーの腕を上げたマイケル・リーチ主将の様なニュージーランド出身者は、日本代表と為ることで今後一切、出生国のオールブラックスのジャージに、袖を通すことは出来なくなるとこに他ならないことを意味するのだ。
これを決断するには、一朝一夕に答えが出ることでは無いだろう。実際、リーチ選手も、日本代表に選出される際、一旦帰国し両親と相談したそうである。その際、リーチ選手の父親は、
「マイケル。これから我が家のナショナルチームは、オールブラックスではなくブレイブ・ブロッサムズ(日本代表の愛称、勇敢な桜の意)だ」
といって、息子の決断を後押しした。
 
これは、ルーク・トンプソン選手も、『ブライトンの奇跡』の決勝トライを奪ったマフィ選手やヘスケス選手も同じだった。
 
日本のラグビー強化委員会は、これらが外国出身選手達の英断をチャンスと捉え、続々と彼等を日本代表に登用し始めた。
ブライトンのゲームでは、実に7人ものカタカナ名が、メンバー表に掲載されることに為った。
 
その時点で、ラグビー日本代表ブレイブ・ブロッサムズは、“ドアマット・チーム”から脱却していたといっても過言ではない。
 
 
世界が新型肺炎禍に見舞われる直前の2019年秋、日本で第10回ラグビー・ワールドカップが開催された。多くのファンが外国からも訪れ、ゲーム会場はどこも観客が超満員と為った。
満員を支えたのは、それ迄あまりラグビーに親しんでいなかった人が多かった。
何しろワールドカップ前迄は、東京のゲームですら2万人の観客が集まるのがせいぜいだったからだ。
 
リーチ・マイケル選手が再び主将を務めた日本代表は、全勝で予選を勝ち上がり、初めて決勝トーナメントに進んだ。トーナメントでは、南アフリカに“ブライトンの仇”を取られてしまったが、各国メディアは実力を付けたブレイブ・ブロッサムズを、
「まるで、オールブラックスのゲームを観ている様だ」
と、称賛した。
それ程までに、ラグビー日本代表チームは強く為った。
ワールドカップ後、ブレイブ・ブロッサムズの世界ランキングは1桁に迄上がった。その上、ニュージーランドや南アフリカそして、イングランド・フランスといった強豪国と同じ、『ティア1』というカテゴリーに分類される様に為った。次回の第11回ラグビー・ワールドカップでは、予選リーグでシード扱いを受けることに為った。
 
古くからのラグビーファンである私は、言葉で例えられない喜びで一杯に為った。
 
2019年の年末、毎年選出される‘新語流行語大賞’に、ワールドカップ時に使われた日本代表のスローガン『ONE TEAM(ワンチーム、外国出身選手も一つにの意)』と、ラグビーを観始めたばかりのファンを招く『にわか歓迎』が選ばれた。
“にわかファン”とは聞き慣れない言葉だが、第10回大会を成功に導いたのは、確かに“にわかファン”だった。
 
2009年、ラグビー・ワールドカップ日本招致が決まると、以前からラグビーを観ていた私の様な者は、
「オイオイ、大丈夫かよ。見知らぬ外国同士の決勝戦に、観客を集められるのかい?」
と、訝しく思ったものだった。
ワールドカップ決勝戦のチケット代は、最も高い席では10万円を超える。しかも、その頃日本でラグビーの観客といえば2万人が精々だったのだ。
ガラガラのスタンドで、決勝戦を行ったりしたら、それこそ『ブルームフォンテーンの悪夢』以上の失態と為って、世界中から蔑まれるであろうと心配したからだ。
 
ところがだ、『ブライトンの奇跡』を知ったこれ迄ラグビーに関心を持たなかった人達が、一斉に“にわかファン”と為ってワールドカップの入場チケットを買い求め、スタンドに押し掛けたのだ。
私達古くからのファンも、
「ラグビーって面白いだろ? さぁ、ルールなんて後で聞けばいいから、一緒に盛り上がって応援しよう! “にわかファン”大歓迎だ!」
と、仲間が増えたことを喜んだ。
 
 
こうして見ると、私が思い出に残している『ブライトンの奇跡』となったゲームは、新しい“にわかファン”の出現とそれを歓迎する日本独特のもてなし精神を再確認する切っ掛けだったのだろう。
それがまた、オリンピック東京大会での、国を挙げての一体感に繋がったのだろう。
 
 
「歴史作るの、誰ヨ」
あの時、ルーク・トンプソン選手は叫んだ。
 
『ブライトンの奇跡』として、歴史は作られた。
作られて本当に良かった歴史だ。
 
2015年9月19日、英国ブライトンで行われた日本対南アフリカの熱戦。
私にとって間違いなく、最も思い出に残るゲームだった。
 
私は死ぬ迄、あの夜の興奮を忘れることは無いだろう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
山田THX将治(READING LIFE編集部公認ライター)

1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数15,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックの想い出を伝えて好評を頂いた『2020に伝えたい1964』を連載
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する
天狼院メディアグランプリ38th~41st Season 四連覇達成

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2021-12-08 | Posted in 週刊READING LIFE vol.151

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