週刊READING LIFE vol.161

人生100年時代を謳歌する、生涯現役の「カメ」という生き方《週刊READING LIFE Vol.161 人生100年時代の働き方》


2022/03/14/公開
記事:今村真緒(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
「今度、書道教室をするから来てみないか?」
父から電話があったのは、休日の夕方だった。ちょうど晩御飯の準備をしている時間帯だったけれど、平日とは違ってそう慌てて作らなくてもいい感じだ。私は少し父と話すことにした。
 
父は、書道が趣味だ。始めてから、かれこれ20年経っている。私と違って寡黙で器用な父は、字が上手く、水彩画なんかもサッと描く。一つのことに夢中になると、黙々とやり続けるタイプだ。以前実家を訪れたときにも、開けっ放しの玄関から声を何度も掛けたのに、集中していた父には全く届いていないこともあった。
 
父が、実は3年前に書道講師の認定試験を受けていたことを知った。自分のことを、あまり積極的に言う人ではない。「書道を教えられるようになった」と、ちょっと照れたような、でも誇らしそうな声に、私の顔も緩む。父の部屋に行けば、楷書で書いたものや、何と書いてあるか解読できない書体で書かれた作品が積み重ねてある。その濃い墨の匂いに、時間を忘れて没頭する父の姿が思い浮かんだ。
 
「書道の先生になるの?」
私が問うと、父は少しはにかんだように「うん」と答えた。詳しく聞いてみると、父の通う書道会では、講師資格を持った人が3年を1タームとして順に持ち回りで教えるそうだ。一人の先生が、ずっと教えると言う訳でもないようだ。父は来年80歳を迎える。今から受け持つとすれば、82歳まで教えることになる。
 
父は、10年前までは自営業を営んでいた。商売をしていたというのに口下手で、接客は専ら社交的な母の担当だった。父はどちらかというと裏方担当で、手間暇惜しまず遅くまで真面目に働いていた。一生懸命すぎる父は、一時もじっとしていることがない。そして、物事を辛抱強く最後までやり遂げるのだ。商売人というより、職人気質じゃないだろうかと思う。「ウサギとカメ」のお話ならば、父は間違いなくカメだ。
 
書道教室の当日、私は少しドキドキしながら会場に向かった。お習字なんて、一体何年振りだろうか? 道具は、娘が幼い頃に使っていた書道セットを押し入れから探し出して準備した。会場に着くと、父が講師としてちょうど紹介されているところだった。世話人の方に「一言どうぞ」と言われて立ち上がった父の姿に、なぜかこちらまで緊張する。
 
口下手な父は、マスク越しでも顔が強張っているのが分かった。昔から、想いが深くても上手く言葉にすることがとても苦手な人だ。思わず、心の中で「頑張って、頑張って」とエールを送る。少しつかえながらも、自分が書道に出会ったきっかけやそこから学んだ経験などを、ぽつりぽつりと話す。そうかと思うと、自分の中の情熱が溢れ出すぎて、言葉がちょっと空回りすることもある。人前に出て話すことは、父にとって昔からハードルの高いことのようだった。
 
ところが、そんな父に驚かされたことがあった。私の結婚式での両家代表挨拶のときだ。私の夫は幼い頃に父親を亡くしていたため、代表で私の父が挨拶をすることになったのだ。正直に言うと、今までの父からすれば、あまりにも簡単に挨拶を引き受けたような気がしてならなかった。大勢の人の前で話すことは、家族や友人たちとの雑談とは違う。口数が少なく感情表現が苦手な父に、そんなことを頼んで大丈夫だったのだろうか。私は当日まで気が気ではなかった。
 
披露宴の終盤になり、いよいよ父のスピーチが始まると私が緊張してきた。まるで自分が喋っているかのように、父の一言一言に確認するように頷いてしまう。ところが私の心配をよそに、父は落ち着いた朗々とした声で大役をやってのけた。しかも心温まる内容に、次に手紙を読まなければならない私が先に涙ぐんでしまった。
「お父さん、すごい!」
私は心の中で父に拍手を送った。苦手なことをお願いしてしまったと思っていたけれど、そんな心配は必要なかったのだ。きっと私の知らないところで、何度も練習したのかもしれない。娘の門出に毅然とした姿を見せてくれた父に、私は強く胸を打たれたのだった。
 
