週刊READING LIFE vol.192

あなたの選択はどっちだって正しい《週刊READING LIFE Vol.192 大人って、楽しい!》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2022/11/07/公開
記事:清田智代(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
あれは今から3年前、コロナ禍直前の2019年のことである。
 
の9月頃にまとまった夏休みが取れそうなので、ちょうど開催のタイミングの良かったフランスのマラソンに申し込んだ。
しかし、あまり気にせずに申し込んでしまった。このマラソンは、常軌を逸したイベントであるということを。

 

 

 

まさかこのマラソンを走る間、人生を変えるまでの経験をすることになるなんで、誰が予想できただろう。

 

 

 

そう、このマラソンは確かにフルマラソンのイベントなのだが、メインは「ワイン」を飲みながら走るということだ。ワインがお好きな方であれば、既にその名前にピンときていることだろう。そう、このマラソンの舞台は、フランス南西部、ボルドー地方を流れるジロンド川の河口域の左岸にある、ボルドーワインの産地のひとつ、メドック地区だ。このメドック地区には、高品質、かつ高級ワインを生産するシャトーが存在する。
 
ちなみにこの「シャトー」はフランス語で「城」を指す。しかしこの地域は少し特殊で、ブドウの栽培からワインの醸造、瓶詰めまでを行うワイン生産者を意味する。メドック地区では19世紀にこれらのシャトーの格付けが行われ、それが今でもほぼ不動のまま、ワイン界に君臨している。格付けされたシャトーのこれらワインは通常、高級ワインとして市場で高く取引されている。しかしメドックマラソンでは、シャトーの敷地でふるまわれ、ランナーはこれらのワインを試飲することができるのだ。

 

 

 

また、実はメドックマラソンには毎年ユニークな「テーマ」が設けられていて、参加者の多くは、そのテーマに沿った衣装を身にまとって走る。2019年のテーマは「スーパーヒーロー」だった。とはいえスーパーヒーローに限らず、自分の好きなコスプレを身にまとうランナーも多い。私もスーパープリンセスを目指さんばかりに裁縫上手な友人にお願いし、丈の短い浴衣のようなコスチュームを身につけて挑んだ。
 
このイベントはマラソンのくくりにとどまらない、非常に個性的なものだから、世界中のモノ好き達を惹きつけている。2019年は60カ国から約30,000人の応募があり、その中から約8,500人が集まった。このうち、日本人ランナーは445人もいたらしい。ゼッケンとともに配布された案内冊子によれば、募集開始からわずか2時間でキャンセル待ちになるという。
メドックマラソンは、半ば伝説的なマラソンなのだ。

 

 

 

【人生を変えた6時間半】
さて、このメドックマラソンは遊び心いっぱいながら、制限時間は6時間30分とおしりが決められている。
 
ここで私たちランナーには、厳しい選択が迫られる。
「飲むか、走るか」
さて、私たちはボルドーの地で、どちらを優先すべきか。
 
フルマラソン初心者の私は、初めての海外でのマラソン挑戦ということもあり、とにかく制限時間内に「完走」することを目標にした。
しかし、私は与えられたこの時間で、予想よりはるかに多くのモノ・コト・ヒトに遭遇することになる。
 
● 現地入りからスタートまで
1日の計は早朝にあり。4時半のモーニングコールで起床し、身支度をして5時半にはホテルの朝食を摂った。混雑やセキュリティ対策のため、スタート時刻の2時間前には現地入りできるよう、6時半にはボルドーのホテルを出発した。この時点で、フランスの空はまだ暗かった。
7時台にはマラソンのスタート地点のポイヤック村に到着した。ようやく空が明るくなりはじめた移動中で、車窓から見えるのは一面のブドウ畑。しかし空はどんよりとした雲に覆われ、窓ガラスにはパラパラと神の雫……ではなく空から落ちてきた雫がしっかりと地面を濡らすようになり、降雨という想定外の事態に不安を感じるように。ポイヤックでは霧雨のような雨が降っていた。車を降りると、寒い……。しかし写真を撮ったりしていたら、周りはいつのまにか仮装をしたランナーがあちこちをうろうろ。みんないい歳して仮装の気の入りようがすさまじかった。
私たちはスタート地点に最前列にいたはずが、いつの間にか前にガタイの大きなランナーに何人も横入りされるはめに。そしてどこからともなくパジャマを着た小さな女の子をリヤカーに乗せた集団が後ろからグイグイと人込みから無理やり前に来て、最前列を占領しました。この国には「早い者勝ち」の文化がないのかもしれない。女の子をリヤカーで引いてフルマラソンを走るつもりなのだろうか……。混雑度200%の満員列車の中にいるような状態で、あとからあとから大きなランナーに前の列を占領されていく…。周りの人の体温のおかげでいつの間にか寒さを忘れてしまった。
9時になると開会式のセレモニーが幕を開けた。主催者メッセージやスポンサーの紹介が始まったものの、私の語学力ではいまいち何を言っているのかわからなかった。その後、ふとうしろを振り返るとクレーンで吊るされたダンサー数名によるショーが、ポップな音楽とともに繰り広げられていた。
そしていよいよ、スタート5秒前。
5!
4!
3!
2!
1!
スタート!
42.195kmの旅が始まった。
 
