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週刊READING LIFE vol.155

青空に溶けあう《週刊READING LIFE Vol.155 人生の分岐点》


2022/1/31/公開
記事:篠田 龍太朗(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
物心ついたときから、我が家はおそろしく貧乏だった。

 

 

 

澤田圭一(さわだけいいち)は、江戸時代から続く、かつて豆腐屋を屋号とした家の生まれである。澤田の家というのは、農作物の行商といくばくかの農地を抱えており、山陰の山あいの村落のなかでいえば、わりに裕福なほうだったらしい。
6つで圭一が地元の尋常小学校に入学するころには、自分の家がいかに悲惨なものか、圭一は自分の頭でもうはっきりとわかっていた。
 
原因はひとつしかない。
 
とてつもない馬鹿親父のせいである。
 
圭一の父は、その名を昭三(しょうぞう)といった。
少年時代の昭三は、そこそこ裕福な家のちょっとした不良に過ぎなかったのだが、早くに両親を亡くすと一気に乱行の歯止めが効かなくなったという。その裏側にあるのは両親を失った孤独だったのか、はたまた自分の器量ではとうてい務まらない、家長としての重圧だったのかは誰も知らない。
 
とにかく昭三は、二十歳のころには家の田畑も商売ももうみんな放り出して、朝は博打、夜は酒におぼれたらしい。早くに遠戚の年ごろの娘を嫁にもらったが、行状はいかんともしがたい。家計は回らない。祝言のわずか三か月後には、もう家に金目のものはほとんど何も残っていないというありさまであったという。
 
圭一は、そんな家の生まれであった。小学校に入学はしたが、あまりの貧乏ゆえ七歳にして中退せざるを得なかった。とても学校なんかに安穏と通える経済状態ではなかった。毎日、小さな身体を目いっぱい使って、朝から晩まで汗水たらして畑仕事を手伝う日々。一生懸命働いたって、そこら中からの借金のせいで月々の利息すら満足には返せない。三日に一度は、どこぞの借金取りがやってきた。日が暮れると、稗や粟をまぜたわずかな麦飯を母と妹と三人で分け合った。そして母子三人、布切れのような薄汚れた布団にくるまって、酔った父の鉄拳に怯えながら、なんとか眠る毎日であった。

 

 

 

幸い、圭一は貧しい暮らしに耐えながらすくすく成長した。

 

 

 

事件が起きたのは、圭一が二十歳になった、ある昼下がりのことである。
 
珍しく、父が昼間に家に帰ってきた。
 
「おい、おめぇら、いいか」
 
酒がきれてわなわな震える手を反対の手で押さえながら、言った。
 
「俺ぁ、来年からアメリカに行くぞ! そこで一発、当ててやるんだ!」

 

 

 

……ぽかん。

 

 

 

その時の情景に音をつけるとしたら、まさしくそんな音だろう。
 
畑仕事で真っ黒に日焼けして、がりがりに瘦せこけた母はその場にへたりこんで、音もなく泪をこぼしはじめた。その手は、三十代の女のものとは思われないほど、水気のない皺だらけのものであった。

 

 

 

こうして昭三は、村のだれからも見送られることなく、街の掲示板で見かけた「一攫千金思いのままに! いざ行かん米国集団移民」の言葉につられて妻子をのこし、独り米国へと旅立っていってしまった。明治28年(1915年)のことであった。

 

 

 

時は流れた。
あれから十年。
 
圭一は三十の立派な男になり、所帯を持つようになっていた。幸い、五人の子宝にもめぐまれた。昭三が旅立ったあとは、一家のあまりの窮状をみかねた親戚や近所の人々が援助してくれ、何とか暮らしていくことができるようになったのである。
 
昭三がいなくなったことで、かえって貧しいながらも穏やかで平和な暮らしを掴むことができた圭一。この日も、朝から田畑の草むしりに精を出していた。

 

 

 

「……圭一さん、ちょっといいかね?」
振り返って顔を見上げると、訪ねてきたのは顔馴染みの村の役人であった。
「なんでしょう?」
「あんた宛で役場にこんな封筒が届いとるけど、何か知っとるか?」
 
