週刊READING LIFE vol.152

おあずけになった2回目の成人式《週刊READING LIFE Vol.152 家族》


2021/12/20/公開
記事:笠原 康夫(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
最後の吊り橋を渡りきれば、あとは平たんな道をひたすら下るだけ。もう少しで長い登山の行程を終える。目の前にある達成感は、この4日間にわたる疲労をすーっと和らげてくれた。
「これでお父さんにもいい報告ができるね」
「そうね。これで無事、2回目の成人式を終えられそう!」
妻は、疲れ果てた足取りながらも笑顔で答えた。
 
3泊4日の南アルプス登山の最終日。
南アルプスとは、日本列島の真ん中を南北につらなる赤石山脈のことを言う。日本には北、中央、南のアルプス山脈があるが、中でも南アルプスの南部は、登山口までの交通が不便で行きづらい。また山容が大きく、登山の行程が最低でも2日から3日以上要する。まとまった休みを取りづらいサラリーマンにとっては、つい足が遠のいてしまう地域だ。登山歴10年以上の私も足を踏み入れたことの無い未開の地だった。
 
2019年8月末、ある理由から南アルプスの聖岳(ひじりだけ)を登山することにした。
その理由とは、妻の名前にある。妻の名前は「聖夏」と書いて「きよか」と読む。初対面の人はなかなか読めないらしく、大体「せいか」と言われることが多いようだ。
聖夏と名付けたのは妻の父親。妻の父親は、無類の山好きで山梨県の某山岳会の会長を務めている。また、母親も山岳会に所属している。妻は山家族の一員なのだ。
妻は20歳の時に一度登頂した経験があるが、その時は不完全燃焼だったために2回目の成人式と称して再チャレンジをすることになった。
 
妻と初めて会った頃、自分の名前の由来を話してくれた。登山家の父親がもっとも愛する山が南アルプス南部にそびえる聖岳(ひじりだけ)でその一文字をもらって「聖夏」と名付けたのだと。
私も登山を趣味としており、その名前の由来には好感を持った。
 
妻の父は、公務員を定年退職後、当時暮らしていた神奈川県の公務員住宅を離れ、山梨県の山麓に移り住んだ。夫婦ともにライフワークとなっている登山を存分に楽しめる環境に身を移した。JRの最寄り駅から車で30分程度離れた奥地の集落だ。義理の父はその地で農園を借りて桃の栽培に精を出している。合間をぬって登山を楽しむ生活を送っている。
 
妻の父は無口な性格で私と二人でいてもあまり会話は弾まない。
年に数回、帰省するが、二人きりになった時、話題に困ったら山のことを話題にする。
登山という共通の趣味でなんとなく相通ずることができる。
 
義理の父は、地図に実線で示されていないルート、いわゆるバリエーションルートを志向する登山家だ。地図とコンパスを駆使して、最近では沢登りを中心に行っている。
一方、私はミーハーな登山家である。登頂した百名山の数を競ってみたり、流行りの登山ウェアに目移りしてばかりいる。登山という健康的、精神的な活動をしていることを他人から認められたいだけのひよっこ登山家だ。
同じ登山と言っても野球で例えるなら大リーグと河川敷の草野球くらいの大きな違いがある。
ただ、レベルの違いこそあれ、山の会話をしている時は何故かお互いの気持ちは接近している気がした。
 
帰省した際には、必ずJRの最寄り駅まで義理の父が車で迎えにきてくれる。
自宅までの車中では、よく山に関する話をする。
「南アルプスの南部の山に行くと、山の懐に入った気分になるんだよ」
ある時、車の中での義理の父がこう話してくれた。
「懐に入る」という表現は奥深い言葉だと感じた。だが、私にはその本当の感覚は理解できなかった。
 
妻は20歳の時に家族で聖岳に登山をした思い出話をよくする。その話はとても自虐的な苦い思い出話だった。当日は、雨続きで山頂は暴風雨。何とか家族で記念写真を一枚だけ撮影してさっさと下山してきた。
 