●1km-15km : 走る楽しさを感じる
いざ出走してみると、周りのペースの速さにつられてしまい、普段は出さない速いペースで走っていた。沿道には子供からおじいちゃん、おばあちゃんまで、たくさんの人たちからの声援やバンドの演奏で賑わっていた。ゼッケンにはローマ字で名前が記してあり、私にもみんな笑顔で名前を呼んで応援してくれたのが嬉しかった。
スタート地点のあったポイヤック村の街中を通過した後、景色は一変する。目の前には、背の低いぶどう畑が視界に広がった。
コースはやがて、舗装がされていない農道へ。ランナーたちが勢いよく走るものだから、視界は土ぼこりで茶色い。汚れひとつなかった黒のランニングシューズも、いつのまにか土色になっていた。そしてランナーたちは用を足すためか、ぶどう畑の中へと消えていった。
9km地点でChateau Lagrange(シャトー・ラグランジュ)の前を通過する。実はこのマラソン前日にワイナリーを巡った時にこのシャトーも訪問した。このシャトーを経営しているのは、日本の大手飲料会社だ。シャトーの見た目こそ貴族の館の様相で、決してこの会社名が表に出ることはないのだが、醸造設備は近代的で、フランスのワイン醸造学の名門・ボルドー大学とワインの共同研究も行っている。コンピュータで品質管理をしていたシャトーの従業員も、この日はマラソンに参加しているそう。このワイナリーで私たちに説明をしてくれたお姉さんにも沿道でランナーを応援していた。みんな、地域に溶け込もうと努力している様子が印象に残った。
 
●15km-20km:すべてが順調
走り出しから折り返し地点あたりまでは、フランスの田舎の景色やブドウ畑、ランナーの奇抜なコスプレ衣装など、見るものすべてが目新しかったこともあり、いつもより大分速いペースながらとにかく気持ちよく走ることができた。このままずっと走れそうだとさえ感じたものだ。その時、心の底からこう思った。「楽しー!」「おいしー!」自然と心から湧き上がる感覚。普段抑えてきたこの感情を、声に出して連発した。
気持ちよく走っていたら、いつの間にか折り返し地点を越えていた。
すべてが順調に感じた。この調子であと20km頑張ろう。そんな風に自分を鼓舞しながら走り続けた。
  
●20km‐30km:自分の肝が試されるとき
走り始めて既に2時間が経過し、曇りがちだった空からは、いつのまにか太陽が顔を出すようになった。
その時だ。普段から欠かさない日焼け防止のキャップを、被っていないことに気が付いた。フランスの太陽は、とにかくまぶしい。紫外線が、とても強い。現地の人々は目を守るために、こぞってサングラスをかけるほど強烈である。私はそんな危険地帯に身を置いている……その瞬間から、「日焼け」という3文字の恐怖が頭をよぎるようになった。それと同時に、走る心地よさの代わりにおもりのような感覚が憑いて離れなくなってしまった。心の変化がダイレクトに体にも影響し――もしかしたら実際は逆で、体の疲労が心に影響したのかもしれない――脚が思うように上がらなかった。
少し前までは「あと20kmしか残っていない」と思っていたはずなのに、それから全然、進んでいないではないか。まだ、19kmも残っている。
 
まさに天国から地獄に突き落とされた状態に陥った。
 
そんな過酷な状況の中、今まさにこの瞬間、一生消えないだろうシミが、まさかこの大好きなフランスで、私の頬に生み出されている。
現実を悲観し、やるせない気持ちと、それにつられて動かない脚。でも、前に進まなければ。人生、だましだまし。これまでに起きたできこと、最近のことから遠い昔のことまで、頭に浮かんだことをひとつひとつ考えながら走ることにした。
 
その折だ。メドックの、いや世界中のワインの中でも最高峰に君臨するChâteau Lafite-Rothschild(シャトー・ラフィット・ロートシルト)が、急に視界に開けたのは。
このワインのラベルにも載っているシャトーの風景が、目の前に広がっている。
周りのランナーと同じく、ここはゆっくり、ゆっくり歩いて、シャトーとぶどう畑の景色を目に焼き付けた
そして22km地点以降、また一段とペースが落ちた。
 
――その時の私はまだ、この土地の人々が大切に育てている「ぶどう」の威力を借りることなく、とにかく自分の力でだましだましで前へ、前へ進むしかなかった――
 
●30‐37km地点
30kmを過ぎたところで、私はようやくこのマラソンの「本当の魅力」を知ることになる。
 
ポイヤックからベイシュヴェル、サン・ジュリアン、サン・テステフと名だたるボルドーワインの銘醸地を通り過ぎた。どの村も、世界的に有名な高級メドックワインの生産地で、私は失速している。午後になり、空は晴れて気温はさらに上昇。疲労は溜まり、思考力も低下。そんな中、遠くには幻想的な風景が広がっていた。
 