圭一は、黙って封筒を受け取ると、恐る恐る封筒の中身を取り出した。
 
中から出てきたのは、英語の書類であった。むしろ、田舎の村から出たこともほとんどなく、小学校にも一年しか通っていない圭一には、それが英語なのだということすら分からなかった。とにかく、異国の見慣れない文字列が並んでいる。
 
役人は続けた。
 
「わしも英語は分からんけどな……」
圭一は、英語と聞いてアメリカに行くと言ったきり消息を絶った昭三のことだろうと、何となく話しの内容を予想しながら、ごくりと生唾を飲んだ。
 
ところが、役人の話は圭一の想像をはるかに超えるものであった。
 
「……気落ちせんで聞いてくれよ。どうやらこれは、出ていったあんたの親父さんの死亡証明書と、それから死ぬときにかかった医者の手術代の請求書らしい。あんたの親父さんは向こうで何年かふらふらしたあと病気になったんだが、金がないので碌な医者に見てもらえんかったらしい。それで、仕方がないので怪しい闇医者に頼んだ手術が上手くいかんで、すぐ亡くなったらしいんだわ。それで、その医者に払う手術代を、親父さんを連れていった移民団がしぶしぶ立替えたが、昭三さんの身元がなかなか分からんくてな。二、三年かかって、ようやく昭三さんの地元がここだと分かったらしく、この役場まで話しが来たと」
 
「……」
 
圭一は、目の前が真っ暗になった。
 
あの父が米国行きをぶち上げた日、母がそうなったのと同じように、自分も畑でへたりこんでしまった。あのときの、「ぽかん」という聞こえないはずの音。
 
あの音が、今度は自分の脳内に、何度も何度もこだました。
 
さすがの役人も、圭一の心中をおもんばかって、何も言わなかった。
 
しばらくして、ようやく自分の頭がよろよろと動き始めた。
 
「それで、親父の手術代は、なんぼあるんですか。」
 
「……650ドル。だいたい1300円じゃ」
 
当時の1円は、いまの貨幣価値で3800円くらいの価値があったという。ということは、いまの価値で5百万円ぐらいの債務が、圭一の身に降りかかってきたということになる。
田舎の貧乏百姓が、とうてい返せる額ではない。また圭一は、畑に倒れ込みそうになった。
 
ひとまず圭一は、催してきた吐き気をこらえながら、また相談させてくれとだけ役人に言い残して、畑仕事を続けた。

 

 

 

圭一は、鍬をふるい、汗を着物のそでで拭いながら、消息を絶った昭三のことを思い出していた。
 
昭三との良い思い出は、何ひとつなかった。
 
酒と博打におぼれ、酔って妻子を殴りつけるだけの父。
幼いころに、遊んでもらったことも話しを聞いてもらったことも、そしてほめてもらったことも一度もなかった。
近所の幼なじみたちが、父親の話をするたびに惨めな思いがして、腹の底がしくしくと痛んだ。
そして死してまで、多額の借金をかかえて我が子やまわりの人様に迷惑をかけてきた。
 
―ほんとうに、とんでもない親父のところに生まれたものだ。
 
今度は、母やら妻やら五人の我が子の顔が、次々と脳裏に浮かんだ。
母の人生はとにかくつらかったであろうが、決して人を欺いたり、貧乏だからといって人を陥れたりするような真似は決してしない人であった。
妻は畑も家のことも、ほんとうによくやってくれている。
子どもたちも、何とか今のところ、皆元気にたくましく育ってくれている。
 
―これから死ぬまで、借金から逃げ続ける親父の背中を、我が子に見せられるのか?
―それは、借金を残して死んだ馬鹿親父と、結局は一緒ではないのか?