その後、妻は30代後半になるまで登山と無縁の生活をしていた。
30代後半になり、結婚し、登山好きの私と二人で登山をする機会が出てきた。
関東近郊の日帰りの登山から始め、徐々に八ヶ岳、北アルプス、そして九州の山々など行動範囲を広げていった。
しばらくすると妻の気持ちの中に、ある思いが芽生えるようになった。
それは、40歳の誕生日に合わせて、「2回目の成人式」として再度、聖岳登山をすることだ。20歳の時の雨の聖岳のリベンジをしたいというのだ。
 
そして、もうひとつ理由があった。
妻が25歳前後の頃、父親の間にある確執があったようだ。きっかけは些細なことだったのかもしれないが、2人の間の信頼関係に亀裂が入っていた時期があったようだ。妻は父親を罵る手紙を書いたこともある。
あれから月日が経ち、妻も40代を迎え、父が名付けてくれた聖岳を登ることで過去のわだかまりを自分の中で一掃したい気持ちもあったのだろう。
私は夫として、何としてでもこの妻の希望を叶えてあげたいと思った。
 
聖岳は数ある山の中でも難易度の高い山である。標高は3,000mを超える。登山道までのアクセスも不便で時間を要する。数日間を歩き続けられる体力はもちろん、登山技術、体調管理に加え当日の気象状況など条件がそろわないと難しい。
 
2018年の夏、万全の準備をした上で聖岳登山を計画した。
しかし、その年は、6月~7月にかけて中部地方が大きな大雨に見舞われ、南アルプス南部の登山道は通行止めになってしまった。せっかくの妻の「2回目の成人式」イベントはやむなく断念した。
代わりに他の山への登山に変更することも提案したが、妻の気持ちはあくまでも2回目の成人式として聖岳登山を成し遂げたいとの意思は固かった。聖岳以外の選択肢はなかった。
 
こうして翌年の2019年夏に1年遅れの2回目の成人式として改めて計画した。
登山ルートの選択肢はいくつかあるが、前泊で麓の山小屋に一泊し、山中で2泊3日の行程とした。
累計で20時間に及ぶ行程は、いざ山に入ったら容易には後戻りができない。
いよいよ登山出発日を迎えた。自家用車を駐車場に停めて、登山バスで山小屋まで向かった。
 
1日目、この日は山小屋に入り、前泊するだけ。
標高1,100mに位置する山小屋は、普段生活している標高0m地帯からするとかなり空気は薄く、またかなり肌寒い。森林に囲まれた環境で明日以降の登山に向けて気持ちを整えた。
 
夕暮れ前の山小屋の庭先でBS NHKの「グレートトラバース」のロケ班と遭遇した。日本全国の山々を行脚して踏破する田中陽希さんが宿泊していた。山の鉄人のような存在と同じ空間にいることに恍惚感があった。多分、我々とは別の登山ルートを辿るだろうが、こうして鉄人を間近に見ると明日からの登山のモチベーションが一層あがり興奮した。
 
午後八時、山小屋の早めの消灯の時間になった。
ただ、つい数時間前に田中陽希を見た興奮や遠足の前日のようなドキドキ感でなかなか寝付けずにいた。
それに輪をかけて相部屋の男性2人組の雷のようないびきに悩まされ、ほとんど睡眠できなかった。
 
ふたりとも熟睡できぬまま、登山本番の初日を迎えた。
眠い目をこすりながらも呼吸を合わせるように無理のないペースで歩を進めた。
登山道は前年の悪天候で荒れていた。登山道が崩れ落ち、迂回ルートを歩く。その急斜面の細い道は足への負担が大きい。
 
1日目の山小屋に到着した。山小屋では食事と睡眠が大切だ。標高の低い場所での睡眠でいかに体力を回復できるか。
だが、この日も相部屋の他人のいびきに悩まされた。
 
2日目の行程へ。
その日も声を掛け合いながら集中力を切らさぬよう上へ上へと進んだ。
地図上にはあるはずの橋も前年の大雨で流されてしまい、臨時の丸太が懸けてあるだけ。川に転落したら一大事だ。おそるおそる慎重に丸太の橋を渡る。
このような想定外のことも登山の思い出のひとつだと自分たちに言い聞かせて2日目の行程を終えた。
 
