週刊READING LIFE vol.152

幸せのかたち《週刊READING LIFE Vol.152 家族》


2021/12/20/公開
記事:九條心華(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「日本人ってみんなエスパーかと思った」
韓国から嫁いできた女性が言った。
「なんで?」
「言わなくてもわかる。
日本の空気の読む力は、尋常ではないよ。
ふつうは言わないとわからないから」
日本人の文化なのか、なんとなくその場の空気を読んで、判断するという能力が相当長けているらしい。
 
うちの母もそうだった。父が何も言っていないのに、父が必要としているものを取り出して渡す。父が何か探していたら、言われていないのに、父が探していたらしきものを差し出し、父はあたりまえのように受け取る。
父は亭主関白だった。機嫌が悪かったら、大声で怒鳴り散らす。180㎝近くある体格のいい大男が、鬼のような怒った目でぎょろっと睨みつけて、ものも投げる。相当怖かった。
 
母は、父に怒られないように、言われなくても必要なものがわかるようになっていた。農家だったので、早朝から畑仕事も手伝わないといけないし、家事もしないといけないし、私たち3人の子育てもして、お風呂は最後に入って、朝も早い。母はいつ寝ているんだろうといつも思っていた。
私は兄妹の真ん中だったので、やんちゃな兄と小さくてか弱い妹にはさまれて、母に面倒をかけてはいけないと思っていたようだ。母に甘えたくても甘えない。熱があってしんどくても言わない。母が大好きだったのに、甘えられなかったらしく、タオルケットをずっと持って、小学校に上がるまで赤ちゃんでもないのに親指を吸っていたので、親指にタコができていた。
保育園に迎えに来てくれるのは、たいてい祖母だった。稀に母が迎えに来てくれると嬉しかった。祖母はその頃にしては大柄な女性で、大正元年生まれの頑固な祖母だった。優しいけど甘くはない。そんな感触だった。
 
人は、それぞれ育ってきた環境によって、自分の役割、こうしなくてはいけないというものを勝手に思い込んで生きているという。私は、近づいてはいけないという思い込みがあるということに気がついた。母がいそがしいから、近づいて邪魔しては、母の睡眠時間がなくなるから、母に近づいてはいけない。父の機嫌が悪いときに近づいたらとっても怖いから、近づいてはいけない。人との関係において、それがあらわれてしまう。自分で勝手に壁をつくる。そして、勝手にさびしがる。なんと面倒くさい女なんだろうか。
 
大人になっても、その4歳か5歳かの思考回路がそのままのこっていて、近づいてはいけないと無意識に思っているのだという。親しい友だちとも、心の底を打ち明けることができない。距離を保とうとする。そして、さびしさを抱えている。
 
とはいえ、私は6人家族で、今どきの家族形態を考えれば、にぎやかな家族だったと思う。食卓の席は決まっていて、奥のお誕生日席に父が座り、右隣に兄、兄の隣に祖母、父の左隣は妹で、妹の隣が母で、私はお誕生日席だった。朝は必ず父の顔色を伺って、しゃべってもいいか気配を感じとる。夜はお酒が入っているから、たいてい機嫌がいい。
 
3人兄妹ではたいてい、上と下が仲良くて、真ん中というものは仲間外れになるらしい。そして、真ん中は、変わっていると言われる。兄は長男だからとかわいがられ、妹は小さいからと大事にされ、真ん中は親の愛情を独占したことがない。私も兄妹の中でひとり変わっていて、勉強が好きな子だった。保育園のときに、2歳年上の兄の宿題を手伝っていた。小学校に上がったら、隣の保育園にいる妹を迎えに行く役目があった。私も母に迎えにきてもらいたかったのに、妹においては、小さな姉に迎えに来てもらってはさぞかし不満だったことだろう。
夕方公園で遊んでいて、妹を迎えに行くのを忘れたことがあった。慌てて迎えに行くと、担任の先生と一緒に、半べそかきながら妹が待っていた。
 
 
父は短気だった。お祭り好きな父は、家族で御香宮の夜店に連れて行ってくれた。賑やかな人出で、はぐれないように気をつけるけれど、家族がひとまとまりにはとうていならない。夜店は楽しいけれど、欲しいものがあっても買ってほしいと言えなかった。ぐるりと端から端まで行って、たいてい最後にある綿菓子やさんで、何も買っていないからこれにするかと言われて、私は買ってくれるのを待っていたのだけれど、そこでようやく綿菓子を買ってもらうというパターンだった。私が2歳のころ、御香宮のお祭りに車で出かけて、身重の母は、父と兄とはぐれてしまったらしい。短気な父は、はぐれたもんが悪いとさっさと車で帰ってしまったらしく、2歳の私を連れて、大人の足で30分ほど離れた家まで歩いて帰ったと言っていた。
 
