終わりが始まった一日《週刊READING LIFE Vol.195 人生で一番長かった日》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2022/11/28/公開
記事:工藤洋子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
その日の朝、のんきに洗濯機を回していると実家の父から電話がかかった。
「お母さんが血を吐いて倒れたから、早く来い!」
母はその時ガンを患っていた。
既に転移しており、状態としてはステージⅣ。体力的にはまだ大丈夫そうに見えていたし、それに今日は北海道の旭山動物園に行く日だったはずだ。
「動けるうちに噂の動物園へ行ってみたいんだよね。本当はカナダのチャーチル岬へ白クマを観に行きたいんだけど、それは難しそうだから、北海道にしとくわ」
そんな話を嬉しそうに、でも少し悲しそうに話していたのはつい先週のことだったのに。結婚して隣県に住んでいた私は仕事の関係もあり、週に一度は実家を訪れる生活を送っていた。
そんな矢先の早朝の電話だった。
とにかく、準備をして実家へ向かう。家を出て、2時間弱で実家に到着すると、病院に駆け込んだ。病院は実家から歩いて10分もかからないところにある、国立のがんセンターだ。近くにがんセンターがあるなんて、いつガンになっても大丈夫だね、なんて冗談を言ってたのが、本当のことになってしまった。瓢箪から駒とはこういうことを指すので、合ってるだろうか。
現状を直視したくないのか、思考が泳いでしまう。
でもそんなことで意識をそらそうとしても、まさにムダな努力だ。何の生産性もない。母は病室ではなく、集中治療室にいた。鼻にはチューブが突っ込まれ、酸素マスクもかぶせてあるので、顔はよく見えない。でも、なんだか浅黒いような明らかに普通の顔色ではなかった。ロンドンで見たマダム・タッソーの蝋人形館にいた人形達のようだ。生気というものが感じられない。
それでも手を握ると、ちゃんと温かい。
まだあの世からのお誘いはお断りしている最中らしい。
とりあえず、ほっとした。
父に話を聞くと、早起きして今から空港に行こうとした時に、「ゴボッ」と変な音がしたので振り返ると、母が血を吐いて倒れ、既に意識がなかったとのこと。大急ぎで救急車を呼んで、がんセンターへの搬送を頼んだのに、救急隊員が頑として違う救急病院へ運ぶと譲らず、しばらく、すったもんだがあったんだ、と父が忌々しげに語る。「かかりつけだから」「末期ガンだから」と、とにかく必死でがんセンターに搬送してもらえたらしい。意識もなく、集中治療室にいれられるような状態で他の病院へ連れて行かれていたら、と思うとゾッとした。そんな状態では動かせないではないか。よそのよく分からない医者に任されてこのまま死んでしまったら、どうするんだよっ、と心の中で悪態をつく。疲れた様子の父を家に帰し、病院には私がしばらく残ることにした。
長い、長い一日の始まりだった。
それにしても、こんなに悪い状態だ、ということを頭では分かっていたけど、まったくもって実感していなかった。自分の認識が甘すぎたことを呪う。心の準備、というものがまったくできていなかったのだ。
それまでに私が死に関わっていなかった訳ではもちろんない。小学生の頃は同居していた父方の祖父が亡くなった。碁会所で言い合いをしていたところで血管がプツッと切れたらしい。脳溢血だった。中学、高校の辺りで母方の祖父母に曾祖母も見送った。一昨年には父方の祖母が96歳で大往生。母もこれからやっと憂いなくやりたいことができるね、といっていた矢先のガン発見だった。
祖父母は歳も歳だし、亡くなってもちろん悲しんだけど、自分が葬式の手配をした訳でもなく、近くで看病した訳でもなかった。一番近い身内、しかも実の母が病魔にむしばまれて治らないような状態になるなんて思ってもみなかった。だから、もう手の施しようはない、と医者から聞かされてもどこか他人事のような気分だったのだ。
頭では分かっている。
命は無限ではないと。
病に冒されれば朽ち、不慮の事態に出遭えば失われるものだと。
しかし、肉親を亡くした経験のない私にはまったく分かっていなかった。人間、経験のない事態はなかなか体感できないものだ。
普通の体験、といっては語弊があるかもしれないが、想像力で十分に補える体験も世の中にはたくさんある。旅行に行く前に入念に下調べをすれば旅先では不自由なく過ごすことが可能だし、今のインターネットが普及した世の中では、その気になれば調べられないものはないだろう。
物語を読めば、それこそいろんなことが疑似体験できる。人間には共感する力があるからだ。親を早くに亡くして苦労する主人公に同調したり、大手の銀行へ大なたを振るう立て直し屋の気分になったり、稀代の名探偵になって悪者を追い詰めたり、世界を股にかける大泥棒になったり、といろんなことができる。いろんな人になれる。母を病気で亡くす話だって、いくつも読んだはずだ。それでも私は準備ができていなかった。
なぜか、と今なら分かる。
感情が本気で動いていなかったからだ。母が本当に死にそうになって、初めて自分の感情が本当に動き、現状を直視することができた。やっと、できた。まったくもって、遅すぎだ。それまでは、本当に母が死んでしまう、という事実が、内心怖くて恐ろしすぎて、直視できていなかったのだろう。経験しないと分からない、というのはこのことか。
自分がそんなことを考えている間も、母は集中治療室で眠ったままだ。
目を覚ます様子は、ない。
