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週刊READING LIFE vol.157

荒れた海で人生の折り返し地点を確認する《週刊READING LIFE Vol.157 泣いても笑っても》


2022/02/14/公開
記事:伊藤朱子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
それはもうすぐ50歳になるという秋に起こった出来事だった。
 
お客様からの急な呼び出しを受けて、なんだか嫌な予感がした。もう、プロジェクトのスタートまで2週間を切っている。様々な準備が整い、スタートを切るその日を待っていた。時間をやりくりしてお客様の会社へ行くと、耳を疑うようなことを言われた。
 
「土地、売れたんだよね」
「は? それは土地を売ったということですか? 売りに出したということですか?」
「うーん、だから、土地が売れたんだよ」
 
あまりの驚きに、無意識に瞬きが激しくなるのがわかる。嫌な予感は私の予想を遥かに超えた内容だ。土地がないならプロジェクトは実行できない。プロジェクトがなくなったということだ。
 
まさか、このプロジェクトもこんなことになるなんて……。
私は、その1ヶ月前に起こった出来事を思い出した。1ヶ月前、別のお客様からも予定の変更を告げられていた。「プロジェクトを見直すことにします」と担当者から電話。それはつまり全ての準備を取りやめるということだった。
 
どちらのプロジェクトの中止も私に非があるわけではない。全てがお客様の都合だ。そのため、2件とも準備にかかっている費用については円満に精算をしてくれることになり、経済的なダメージは大きくはなかった。しかし、私は完全に気が抜けてしまった。立て続けに2件のプロジェクトがなくなり、忙しく過ごしていた時間にぽっかりと穴が空いた。もちろん、他にも関わっているプロジェクトとはある。そのプロジェクトに前向きに取り組んでいる気持ちは変わらない。とはいえ、2件のプロジェクトは今までの経験した中でも大きなプロジェクトだったせいか、気持ちも時間も張り詰めて状況から、簡単に言えば一気に暇になったのだ。
 
新しいプロジェクトはいつも新鮮だが、どこか仕事の流れには慣れてきてしまった部分もあった。どのプロジェクトも多少の難しさはあるものの乗り越えられないという気持ちはなく、一度動き出せばプロジェクトの最終形が見えている。ところが、今回はその慣れた流れをいきなり断ち切られたのだ。最終形を見たくても見ることができない。幻のプロジェクトになってしまった。「人生、何が起こるかわからない」とはよく言ったものだ。20年以上独立して仕事をしていて、「こんなこともあるものなのか」としみじみと思う。どうして同じ時期にこんなことになるのだろうか。星のめぐり合わせが悪いとか、見えない運気の流れが悪いとか、そんなことも考えたくなる。
 
何か状況を変えなければならない。ふと、そんなことも思う。
気がつけば半世紀も生きてきて、いろんなことに慣れが生まれてきている感じがした。仕事も日々も生活も、自分の心地いい状況の中で無理をしないで過ごしてきた。それはそれで安定しているのだが、新しい流れはできてこない。この2件のプロジェクトのキャンセルが、いつもと同じ流れでこのまま進んでいくことの限界を暗示しているのかもしれないと思った。
 
ちょうど、もうすぐ50歳の誕生日を迎える。人生100年時代と言われる中、まだ折り返し地点ぐらいだと捉えることができる。折り返した先も今と同じような人生が続くのであれば、なんだか退屈な気がした。もっと何かを変えてしまいたい。そう思いつつも、仕事を辞めるとか、そんなことは現実的ではない。趣味の範囲や体験という範囲の中で、実はまだやってみたいと思っているのに経験したことがないものをやってみたらどうかと思い付いた。
今は時間と気持ちに余裕がある。何かにチャレンジにするには絶好のチャンスだ。
 
頭の中を空っぽにして、全身で今まで感じたことのない感覚を味わってみたい。そう思った時、友人からダイビングに誘われていたのを思い出す。はっきり言うと、いままで体験ダイビングもしたことはないし、海の中の魚にも全く興味がない。しかし、海に潜り、泳ぐという感覚については興味があった。
全身水に覆われている中で、息をして、ふわふわと浮いている感覚。外の音は聞こえず、自分の呼吸の音を感じる。お風呂の中で頭まですっぽりと湯船に浸かることでしか、水中を体感したことがないけれど、水中ってどんな感じなのだろう。海の中ではきっと癒されるにちがいない。
 
ちょうど50歳の誕生日は土曜日だった。事前にテキストと動画での勉強をすれば、講習は二泊三日で完結する。私は思い切って金曜日に休みをとり、自分の誕生日にかけて講習を受けることにした。新しいことを始めるにはちょうどいい、記念になる日だ。
 