 

 

 

まったく眠れない夜を三度過ごしたあと、圭一は家族を集めた。

 

 

 

いつもと違って神妙な面持ちの父の目を見て、賑やかな子どもたちも、しんと静かになった。
 
「お前たち、聞いてくれ」
「……わしは、お前たちのじいさんの遺したとてつもない額の借金を返すために……、アメリカに行くことにした。アメリカは遠いし、生きて帰れるかも分からん。けどな、わしは借金から逃げ続けて、人様に迷惑ばっかりかける姿を、お前たちに見せたないわ」
 
一瞬で色をうしなった妻子の表情を見て、彼女らの頭の中には、きっとまた「ぽかん」が響いていることだろうと思いながら、続けた。
 
「これからわしはアメリカで仕事を探して、借金を返しながら、何とかお前たちに飯を食わせてやるけん。……大丈夫。安心せえよ。」
 
しばらくしてから、妻はようやく圭一が発した言葉の意味を理解したようで、とたんに泣き出した。子どもたちもそれにならって、大声で泣きはじめた。
 
妻の肩を抱き、自分も嗚咽しそうになりながら、日本男児は泣いてはならぬとばかり、目頭にぐっと力をこめて零れる涙を目の中にとどめた。昭和5年(1930年)の、暑い夏の盛りのことであった。

 

 

 

こうして、圭一は父親とは別の団体の米国移民団にかけあい、「父の遺骨を取りにいく」という名目で、格安でサンフランシスコ行きの船に乗せてもらった。
 
アメリカの地に降り立つと、異国に降り立った感動もそこそこに、圭一は移民団に挨拶をして、そっと姿をくらませた。
 
サンフランシスコの日本人街に身を寄せ、圭一の第二の人生がはじまった。
 
「第二の人生」といえば聞こえはいいが、これは壮絶なものであった。
言葉も分からず、学もない東洋人が米国の地でありつける仕事など、本当に限られている。せいぜい植木職人か大農場の百姓くらいのものであった。圭一は、なんとか植木職人の仕事にありついて、「イエローモンキー」とか「ジャップ」とか侮蔑されながら、毎日必死になってアメリカの金持ちたちの庭の手入れを行った。来る日も来る日も、庭木の選定に追われた。
 
同じ境遇の日本人と、風呂無しの6畳ほどのアパートメントに身を寄せ合いながら、毎日必死に過ごした。もらったわずかばかりの給金は、移民団に返済する手術代と本国の家族へ送金する金で、ほとんど消えていった。遊ぶ金や暇などなく、来る日も来る日も働きづめであった。

 

 

 

さらに圭一たち在米移民に暗い影を落としていったのが、日米の関係悪化であった。
満州事変、日中戦争開戦と日本は戦争の道をひた走るなかで、国際的にも孤立を深めていった。米国における日本人移民の肩身は、ますます狭いものとなっていった。

 

 

 

そして、昭和16年(1940年)12月8日。圭一たちにとって、最悪の事態が起きる。
日本軍はハワイの真珠湾にあったアメリカ海軍基地へ奇襲攻撃を行った。
太平洋戦争が始まったのである。
 
ついに、日本はアメリカの完全な敵国となった。敵国の在米日本人および日系人はスパイの疑いがあるとして、のべつ幕なし、捕虜として強制収容所におくられることとなった。
 
むろん、圭一もその一人であった。突然の開戦であったため、母国に最後の手紙を出すこともままならないまま、砂漠地帯の収容所の一角にある、粗末な小屋に放りこまれた。
 
収容所での生活は、過酷をきわめた。
外の情報は一切入ってこず、来る日も来る日も農場で強制労働である。
 
宿舎の小屋はサンフランシスコのアパートメント以上にひどいものであり、夏はめまいがしそうなほどに暑く、冬は外と同じくらいの寒風が絶え間なく吹き込んできた。そして常に砂埃が入り込み、日本人たちはいつも身体中、泥だらけであった。食事もきわめて粗末なもので、皆がりがりに痩せていった。

 

 

 

それでも、圭一は耐えるしかなかった。
日本に残した家族との約束を果たすことだけが、彼の生きる望みとなっていたのである。
 
五人の我が子と妻の姿をまぶたに浮かべながら、ただひたすらに耐えた。
あるとき、ふと自分の手をまじまじと見た。
 
汚れて真っ黒になった、皺だらけの手。三十五歳になった圭一は、あの日の母と同じ手をしていた。今度は、思わず目から大粒の涙がこぼれた。

 