このまま、意識が戻らなければあまり芳しくない結果になりそうだ。医師の口調から推察する。一気に怖くなったが、とにかく話しかけて手を握ってあげてください、と医者がいう。ということは、絶望的ではないはずだ。きっとそうだ、と信じてずっと母の手を握り、話しかけ続けることにした。
だけど、気持ちは常に二律背反、アンビバレンスだ。
いつも私はこうなる。
自分をどこか上の方から見ている意識が常に存在していて、その上にいる私はこのまま母が逝ってしまう可能性も高いよ、あんたどうするの、と冷静にささやいてくる。ひとところを守り切る、鎌倉武士のような一所懸命さからは、離れたところに意識があるのだ、こんな非常事態であっても。心理学的にはメタ認知が効き過ぎている、とでもいうのだろうか、よくいえば冷静、悪くいえば冷めた自分のふたつに常に分裂している。
きっと母の生還を一心不乱に祈らないと駄目なのではないか。そんな不誠実な冷めた気持ちでは母はこのまま逝ってしまうのではないか。いやでも、もしものことになってしまったら、そのときにショックを受けすぎないように今から心の準備だけでもすべきではないか。
心はふたつに裂かれているというのに、はた目には「心配でたまらない娘」の姿に見えるように、とそんなことまで考えている。我ながら醜い。様子を見に来る看護師や医師に取り繕って見せてもしょうがないだろうに。
そうこうするうちに日が暮れた。
母はやっぱりまだ目を覚まさない。
面会時間は過ぎてしまっているので、特別に隣りに泊まり込ませてもらうことにした。
だんだん焦ってくる。このまま、もう母と二度と話せなくなるのではないだろうか。私はまだまだ母に話したいことがたくさんあるのに。逆に母が私に言い残したいことはないだろうか。もう駄目かもしれないと思う気持ちは消せないけど、握っていた母の手をもんでさすってと刺激を与えてみることにした。あがくだけ、あがいてみてもいいだろう。
医師も構わないというので、強めに握ったり、ごしごしさすったりしてみる。手をつねったら、「痛い、このバカ!」と飛び起きて叱ってくれないものだろうか。ふとそんなことも思ったけど、ずっと寝かされている母の手は、いささかむくんでいる。そんな無体をする気にはさすがになれなかった。
そのあと、ふっと意識が飛んだ。
ちょっと居眠りしていたようだ。
時間はすでに午後10時を回っている。
まわりを見渡すと集中治療室にはあとひとりかふたりぐらい患者さんがいるだけのようだった。付き添っているのは私だけ。心拍や血圧などを測る計器がピッピッとなる音だけが響いている。かえって静かさが強調されるような感じがして、ひとりぼっち感が増す。見回りに来た看護師さんに少し横になって休んだらどうですか、といわれた時、母の手がピクリと動いた、ような気がした。
母が目を覚ましたのは、それからすぐ後のことだった。
まだ目つきも怪しいし、何が起こったのか分かっていないような風だが、自分の状態は理解したようだった。
医師も、「とりあえず、山は越しましたね」と言ってくれた。長い長い一日は、午前0時を回る前になんとかオチが付いたようだ。母の命の終わり、という最後にならなくて本当によかった。その時はそう思った。
しかし、終わりは少し先に延びただけだった。その長い一日は、もうそう遠くはない終わりの始まりだったのだ。
それからふた月もしない内に、今度は本当に、母は帰らぬ人になってしまった。
当時のことを振り返ってみて思う。
本当にショックを受けたのは、その長い一日の方だった。
亡くなった時も悲しくて涙もボロボロ流したけど、ワアワアと泣き叫んで起き上がれない程のショックを受けた感じではなかった。きっと一度既に母が倒れていたせいでそれこそ気持ちの整理が付いていたせいだろう。
これは母の思いやりか。
それとも天の意志か。
信仰心もろくにない只人たる自分には分からないが、「しっかりせえよ!」とどこかからバシッと肩を叩かれたような気もする。
実際、私はそこでへこたれるわけにいかなかった。当時、今高1の息子はいいとこ全長3センチ。まだお腹の中にいる状態だった。子ども好きだった母に孫を抱かせてあげられなかった後悔はあるけど、悔いても母は戻らない。せめてあの世で息子を見守ってくれていることを願うばかりだ。
時は過ぎ、三回忌とお盆の法事を一緒にやった時だったろうか、二歳半になっていた息子は和尚さんがお経を上げるときに何やら神妙な顔で眉をひそめ、どこかを一心に見つめていた。むずがる様子も飽きる様子も見せずに、それこそおとなしく私の膝に座っていた。二歳児にしては極めて珍しいことだ。
「あんたはお母さんと一緒におばあちゃんを見送ったんだからね、おばあちゃんもきっと喜んでるよ」
と和尚さんが息子に話しかけてくれる。その時の、ふと我に返った感じでキョトンとした息子の姿が今でも忘れられない。三歳までは神の内、といわれる純粋な幼子の目に様子を見に降りてきた母が見えていたのなら、こんなに嬉しいことはない。
その真相は、息子に聞いてみても分かるよしもないが、そうだったらいいな、と思う。思うことぐらいは自由だろう。いつか私があの世へ行った時に、果たして真相が分かるだろうか。それは死んでみてのお楽しみ、である。
□ライターズプロフィール
工藤洋子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
20年以上のキャリアを持つ日英同時通訳者。
本を読むことは昔から大好きでマンガから小説、実用書まで何でも読む乱読者。
食にも並々ならぬ興味と好奇心を持ち、日々食養理論に基づいた食事とおやつを家族に作っている。福岡県出身、大分県在住。
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