吾輩には名前がある《週刊READING LIFE Vol.158 一人称を「吾輩」にしてみた》
2022/02/22/公開
記事:伊藤朱子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
私が知っている一番有名な「吾輩」を語る生き物、それは猫だ。みなさんもよくご存知、夏目漱石の小説の中に出てくる猫である。この「吾輩」には名前はない。残念ながら最後まで名前をつけられずにその生涯を閉じる。
小説の中の猫は名前がなくても生きていけるけれども、人間はそういうわけにはいかない。人間は生まれてすぐに名前を授けられる。生まれる前から名前が準備されている人も多いかもしれない。
生まれてきた子供に名前をつける行為は、親になった人間が初めてその子供にしてあげられるプレゼントであるとも言える。仮に、有名なお坊さんが名付け親であっても、その子にとっての祖父母が名付け親であっても、その名前の最終的な決定権は親にあるだろう。これからその子が一生つきあっていく名前を、親は覚悟をもって決めているのである。
残念ながら、私は子供に名前をつけたことがない。もし、子供を授かったら、どんな名前をつけようかと想像したことはある。しかし、それは現実にはならなかった。名付けることの大変さを知ることができない。
一緒に働いている若いスタッフが、産後復帰した際に、子供に名前をつける大変さを話してくれたことがあった。漢字の意味や画数も気になるが、彼女が気にしたのは自分の友人や夫の友人の中に同じ名前の人がいないか、ということだった。名前は如実にその人を思い出させる。だから、もし自分の子供と友人が同じ名前だと、どうしてもその友人のイメージが思い浮かんでしまい、なんだか変な気分になるというのだ。そして、名前は呼んだ時にしっくりくるかという、音も大切な要素だということだった。
彼女の高校時代の先輩でとても素敵な名前の人がいた。その先輩の名前は、美しい海、「美海」と書いて「ミミ」と読む。その字の通り、美しい青い海のように爽やかな女性だというのだ。そしてその「ミミ」という音に合う可愛らしさもある。後輩からも「ミミ先輩」と慕われ、人気者だった。
「名前って音も大事だと思うんですよね」と彼女に言われた時、私は自分の名前について感じている強いコンプレックスの始まりを思い出した。
小学6年生の時、私は自分の名前が、なんともやっかいなものであることに初めて気がつく。それは、国語の時間に書いた作文を、全校生徒の前で朗読するとことになった時のことだった。朗読発表を明日に控えた放課後、私は練習のために国語の先生に講堂に呼ばれていた。朗読をする生徒全員が順番に呼ばれ、練習をする。練習の時間は一人15分。講堂には明日の発表会のための椅子が並べられ、そしてスタンドマイクが設置されていた。私はそのマイクの前に立ち、先生からの指示を待った。
「伊藤さんは、まず名前の練習からね」
そう言われたが、先生が言っている意味がわからなかった。明日は作文を朗読する会である。もちろん、自分の名前を名乗る必要はあるのだが、その名前を声に出して練習する必要があるのだろうか。
「ほら、あなたの名前って音がきついでしょ。だから、きつく聞こえないように名乗らないとダメなのよ」
と先生は続ける。
私の名前は「朱子」という。読み方は「シュコ」である。先生曰く、名前の音が二音のうえに、「シュ」と「コ」がつまった音であるから、聞いた時に聞きづらいし、きつく聞こえるというのだ。
私はマイクの前で、自分の名前を声にした。
「6年B組、イトウシュコ」
「ちがう、ちがう。もっとコを優しく言わないとダメ。はい、もう一回」
先生は何度もダメ出しをした。「シュ」より「コ」は息を優しく吐きながら声にするとか、優しい気持ちで言いなさいとか……。私は「まだ、きつい」と言われるたびに、気が滅入った。
挙句の果てに「そんなふうにきつく名前を名乗るから、性格も気が強い印象になるのよ」と言われ、涙がでそうになった。
そもそも、自分の名前が優しい雰囲気で聞こえないといけないのか。気が強く思われて、なんのデメリットがあるのか、そんなことは小学生にはわからない。その性格ゆえに嫌われて、友人もいないというのであれば改善する必要もあったとは思う。しかし、当時の私はただの普通の小学生で、それなりに楽しく過ごしていた。