基本的な動作はプールで講習を行うところもあるのだが、申し込んだダイビングショップでは、浅い海での講習だった。当日、少し緊張しながら現地へ行く。海には波がたっていた。少し海が荒れているのではないのかと思ったが、インストラクターは何も言わず準備を進めている。その様子を見ると、講習を中止にするほどではないのかと思った。私自身もその波をみても不思議と恐怖心はなかった。説明を受け、重い機材を背負い、インストラクターに誘導されながら海に入っていった。
 
目印の浮きのところまで水面を泳ぎ、そこからのびたロープをつたいながら潜行していく。
潜行しながら耳抜きをしなければならないのだが、それがうまくできず、潜って行くことができない。耳が痛くて水面に上がってしまったのだ。3度目のチャレンジでなんとかロープをつたい、講習のできる場所まで潜ることができたが、正直に言うと耳の違和感がとれなかった。
海の中はものすごくうねっていた。講習のために同じ場所に留まっていなければならないのだが、容赦なく体が流される。固定されているバーに足を引っ掛け、自分の体を支えながらインストラクターの指示に従う。
 
そんな悪条件ではあったが、なんとか1日目の講習を終えることができた。体はすごく疲れていたが、初めての体験に少し興奮気味で、びっくりするくらいお腹が減っていた。講習を終えてからの遅い昼食で、私はいつもなら絶対に食べられないどんぶり一杯のご飯を食べ切った。
 
2日目の講習の日も、相変わらず海は荒れていた。そして、講習の内容は1日目より少しハードになった。ハードになった内容でも、時間がかかりながらもなんとかクリアしていく。
しかし、海に入る前の説明を聞いた時から、どう考えてもクリアするのが難しいと思われることが一つだけあった。いよいよ、その内容を実行しなければならない時が来た。
 
目と鼻を覆っているマスクを完全に頭から外し、それを再度付け直すこと。それは、私にとってとてつもなく難しいことだった。1日目の講習の際も、ほんの少しマスクの中に海水を入れ、それを鼻で息を吐きながらマスクの水を外に出す練習をしていた。その際にもうまくできず、鼻から水を吸い、そして海水を飲み、苦しい思いをした。それが、今度はマスクの中を全部海水で満たさなければならない。マスクに水が入っていれば、目も開けられない。このマスクの中の水を出すのに、鼻から息を吐かなければならないのだが、吐いた反動で吸ってしまい、結局海水を一気に海水を吸い上げることになってしまった。慌てれば慌てるほど、呼吸が苦しくなって、状況はますます悪くなる。鼻から海水を吸ってむせてしまえば、今度は口からも海水を飲んだ。口で吸って口から吐かなければいけない原則を忘れ、慌てているから鼻からも吸ってしまう。海水をたくさん吸って、飲んで、「溺れて死ぬってこういうことなんだ」と頭をよぎる。
 
私は、あまりの苦しさに目の前にいるインストラクターの肩をつかんだ。うねる海の中で、必死だった。インストラクターはもがいている私に落ちつくようにと私の腕を叩き、呼吸をするように促した。内心、うまくできずもがいていたら、何かしらインストラクターが手助けをしてくれるのではないかと思っていた。しかし、彼は手を出さず、ただただ呼吸のリズムを整えるように私にわかるようにジャスチャーをするだけだった。
やっとの思いで呼吸を整え、落ち着いて鼻で吐いてマスクの中の水をだしていく。全ての海水を出すことができて、やっと安心して息が吸えるようになる。
 
2日目の講習が終わった時、心底疲れて口も聞きたくないぐらいだった。インストラクターも私のぐったりとして様子を見て、「明日はもう、辛い講習はないですよ」と声をかけてくれた。そんな言葉も信じられないくらい、もうやっていける自信もなくなっていた。
 
夕食の後、旅館で部屋の中で一人座っていると、なんだか急に涙が出てきた。今日は私の誕生日だ。
なんでこんなことやってみようと思ったのだろう。全然楽しくなくて、うまくできないことが情けない。誕生日のその日に私は一体何をしているんだ。誕生日だと言えば、優しい友達がご飯に誘ってくれたり、お祝いもしてくれる。家族と楽しい時間を過ごすのだってよかったんだ。いつものように歳を重ねていけばよかったんだ。
 
旅館の部屋で一人、メソメソ泣いている自分がさらに情けなくて、もうどうにもならなかった。これから先に人生で起こる出来事にちゃんと向かい合っていけるのかもわからなくなるほど、無力な気持ちになった。少し涙を拭いて、廊下にあった自動販売機で缶ビールを買い、部屋で一気飲みをした。もう酔っ払って寝てしまうしかなかった。
 