その幻想的な風景を醸していたのが、Chateau La Haye(シャトー・ラ・アイエ)というシャトーだった。ぶどう畑に、カラフルな風船が風に揺られていた。
 
ぶどう畑を通り過ぎると、ラ・アイエのシャトーが見えてきた。シャトー前のエイドには、多くのランナーが群がっていた。こちらのシャトーは他のシャトーとは少し異なり、ブルーベリーのアイスキャンディーなど凝ったものをエイドに出していました。もちろんワインも出ていたのだが、ここで人気なのは生ビール。スーパーマンのコスプレをしたお兄さんが、生ビールをサーブしていた。マラソン中にビールにワイン。普通ではあまり考えられないことが、ここでは普通に起こっているのだ。私もご多分に漏れず阿波の恩恵にあずかったのだが、この日に飲んだ生ビールののどごしのよさを、私は一生忘れないだろう。
 
30㎞を過ぎた時点では、なぜかよく周りのランナーに話しかけられた。きっとみんな、ひとりで辛いのだろう。あ、もしくは、きっとみんな、酔っているのだろう。この後はとにかく、目の前に見えるシャトーに到着することを小さなゴールに定め、前へ、前へと進むことにした。そして、シャトーでワインが出ていたら、ありがとたくいただくことにしました。
 
この旅中、地域に起因するワインの違いを理解することはできなかった。このマラソンの参加者がわかる、その違いを。でも、生産地で飲んだおかげか、人の血と同じ色をしたその飲み物は濃く、多くの人の手がかかっていること、その人たちのワインへの愛情のようなものを感じたのは確かである。ワイン愛好家と呼ばれる人々は、ワインを通して人の営みのなせる技を味わっているのだろうか。それが良く分かるから、その対価を惜しまないのかもしれない。そんなことを考えながら、エイドによってはワインを飲んだ。周りのランナーと慰めあいながら。
 
●38‐42.195km
ゴール直前。残りの約5キロはブドウ畑ではなく、きれいに舗装されたジロンド河に沿って走る。ゴール地点のあるポイヤックへ続く道路から見える風景は、無機質な工場やかつての製油所、反対側は、広大なジロンド河が海に向かってゆっくりと流れている。私をだましてくれるワインを出すエイドはもはやない。しかし最後の4km地点には、今度は大西洋の生ガキにボルドー産のビーフなど、地方のスペシャリテを堪能できるエリアが広がっている。はじめにボルドー産の牛肉提供ブースがあったものの、疲れ切った私に肉をほおばる余裕はなく、またガタイの大きなランナーの群れの中に入っていく気力もなかったので、肉を横目に走り続けた。
チャンスの神様に後ろ髪はない。通過した後になって、今しか食べられない肉を逃したことへの後悔の念に苛まれた。だから最後の生ガキこそはいただこうと誓った。その後少し走ったところで生ガキ提供ブースが見えてきた。ここでもやはりデカいランナーで人だかりができている。
 
エイドで乾杯しないで~!とは思ったものの、私の思いが彼らには届くはずもない。だが近くにいた親切なおじさんが生ガキと、今回初めての白ワインを分けてくれた。アキテーヌ地方の生ガキは少ししょっぱかったけれど、身がプリッとしていてとてもおいしかった。
 
ようやく41km地点を通過。とにかく前へ、前へ。もはや徒歩と同じような速さでようやく42kmを通過した。沿道にいる人の数がさらに増えた。あと200mのはずなのに、ゴールが遠い。そして42.195㎞を過ぎているのに、まだ着かない。やり場のない怒りとともに、「なぜゴールしない」と自問しつつ、無心に最後の力を振りしぼる。「絶対にゴールはある」ことを信じて。
 
ついに、 Arivée(ゴール)の下をくぐった。スタートから6時間、制限時間ギリギリ30分前だった。
たかが6時間、されど6時間。飲む方よりも走る方を選んで、思ったこと。
 
人生、何を選んでも誤りなんてない。
本人が選んだ道を、真剣に突き進むのであれば。
 
諦めなければ、道は開ける。頑張れば頑張るほど、時に地獄を見ることになる。しかし、頑張っていれば必ず、地獄から抜け出せることはできるのだ。マラソンコースのように、時々給水所や給ワイン所で寄り道だってできるんだ。
 
実はこのイベントがきっかけで、今ではどっぷり、「飲む」方にはまってしまっている。メドックマラソンで飲む方を選び、完走できなかったら、多分ここまでは待っていなかっただろう。
メドックマラソン完走の翌年にはワインエキスパートを、そして今は海外のワイン資格を勉強している。
 
走っていた時にエイドで少しだけ飲んだワインほど刺激的ではないにせよ、ワインはこれからも、私の大人ライフに付き添ってくれるに違いない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
清田智代(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

しがない市民ランナー&ワインエキスパート。仕事やプライベートサークルでワイン関連の企画を持ち込むも、ことごとく却下され続ける。現在は一念発起し、天狼院書店にて「伝える」技術を研究中。

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2022-11-02 | Posted in 週刊READING LIFE vol.192

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