そういえば、父が書道を始めたのは、私が結婚したくらいからだったことに気づいた。あれから月日が経ち、こうして再び人前で話す父を見ると、体が一回り小さくなったと改めて思う。最近では入院することもあったり、元々痩せ型の体形はさらにスリムになったりしたけれど、相変わらず軽やかな動きと粘り強さは健在だ。こちらから見ると疲れないのかと思うけれど、性格的に気づいたら動かずにはいられないらしい。思ったら即行動というのは素晴らしいけれど、娘としては、その仕事量に見合うくらい、いつか報われてほしいと願わずにはいられない。
 
無事に父の挨拶が終わり、書道教室がスタートした。
久しぶりに筆を握ってみると、持ち方さえ覚束ない。「とめ」「はらい」という言葉を何となくは覚えているけれど、どのくらいの力加減でやるのかすぐに戸惑ってしまう。他の生徒さんに教えていた父が私の横に来た時を捕まえて、早速質問タイムに入る。筆の持ち方から紙の上での筆の運びを、朱色の墨瓶を片手に私の字を添削してくれる父は、家で見るよりきりっとして見え、生徒さんから次々に質問されてひょいひょいと動いていく様子は、忙しくも楽しそうに見えた。だいぶ耳が遠くなっているから、ちゃんと補聴器をつけるように言わなくちゃ。生徒さんと父の姿を見ながら、そんなことを思う。
 
お手本の他に、自分の好きな文字を書く時間もあった。この日は春めいて眩しい光が会場に射しこんでいた。私は、「春」「芽」「明」「菜」という字が思い浮かび、それらを練習してみた。半紙に一文字を書くのは案外難しく、画数や字のバランスで書き易さに差があることも再発見だった。一文字なんて簡単に書けるようで、そうすぐには思うようにできるものではない。書いては前のものと見比べて、少しずつアップデートさせていく感覚だ。やはり、書道など「道」と名の付くものは、根気とバランス感覚が必要な作業だと改めて思った。
 
父は冒頭の挨拶の中で、毎日必ず練習する時間をとるのだと言った。日々の積み重ねで、少しずつ自分が書きたい形に近づけていく。そのためには、まず姿勢を正して心を落ち着ける。筆に含ませる墨の量の塩梅、筆の一筋に込めるちょっとした力の入れ具合、そして書き上がる字のイメージを膨らませるなど、毎回研究の繰り返しだ。「字は体を表す」という言葉のとおり、そのときの心の状態が見事に字に反映されるという。そのような研鑽を積んでこそ、道を深めていくことができるのだ。
 
わずかな時間だったが、書道に対する父の向き合い方を知り、一つのことに真摯に取り組むことの意義を再確認することになった。確かに書に向かっているとき、いろんなことを考えながらでは字が乱れてしまう。その一瞬に心を込めなければ、「とめ」が甘かったり、「はね」が尻すぼみになったりしてしまう。忙しい日々にこんな時間があれば、自分を振り返る良いきっかけにもなりそうだ。静かに自分と対話しながら、真っ白な紙に心を映すのだ。その心地良さに、思わず書道の沼に引きずり込まれかけている。父からこのまま書道を続けてはと提案され、前向きに取り組もうかと思い始めた自分に、私が一番驚いている。
 
そんな今回のお手本は、「永」という一文字だった。永久の永。末永くの永だ。
父が選んだのか、他の方と話し合って決めたのかは分からなかったけれど、その文字の表す意味に、勝手ながらこれからの父の意気込みが見えたような気がした。
 
60歳あたりから書道を始めて、まもなく20年になる父。人生100年時代と言われるようになった今、まだまだこれから生涯現役で役立ちたいと考えているようだ。黙々と歩くカメの歩みはゆっくりだけど、決して止まることはない。
 
生活のための仕事も必要だけれど、生活の張りやパワーの源となるようなライフワークを持つことこそ、長寿社会にとっては必要なことなのかもしれない。体にはくれぐれも気をつけて、没頭できる何かに向かってじっくりと自分のペースで進んでもらいたい。真っ直ぐに書に向かう父を眺めながら、人生のゴールに向かうまでの心構えを教えてもらった気がした。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
今村真緒(READING LIFE編集部公認ライター)

福岡県在住。
自分の想いを表現できるようになりたいと思ったことがきっかけで、2020年5月から天狼院書店のライティング・ゼミ受講。更にライティング力向上を目指すため、2020年9月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部参加。
興味のあることは、人間観察、ドキュメンタリー番組やクイズ番組を観ること。
人の心に寄り添えるような文章を書けるようになることが目標。

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2022-03-09 | Posted in 週刊READING LIFE vol.161

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