結局15分の練習時間で、作文は一度も読むことはなく、「イトウシュコ」を何度も繰り返し練習させられた。
その日、私は夕食の時間に、この練習のことを両親に話した。二人はその話を聞きながら大笑いをしている。
「私が、シュコ! って怒鳴るからいけないのかしら。そんなきつい言い方しか聞いてなかったから、あなたも自分の名前を強く言うようになっちゃったのかしらね。反省するわ」
そう言いながらも、母が笑っている。父もそれに同意しながら、そして、笑っているのである。
私に名前をつけた二人は、この音の問題をまったく気にしていないようだった。
次の日、朗読発表会で、私は緊張し、そして自分の名前「シュコ」のところを小さな声でつぶやいた。優しく聞こえていたかはわからない。少なくとも、自信なく聞こえていたのは間違いないだろう。
私はこのことがきっかけで、自分の名前を名乗る時に少なからず身構え、緊張するようになった。
今まで気にしていなかった名前について、私の中で何か問題として顕在化したのだ。
小学生の頃、同級生の女子同士はあだ名や名前で呼び合うことが多かった。私はあだ名をつけられることもなく、名前で呼ばれていた。友人たちが呼んでくれる名前は、国語の先生が言うような音のきつさを感じることもなく、私には心地よく親しげに聞こえていた。それなのに、なんで自分が口にするときつい音に聞こえるのだろう。
中学生になってからも、変わらず友人たちは親しげに呼んでくれたが、私の中ではずっと「シュコ」とういう音に対して敏感になっていた。
中学生になったある日、委員会で一緒になった先輩男子に名乗った時のことだった。
「変わった名前だね」と彼は言った。それには大した意味はなかったのだろう。しかし、自分でも薄々、割と珍しい名前であることを認識し始めていたので、その反応にがっかりした。自分の名前が、珍しい名前できつい音で、全くいいところがないように思えた。
その日、私は父に、なぜ「朱子」という名前をつけたのか聞いてみた。
父は迷わず答えた。「朱色が一番好きだから」
その拍子抜けする答えに怒りさえ覚えて「理由はそれだけ?」と詰め寄る。今でこそ朱色のイメージは広がっているが、中学生の私にとってのそのイメージは、採点で先生が使う赤鉛筆の色だった。もっと他に理由はないのか、もっと自慢できる、納得できる理由が欲しかった。私は少なからず、父がつけた名前のおかげでがっかりしたり、傷ついたりしていたのだから。
しかし、父は私にもっともな理由を言ってくれるのではなく、さらに驚くようなことを言ったのである。
出生届を書く役所のカウンターの上、最後の最後まで「洋子」と「朱子」とどちらを書くか迷ったというのだ。女の子は結婚して苗字が変わることが殆どである。どんな苗字になっても「ヨウコ」であれば、相性が良さそうだ。「洋」という漢字も好きだった。しかし、今この伊藤の姓だと「イトウヨウコ」となり、「ウ」が二つ入って、音が伸びすぎだと思ったというのである。それに、目立ちたがり屋の父らしい「ちょっと変わった名前がいいだろう」という判断がはたらき、最後には「朱子」と書いて提出したというのだ。
父は言った。
「伊藤と朱子は音も書いたときのバランスもバッチリだろ」
私はその話を聞いて間髪入れず「洋子が良かった」と父に言ってしまった。父はちょっと驚いた様子で私を見て、「そうかぁ」とつぶやいたのだった。
「名は体を表す」とよく言うが、名前は人の一生の間に何度も声に出し、呼ばれ、文字として書き、それを見る。耳からも目からも、その情報を受け取り続ける。生まれた時の子供が真っ白なまだ何も形作られていないものだとしたら、その後の人生で刷り込まれていくだけ、だんだん名に合う体をなしてくるのも間違いない。
逆に言えば、体をきちんと表すために名前を考える必要もある。わかりやすいのは企業名や商品名で、企業の目指すところや商品の内容や特徴がわかりやすくい名前はブランディングにおいても重要である。社名や商品名などはマーケティングのツールとしての役割があり、その名前が与える印象が大きく売り上げを左右する。内容と名前の一体感、覚えやすさ、独自性など、よいネーミングに必要な要素というものがある。
今ではすっかり馴染みのある伊藤園の「おーい、お茶」という商品も初めは「缶入り煎茶」という名前で売り出されていた。その商品名を変えただけで、大きく売り上げを伸ばしたという話もある。それだけ名前というのは人に与える印象を左右するものなのだ。
