週刊READING LIFE vol.157

虫歯と10人の諭吉《週刊READING LIFE Vol.157 泣いても笑っても》


2022/02/14/公開
記事:田盛稚佳子(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
 
 
私には、どうしても仲良くなれない相手がいる。
それは「虫歯」という存在だ。
あの連中はどうして、私の上の歯ばかり狙ってやってくるのだろう。
 
もうかれこれ半年以上も、歯医者に通っている。
一日三回以上、歯磨きはしているし、デンタルフロスをこまめに使い、舌苔という舌につくゴミをキレイにする舌専用クリーナーまで使っている。決して歯磨き嫌いではない。
それでも、どうやら一般の方よりも虫歯になりやすいタイプらしく、一つの治療が終わりかける頃には、新しい虫歯がちらっと顔を出してくるので非常に厄介だ。
まるで、ゲームセンターでモグラたたきをしているような、歯がゆい気持ちになる。
 
ちなみに、私が病院の中で一番苦手なのも残念ながら歯医者である。
最低月二回は入っている予約を、さてどういった理由でキャンセルしようか、延期しようかと毎回考え込む。
朝の天気予報で今週末は雪が降ると言っていたので、できるだけ外には出たくない。歯医者であれば尚更のことである。
綺麗な字で日時を書かれた診察券とにらめっこしながら、行けない理由を考えあぐねるというのが、目下の私の日常だ。
 
 
ちょうど昨年の今頃、上の歯に大きな虫歯が見つかった。
しかも、20年以上前に治療した奥歯の銀歯の部分だった。
事前に撮影した歯のレントゲン写真を見ながら、担当医が説明する。
「ほら、ここを見てください。上のほうに黒くて大きい影が見えるでしょう? ここは早めに治療しないと、どんどん広がっていくんです」
「え? でも先生、痛みとかまったくないんですけど」
「ああ、それはこの歯がすでに神経を取っているから気づかないだけです。もし、これが大きくなっていくと、神経がまだ通っている隣の歯に悪さをしだしますよ。そしたら必ず痛みが出てきます。あまり治療を先延ばしするのはオススメしませんね」
「うーん、そうですか……。じゃあ、やはり治療しなくちゃダメってことですよね」
と一気に落ち込んだ。
「ただ……」と担当医が前置きをした。
「今回のこの治療については、保険がきかない方法しかないんです。ですから、今日は一旦、見積もりをお出しして、治療開始までに決めていただくということで」
「先生、どうしても保険がきかないんですか?」と私は食い下がる。
「はい、申し訳ないのですが」と担当医は、年上の私に本当に申し訳なさそうに言った。
胸騒ぎがした。ちょっと待ってくれ。見積書が必要なほど治療代がかかるのか?
 
そして、待つこと約5分。
「田盛さーん」
と呼ばれ、目の前に提示された見積書を見て、私は思わず目が点になった。
「はいっ!? じゅ、10万円ですかっ?」
一つの歯に10万円だとーーー!?
派遣社員でボーナスもない身分の私に、はい、どうぞとすぐに出せるかぁ!! と心の中で絶叫した。
担当医がその内訳を説明してくれているが、ほとんど頭には入ってこなかった。
10人の福沢諭吉が私の頭の上をひらひらと飛び回っている姿が見えた。
しかし、女45歳。騒ぎ立てるにはちょっと年が行き過ぎる。落ち着け私、落ち着け私……。
できるだけ平静を装いながら、
「わかりました。ちょっと考えてから、また日時は予約します」と帰路についた。
 
家を出る時よりもさらに落ち込んで帰ってきた私を見て、同じく半年以上歯医者に通っていた母が言い放った。
私は無言で見積書を見せた。
「あらー、結構な金額がかかるのねぇ。でも、しょうがないじゃない。いい? 頭痛とか胃痛とかは薬で治るけど、虫歯だけはどんなに放っておいても少しも治らないんだからね」
口を挟む間もなく母は続ける。
「でも、10万円は頑張って働いたら稼げる金額でしょ。食べることが好きなチカコなら、歯の大事さは一番わかるんじゃない? 違う?」
ぐうの音も出なかった。
たしかに、母の言うとおりだった。
 
ふと祖父のことを思い出した。
私と同じように食べることが何よりも好きな祖父を亡くしたのは、病気で胃ろうを取り付けたことも深く関係していた。
胃ろうとは、食べ物を飲み込むのが難しいという嚥下障害を起こした際に付けるもので、お腹に開けた穴にチューブを取り付けて、直接、胃に食べ物を流し込む方法である。
飲み込む力を使わずに直接栄養を摂ることができ、誤嚥性肺炎の予防になるメリットがある一方で、感染症や皮膚潰瘍などのデメリットもあることが一般的に言われている。
それまで長年、和菓子職人でもあり、食事をすることが唯一の楽しみでもあった祖父にとってはかなりショックだったようで、術後、家族に対して感情的な思いがむき出しになったり、落ち込んだりを繰り返していた。
次第に自宅では介護ができなくなり、入院をしなければいけないほどに体力は落ちていった。
衰弱しながら人生の最期を迎えた祖父を看取った経験から、楽しみを奪われることはこんなにも人の感情と人生を左右するのかと深く考えさせられたのを今でも覚えている。
「死ぬ寸前まで、なんとか自分の歯で食事をしたい!」
と強く思っている私にとって、他に選択肢はなかった。
やはりお金がかかっても治療は必要だと決心した私は、一週間後、担当医に
「先日の見積書通りでお願いします」
と告げた。
 