私はこの時、最近の私は自分のできることしかしてこなかったという事実を思い知らされていた。人間は心地よいコンフォートゾーンからそんなに簡単には抜け出したりしていないのだ。
 
人間にはコンフォートゾーン、ストレッチゾーン、パニックゾーンという3つ心理的領域があるといわれている。コンフォートゾーンとは快適な領域であり、状況や環境に不安のない状態、安心して過ごせる状態のことをいう。ストレッチゾーンとはコンフォートゾーンを少し出て、自分の能力を超える仕事やスキル、未知の体験をするときに不安がある状態を指す。無意識に行動できる慣れ親しんだ状態から一歩踏み出しているので、ストレッチゾーンとは心地の悪い状況だが、これを心地の良い状況に変えようと意識的に努力することで人間は成長すると言われている。
さらに、そのストレッチゾーンよりは先は、さらに不安レベルが高くなったパニックゾーンがあると言われ、許容範囲を超えストレスや負荷が強すぎる状態である。
 
私にとってダイビングに挑戦することは、軽い気持ちでストレッチゾーンに身をおくことだったはずなのに、パニックゾーンに陥ってしまったのだ。心のどこかで、ダイビングの講習なんて、そんなに大変じゃないと思っていたのかもしれない。でも、思った以上に大変で、海の中で何もできない自分に自信をなくし、こんなことに挑戦したことを後悔した。何かができなくて涙が出るなんて、最近の生活の中では起こり得ることではなかった。
 
最終日の海は穏やかだった。
昨夜の涙もあり、本当はもう潜りたくなかった。全く、楽しいという気持ちも湧いてこなかった。
インストラクターが「今日の実技は難しいものはないので、ダイビングを楽しみましょうね」とにこやかに言う。そんな言葉を聞いても全く感情が動かなかった。
 
講習の成果か、海が穏やかだからか、耳抜きも潜行もなにもかもスムーズだった。
魚が泳いでいる。初めて、冷静に海の中を眺めた。インストラクターに手を引いてもらい、泳いでいるような感じになる。ふと、インストラクターが手を離す。
ゆっくり足をキックするようにとインストラクターのジェスチャーがある。落ち着いて口から吸って、口から吐いてさえいれば、死ぬことはないと自分に言い聞かせる。
 
もしかして、海の中を浮かんで泳いでいるのかな。
そんな感覚を初めて味わった。
気持ちいい。
息を吸って、吐いて、そのことだけに集中する。
耳から聞こえるその音で生きていることを実感した。
やっと周りの世界が見えて、いろんな魚が泳いでいるのが目に入った。
 
浜に上がると、インストラクターが言った。
「少し、楽しかったですか?」
私はうなずく。
「昨日までの2日間、すごく海が荒れていたから、伊藤さんが怖いっていったら中止しようかなって思っていたんですよ。でも、怖いって言わなかったからね。度胸ありますね。これから先、楽しみで潜る海はみんな穏やかですから、あんな海に出会うことは滅多にありません」
 
それを聞いて、私は笑いが込み上げた。
なんだ、私、ちゃんとやれていたんだ。
 
日常の仕事は、多少のストレッチゾーンに入ってはいたのかもしれないが、圧倒的に慣れてしまっていたのだ。そんな、ほぼコンフォートゾーンにいる中で、ダイビングをきっかけに本当のストレッチゾーン見つけたような気がした。
涙がでるほど頑張らなくてもいいかもしれないけれど、今よりもっと本当は何かを変えるチャレンジできるんだ。自分のストレッチゾーンを今よりもハードル高くすることも可能なのだ。
 
泣いても笑っても人生は一度きり。折り返したここから先は、せっかくチャレンジするならもっとハードルを高くしよう。
 
パニックから始まったダイビングが本当の癒しになる頃、私はきっともっと思い切ってストレッチゾーンに飛び込んでいるだろう。
そして、成長する時にちょっと傷ついた気持ちや心を癒しに、何度も海に潜るに違いない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
伊藤朱子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

建築設計事務所主宰。住宅、店舗デザイン等、様々な分野の建築設計、空間デザインを手がける。書いてみたい、考えていることをもう少しうまく伝えたい、という単純な欲求から天狼院ライティング・ゼミに参加。何かを書き続けられるのであれば、それはとても幸せなことだと思う日々を過ごしている。

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2022-02-09 | Posted in 週刊READING LIFE vol.157

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