そんな母のことを、私はかわいそうだと思っていた。小学校の担任の先生が、「私の妻は、かわいそうという言葉は上からものを言っているような気がするので使わないようにしている」と仰った。その言葉がとても印象に残っていて、私も使わないようにしているけれど、母のことをそう思っていた。父に大事にされていない。家族のなかでいろんなことをしないといけない。父に怒鳴られても黙っていて、何も言い返さなかったからだ。
 
 
そんな母のようになりたくないと思って、私は専業主婦にこれっぽっちもなりたいと思わなかった。自分で働いて稼ぐ。父のように男の人に偉そうに言われなくない。そんな感情があった。結婚相手には怒らない人がいいなと思っていた。
 
 
大学を卒業して、私はすぐ就職した。結婚することになったとき、相手は働いていない大学院生だった。私が働いているからなんとかなるかな、いずれ就職して働いてくれるだろうと思っていた。家事をしてくれるわけでもなく、家事はしてほしいと望まれ、私の稼いだお金は生活費に充てられ、私はお金の自由がなくなった。でも、家族のために働いているということに、自分の価値があった。怒らない人がよかったのに、蓋を開けてみれば、とても短気な人だった。結局、私は毎日のように、料理がまずい、掃除ができていない、お金を使い過ぎだと怒られて、私はなんてダメな嫁なんだろうかと自己嫌悪に陥る日々だった。それでも、母と比べればずっとましだと思っていた。私がよく知っている夫婦は、唯一両親だ。その夫婦に比べたら、私はずいぶんいい方だと。それで、長年我慢し続けた。一向に生活は変わらない。子どももできない。変わらないどころか悪化していった。夫が倒れた。思うようにいかないストレスが、私にぶつかる。一緒にいても、家族がいても、虚しさを感じるようになっていた。
ある日、仕事から帰ると、リビングにいた夫が、バイオリンを弾いていた。私がリビングにいると、気が散るという。一緒にいて居心地がよくないって、一緒にいられないということか。それって、離れた方が幸せだということではないか。
考えさせられた。別れたほうがお互い幸せになれるのではないか。
離婚を決意した。
 
私は、母のことをずっとかわいそうだと思っていた。父に怒鳴られ続けて、父に従い続けた。
日常の日々は、母にとっては辛いことが多かったのだろうと思う。中学生になったとき、私はひとり部屋をもらった。私の部屋の奥が母の部屋で、私の部屋を通らないと、母の部屋に行けない配置になっていた。
ある夜、母が私の部屋に来て、今日はここで寝かせてもらうといって、私のベッドの下の絨毯の上で寝たことがあった。父と喧嘩したのだろう。喧嘩というか、また怒鳴られたのだろう。私は、母が父に歯向かって反論するのを見たことがない。
母は、父に「出て行け!」と言われたら、出て行くところがないのだ。
弱い立場で、我慢するしかない。
 
 
私が結婚することになったとき、母の着物を借りるために、和箪笥を開けると、昭和の離婚届の用紙が出てきた。まだ昭和の時代に母は思い詰めて、離婚届を取りに行ったのだろう。それは白紙だった。
 
中学生になると、私が母に一緒に買い物に行こうと言っても、「自分で行っておいで」とついてきてくれなくなった。ゴールデンウイークにどこかに連れて行って、と言うと、母が植物園に連れて行ってくれた。でも、父がいないとおもしろくないと言った。母は、毎日怒鳴られても、父と一緒に行きたいのだ。
 
 
父はよく、親友たちと海外旅行に出かけた。
母を置いてアジアに旅行することが多かったけれど、母を連れて行ったのは、ハワイとオーストラリアだった。アジアからの旅行の土産話をしているときに父は、危険な目にあったりするから、お母さんは連れて行けないと言った。そして、私が大学生になって海外旅行に行きたいと言うと、行ってもいいと許されたのは、ハワイとオーストラリアだった。治安がいいからだろう。
 
 
その父が癌であっという間に亡くなった。毎日お見舞いに来ていた父の親友が、その後も母の様子を見に来てくれていた。同年会の仲間の奥様たちも、母を訪ねたり、誘ったり、連絡をとったりしてくれているようだった。みんな野菜をつくっているので、毎日のように野菜を母に届けてくれる。母は一人では食べきれないので、人にあげにいくと、また別のものをもらうのだそうだ。
よく母が野菜を私に送ってくれる。モロッコ豆に「お父さんの同級生の小寺さんにもらいました」と書かれたメモがはってあった。母は、父に生かされていると感じた。友だちのいなかった不器用な母は、父の交流のなかでの人間関係で生きている。母は幸せだなぁと思った。
 