 

 

やがて、4年以上にもわたる拘留の末に、日本軍の敗北で戦争は終わった。終戦とともに、捕虜となった在米日本人はようやく、釈放されたのである。
 
耐え続けた圭一にとって、もはや怖いものなどなかった。
 
いつしか熟練の境地に至った植木職人としてのその腕は、サンフランシスコの資産家という資産家に知れわたるものとなった。
「ケイイチ・サワダの技術は素晴らしい」と称賛が相次ぎ、アメリカ市民権を付与された圭一への庭仕事の依頼が絶えることはなかった。日本の家族へは、クリスマスになるとグリーティングカードと銀紙包みのチョコレートを一袋、送ってやるようになった。
 
こうして昭和25年(1950年)過ぎには、ついに悲願であった父・昭三の借金の返済を終えたのである。
 
そして二十年、圭一はアメリカで一流の植木職人として働きつづけた。もはや彼には耐えることも、暮らしむきの不満もなかったが、ある思いが生まれつつあった。

 

 

 

「今や俺は、身も心もアメリカに染まっているが、やはり死ぬときは祖国で死にたい。」
 
圭一のアメリカからの援助の甲斐もあって、今や郷里で大きな商店を営むまでになった息子に手紙を出した。
 
息子からの返事は、短くて温かいものだった。
「父さん、お帰りなさい。私はこの日を待っていました」

 

 

 

そうと決まれば、のこるアメリカの日々は短いものであった。このとき、圭一はすでに老い先短い七十五歳の身である。苦労して手にいれた家を処分し、使えそうな家財道具は世話になったまわりの日本人に残らず配ってやった。
 
こうして、昭和45年(1970年)。圭一はサンフランシスコ空港から羽田行きのジャンボジェットに乗り込んだ。
 
機上の人となって、圭一は思う。
 
「……我ながら、とんでもない人生をおくったものだ」
 
圭一の人生は、少年時代も青年時代も、徹底的に父に振り回された。
例え父が酒乱であったとしても、アメリカに行くなど言い出さなければ自分は異国の地を踏むことなどきっとなかっただろう。
本来なら、片田舎の百姓として、慎ましやかに平和な暮らしを続けたことであったろう。
 
小学校を中退した圭一は、満足に字を読むこともできなかったが、いつしかアメリカの地で、生き抜くための術として、英語の読み書きを完全に習得していた。つらい日々のなかで、いつか家族に話して聞かせるためにと英語で書き残した日記帳は、五十冊をゆうに超えていた。

 

 

 

機内に持ち込んだ日記の一冊をパラパラとめくりながら、思う。
若かりし頃のサンフランシスコや収容所での強烈な体験の数々が、色褪せることなく圭一の脳内に蘇ってくる。
 
「……あの父のもとに生まれて、よかったのかもしれない。」
 
あの馬鹿親父がああやって異国の地を踏んだから、自分も異国で居場所を見つけることができたのだ。
何よりも、我が子に逃げない親父の背中を見せ続けることができたのだ。
 
辛く厳しかったが、このうえなく愉快で痛快な人生であった。

 

 

 

圭一はふと、窓の外をちらりと見やる。
その向こう側には、どこまでも澄みきった青空が広がっている。そんな風景を眺めながら、圭一は生まれてはじめて、生涯恨みつづけた馬鹿親父に感謝したのだった。
 
アメリカと日本の、その間に広がる空の上。七十五年のときを超え、彼らの思いははじめて一つに溶け合った。
 
 
 
 
(本稿は、私の曽祖父の実体験をベースにしたフィクションです)

□ライターズプロフィール
篠田 龍太朗(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

鳥取の山中で生まれ育ち、関東での学生生活を経て安住の地・名古屋にたどり着いた人。幼少期から好きな「文章を書くこと」を突き詰めてやってみたくて、天狼院へ。ライティング・ゼミ平日コースを修了し、2021年10月からライターズ俱楽部に加入。
旅とグルメと温泉とサウナが好き。自分が面白いと思えることだけに囲まれて生きていきたい。

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2022-01-26 | Posted in 週刊READING LIFE vol.155

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