幸運にも私の通っている歯医者では、治療前の局部麻酔がまったく痛くないというメリットがあった。
通常、歯医者に行くと、あの歯茎に針をブスブスと刺される麻酔だけで、気が狂いそうになり、思わず歯科医の胸ぐらをつかみたくなるような衝動に駆られるのだが、ここではそういうことはなかった。
しかも、可能な限り歯を削らない、抜かない治療ができるようにマイクロスコープ(顕微鏡)を10年以上活用して実績を残しており、口コミで通院する患者も多いため、予約が取りにくいこともある。
通院のたびに「前回から痛みや気になるところはありませんか」と親身になって聞いてもらえるし、治療も丁寧である。念のため、麻酔が切れた際の痛み止めは処方されるものの、今まで使用したことは一度もなかった。
また、毎週は通えないことを考慮して時間を割いてくれたので、多少期間は長くかかったものの、早めに治療を開始したことが良かったようだ。
当初の予定よりも歯を削る箇所が狭くて済んだのと、被せる金属も歯に負担の少ないものを選んでくれた。
「あの時は、ぼったくりだ! だと思ってごめんなさい」
と心の中で担当医にこっそり謝っておいた。
最終的には、10万円の予定だった治療代も7万円程度で済むことがわかり、金額も気持ちの上での負担も少しだけ減った。
見積書を見た時の母の一言と、亡くなった祖父には感謝している。
 
 
先日、またもや上の歯の治療で歯医者を訪れていた際のこと。
新しい虫歯の治療をしている合間に、受付のお姉さんが担当医のところに急いでやってきた。
「先生、この後の○○さん、キャンセルだそうです」
「そっか……。わかりました」
私は目を閉じていたが、声だけでも明らかに担当医の落胆ぶりがわかった。
 
その時にふと思ったのである。
治療を受ける側の憂鬱もあるが、治療する側の憂鬱もあるのではないか、と。
歯科医という道を選んだとはいえ、別に見たくもない他人の口の中を嫌というほど見なければいけないし、好き好んで歯を削ったり抜いたりするわけではないはずだ。
しかも私のように、治療法や治療代に食い下がってくる面倒な患者もいるだろう。
先生たちも、患者である私たちのそれぞれの治療計画を考えながら、
「今回はここまではやっておきたい、あとは治療後の経過を見てから計画をまた考えよう」
としているのだ。
当日キャンセルとなると、その日の予定だけでなく今後の治療計画も少しずつ崩れてしまうということになる。削りたくもない歯を削る箇所が増えるかもしれないからだ。
体調不良や急な仕事で行けなくなったという場合は仕方ないが、私のように
「歯医者が嫌いだから、怖いから、なんとか理由をこじつけてキャンセルしたい!」
と陳腐な理由でキャンセルすることは、先生たちをすごく傷つけているのではないだろうか。
その一件で、今までの自分を反省した。
よほどのことがない限り、当日キャンセルはするまい。
 
泣いても笑っても、人は年を取る。
泣いても笑っても、歯医者の予約日は迫ってくる。
何年経っても、おそらく一生「虫歯」という存在とは仲良くなれそうにないが、担当医が私と虫歯の仲裁役であると言ってよいのではないだろうか。
治療を嫌がる私をなだめ、虫歯が過剰に悪さをしないようになだめながら取り除いてくれる。
せっかく時間を担当医が空けてくれているのだから、きちんと自分の体と向き合おう。
悪いところは少しでも早く治して、食べることを楽しめる人生を一年でも一日でも、長く延ばしたいと思っている。胃ろうの人生だけはまっぴらごめんだ。
あいにく先日の予約日は雪が降るほどの寒さだった。
でも寒いから行きたくないという選択肢を私は選ばなかった。
保険証と診察券を握りしめ、完全な防寒対策をして勢いよく玄関を飛び出していった。
私に時間を空けてくれる担当医のために。そして、数十年後の自分のために。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
田盛稚佳子(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)

長崎県生まれ。福岡県在住。
西南学院大学文学部卒。
ライティング・ゼミを受講後、READING LIFE編集部ライターズ俱楽部に参加。
主に人材サービス業に携わる中で自身の経験を通して、読んだ方が一人でも共感できる文章を発信したいと思っている。

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2022-02-09 | Posted in 週刊READING LIFE vol.157

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