 
父が緩和ケア病棟に入るとき、看護師さんからアンケートを書くように言われた。父には書く力さえない。私が質問を読み上げて、父に聞いて書いた。
「心の支えとなる人は誰ですか?」
支えだから、頼りになる人だろう、兄かなあ、と私は思った。
父はこう言った。
「やっぱり、お母さんかな」
意外だった。
母がしっかりしていなくて頼りないから、父は怒ってばかりいるのだと思っていた。
父は母に甘えていたのだ。甘えていないと怒ったりできない。
 
父は、それから1日経たずして亡くなった。どういうわけか、母と交代して私が付き添っている晩に危篤状態になった。アンケートを提出する前に書いたものを写真にとっておいた。
早朝に駆けつけた母にそれを見せた。母に父の思いを伝えたかった。母がそばにいるときでなくて、父は残念だったかなと思ったりする。でも、母がそばにいるときだったら、逝けなかったのかもしれない。
 
 
父の7回忌も終わったとき、
「お父さん怖かった?」と母に聞いてみた。
「怖かった」と言いながら、結婚35年のとき、父が自分の少ないお小遣いを溜めて、ダイヤモンドのネックレスを買ってくれた、という話をした。その気持ちが嬉しかった、と言った。
 
知らなかった。父の思いはすでに母に届いていたのだ。夫婦のあいだには、他からはうかがいしれないものがあるのだと思った。父も不器用だったけれど、それでも父なりに母を愛していたのだろう。
 
愛のかたちに定型はない。
父が亡くなってから、母は人生ではじめての一人暮らしをしている。私は、一人になるのが怖くてずっと離婚できなかった。この人以外に私と結婚してくれる人はいないと思っていたし、一人になりたくなかったから、暴言暴力があっても耐えていた。それほど、一人になるのが嫌だった。
夫婦で連れ添っても、結局一人になるんだなと思った。
 
先日、思い立って、母に逢いに行った。母に抱きしめられた記憶がない。きっとたくさん抱きしめてもらっただろうけれど、自分から甘えにいった記憶がなかった。がまんしていたから。
末期がんのお母さんに抱きしめてもらいたいという女性がいた。勇気を出して両親に伝えると、駆け寄ってきて両親からハグされたという。それを聞いて、私も母とハグしたいと思った。生きているうちに。それは、とてもとても恥ずかしいことで、死んだ方がましだと思うほどだった。本当に死んだほうがましなのか? いや、死ぬぐらいだったら、ハグしておきたいと思った。恥ずかしくても、かっこ悪くても、そんなのどうでもいいから、母とハグしたい。それで、母に逢いに実家に帰った。
当然、母は「なにし帰るの?」と尋ねた。「帰りたいから」とだけ答えた。
 
母と着物を家にある着物を一緒に見た。祖母が母のために嫁入り道具として用意した着物たちだ。
「あんたが着たら、おばあちゃんも喜ばはるわ」
母が言った。
「私がせいだい着てあげる」
「早いけど、誕生日のお祝いしてもいいか」と、母が言ってくれたので、
「ありがとう、でもハグしてくれるだけでええわ」と私からハグした。そしたら、母は、
「ええ、こんなんでええんか」と明るく笑いながら、うしろに回した手で、私の背中をポンポンと叩いた。
ポップに、軽やかに、まるでいつもしているかのようなハグだった。
抱きしめてもらっていないとか、甘えられなかったとか、私の勝手な思い込みで、母はいつでも私を甘えさせてくれていた。
 
「いまが一番幸せ」
しみじみと母が言った。
「お父さんと結婚してよかった」とも言った。
「ひとりぼっちでさみしくない?」
と私が聞くと、
「一人になれへんかったら、幸せになれへんやん」
とのたまった。
衝撃的だった。
私がこわくてこわくて恐れていることをしないと、幸せになれないと言っている。
どういうこと?
「孤独死してもいいの?」
「いいよー。その方が迷惑かけんでいいわ。ひとりでぽっくり逝けたら幸せ」と母。
私は孤独死するのがこわいのに、それが幸せと言う。
「独りでこわくないの?」
「全然! ひとりが気楽でいい」
ひとりというものは、とても幸せだと母が教えてくれた。
 
そのくせ、私に京都に帰ってこうへんか、とも言っている。
やはり、さびしさもあるのだろう。
 
私も、一人の私の幸せを味わおう。
それでも、愛する人ができたなら、私なりの愛を育んでいきたい。
私の幸せはかたちをかえてゆくだろう。
幸せのかたちは無数にある。
そこに愛があるかぎり。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
九條心華(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

同志社大学卒。陰陽五行や易経、老荘思想への探求を深めながら、この世の真理を知りたいという思いで、日々好奇心を満たすために過ごす。READING LIFE 編集部ライターズ俱楽部で、心の花を咲かせるために日々のおもいを文章に綴っている。

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2021-12-15 | Posted in 週刊READING LIFE vol.152

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