そして登山の最終日を迎えた。
次第に疲れも溜まり、会話も少なくなってくる。ただ黙々と進む時間が増えた。
五感を研ぎ澄ますと、鳥のさえずり、風に木々が揺れ動く音、自分たちの足音だけ。鬱蒼と木々の生い茂る登山道を進む。一歩一歩、登山靴のソールと地面のグリップを確かめながら地面を踏みしめていく。
ひたすら黙々と進んだ。ふと気づくと無心になって登山道をひたすら進んでいた。山の懐に入るとはこういう心境なのかとうっすら感じた。
 
その瞬間、いつか義理の父か話してくれた言葉を思い出した。
「最近は桃の栽培が忙しいけど、畑で桃と向き合って没頭している時は一心不乱に集中できる時間なんだ。登山している時の感覚と同じなんだ」
深みのある言葉だと思った。
登山の醍醐味とは無心で集中できる時間をつくること。この贅沢な時間の使い方こそ登山の価値なのではないかと思った。
私も登山愛好家として、少しずつ義理の父の言葉の意味がわかりはじめてきた気がした。
 
こうしてなんとか念願の聖岳の登山を無事終えることができた。

 

 

 

その年の年末、山梨の実家に帰省した。改めて義理の父と膝を突き合わせて聖岳登山の報告をしようと思った。その日は父が畑仕事で外出中だった為、珍しく義理の母が駅まで迎えにきてくれた。実家に着いて母と妻と3人でお昼ご飯を食べながら、その夏の聖岳登山を話題にした。
 
「今年は念願の聖岳に登頂出来て、お父さんにいい報告ができますよ。何と言ってもお父さんの一番のお気に入りの山に行けたんですからね!」
「……」
母の顔が少し曇った。そして母はおそるおそる語り始めた。
「実はね、お父さんが一番好きな山は聖岳じゃなくてその隣の赤石岳なのよ。最初はお父さんは赤石岳から名前をもらって「赤子(あかこ)」にしようって言ってたんだけど、「赤子」だとなんだか年を取っても赤ちゃんみたいだから、それで隣の聖岳の聖をとって「聖夏(きよか)」にしたのよ」
「?!」
まさか、ここで衝撃の新事実をカミングアウトされるとは……
妻が40年以上、両親から聞かされてきた聖岳説はなんと誤情報だった。正しくは赤石岳が一番のお気に入りだったことが発覚した。
 
「……」
妻も私もしばらく絶句した。
しばらくして二人は気を取り直し、「次は赤石岳にリベンジだね」と苦笑いした。
 
こうして、新たな登山の目標ができた(できてしまった)。
義理の父が健在なうちに妻と赤石岳に登頂したい。そして今度こそは父の一番好きな山に登頂したことを胸を張って報告したい。
 
 
山は普遍的な存在だ。義理の父も私にとっては山のような大きな存在だ。共通の趣味を持つ家族がいることを幸せに思う。
 
現在の義理の父と私の信頼関係はどれほどだろうか?
もしかすると登山でいえば未だ道半ばの5合目くらいかもしれない。
 
いずれ赤石岳を登頂した暁には、義理の父と私の信頼関係はより深耕できるだろうか。
その時は父の好きな芋焼酎で杯を交わしながら、登山話に花を咲かせたい。
そして父の懐に深く入り込んでみたい……
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
笠原 康夫(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

岐阜県生まれ。東京都在住。
ふとした好奇心で21年4月開講のライティング・ゼミに参加。これがきっかけで、気づいたら当倶楽部に迷い込んでしまった50歳サラリーマンです。謙虚で素直な気持ちを忘れずに、実践を積んでまいります。

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2021-12-15 | Posted in 週刊READING LIFE vol.152

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