大人になり、独立して仕事をするようになると、不思議なことだが「伊藤朱子」という名前がプラスになることが増えていった。伊藤という苗字は平凡だが、朱子は珍しい名前だ。名刺交換をした時も、こちらから「朱子」まで名乗らなくても、名刺をみて反応してくれる人は多い。大抵の場合、名刺交換をしながらお互いに相手の特徴を何か探している。そんな時「お名前はなんて読むのですか?」と聞かれることがあるのだ。
名前を聞かれると緊張するのだが、国語の先生のアドバイスを思い出しながら「シュコと読みます」と静かに答える。その名前のおかげで、多くの人の中でほんの少し印象を残すことができるのかもしれない。そして、いつの間にか仕事関係の人たちもお客様も「シュコさん」と呼んでくれるようになっていた。
「シュコさん」と呼ばれれば呼ばれるほど、私はますます「朱子」になっていくようだった。
父にその話をすると、嬉しそうに「伊藤朱子でよかっただろう?」と言われた。父はいつでも自分のしたことに自信がある人である。「洋子」じゃなくてよかったと言わせたいのだろう。
私は父にもう一言付け加えた。
「伊藤と朱子が合いすぎて、苗字が変えられないよね。だから二度も伊藤に戻ってきちゃったし。今度は伊藤の姓の人を探さないとダメってことだね。今度はそうするよ」
父は笑いながら私を見て「まあ、そうだな」とつぶやいた。
「洋子」だったら、もっと別の人生だったかもしれない。そして苗字は「洋子」にぴったり合うものに変わっていたかもしれない。
そんなことも頭をよぎるが、もうこれだけの年月が流れると、私もこの名前によって体をなしてきているのがわかる。
今でも名前を名乗る時、少し緊張する。ちゃんと聞き取りやすく、優しく言えているのかと考える。そして、やっぱり名刺を出す時も「伊藤です」とは言うが「朱子」まで名乗ることはほとんどできない。
電話口で名前を名乗らなくてはならない時も、必ずと言っていいほど「シュコ」を聞き取ってもらえず聞き返される。いつものことだと思いながら、ゆっくり優しく「コ」を発音することを意識して、もう一度「イトウシュコです。朱色の朱に子供の子って書きます」と説明をする。
聞き取りにくいそれでも、周囲の人達がいつの間にか私の名前を呼んでくれる。子供の頃からそうだった。私は自分の名前をうまく言えていなかったかもしれないが、いつも周りは親しげに呼んでくれていた。
私は周囲の人たちの優しい口調の「シュコ」という音に支えてもらって今の自分があるのだ。名は体を表してくれるのだが、結局、私のことを私が作り上げるのではなく、周囲の人や環境が私を作ってくれているのだろう。
聞きにくいその音を、優しい音に変えてくれる人たちが周りにいる。私にはそれが大事だったのだ。私は、まだまだきつくしか発音できないかもしれないが、きっと沢山聞いているうちに、その優しい音に近づいていくに違いない。
「吾輩は猫である」という語り口には、自分の「猫」というポジションに対する自信を感じる。しかし、この猫には残念ながら「名前」はなかった。
大抵の人間はこの猫のように自信満々で自らを「吾輩」といい、語り出すことは少ないだろう。でもそのかわりに、この猫が持っていなかった「名前」をみんな持っている。名前を呼び合い、互いを確認し、人はその素敵な名前に彩られた人生を歩んでいくことができるのだ。
そして、もし一人称を「吾輩」にかえることがあるとしたら、それは心の中でそっと行われるだろう。自分が何者なのか、名前と一緒に作り上げてきた自分を認識する。
「吾輩は伊藤朱子である」と心の中で言えたら、きっとその時は「伊藤朱子」が一番しっくりと馴染んだ、そんな自分が出来上がった時に違いない。さて、それはいつになることやら……。
でもきっと、一生に一度くらい、その時はやってくると信じている。
□ライターズプロフィール
伊藤朱子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
建築設計事務所主宰。住宅、店舗デザイン等、様々な分野の建築設計、空間デザインを手がける。書いてみたい、考えていることをもう少しうまく伝えたい、という単純な欲求から天狼院ライティング・ゼミに参加。何かを書き続けられるのであれば、それはとても幸せなことだと思う日々を過ごしている。
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