懐かしの音に身を任せ《週刊READING LIFE Vol.197 この「音」が好き!》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2022/12/12/公開
記事:今村真緒(READING LIFE編集部公認ライター)
「明日から、グッと寒くなるらしいよ」
11月の最後の日、夫の言葉を半信半疑で聞いていた。朝晩はさすがに冷えることが増えたけれど、今夜はやけに生暖かいのだ。温度計を見ると24度で、到底冬の気温ではない。とっくに季節自体は冬になっているのに、嘘のように暖かい。布団に入るけれど、暑くなって毛布を外した。熱いからか、腕に貼った湿布の匂いが余計に鼻につく。
夏の終わりから、昼間は暖かいというよりは暑い日がずっと続いていて、もう冬になろうというのに、その疲れをいまだに引きずった私は体調がいまひとつだった。
なぜか急に頭痛が起きたり、腕の痺れが復活したりして、鎮痛剤や湿布にお世話になる日々だった。夏には100錠あった鎮痛剤の箱が、もう少しで空になろうとしている。そんなときは、頭もすっきりしないから考えもまとまらない。あれもやらなきゃ、これもやらなきゃと頭で考えては空回り。いざ動こうとすると、なぜか今やらなくていいことを始めてしまって、まるで学生時代の試験期間前のようだ。そうなると、堂々巡りのハムスターはなかなか車輪から抜け出せない。そして、何もできている気がしないし満足感がない。これでいいのだろうかと、自己肯定感はダダ下がりだ。
毛布を脇に寄せて広くなったベッドの上で、自問自答する。
結局、今日は何を終えることができたんだろう? いい大人のくせに、なんでやろうと思ったことをやれないんだろう? 同じ問いばかりを繰り返している自分が欠陥だらけのような気がして、情けなくなった。どうにかして、この悪循環を断ち切りたい。明日からはもう師走なのだ。1年の最後の月なんだぞ! コチコチになった頭で解決策を考えてみるけれど、何か浮かんだかと思うとそれは一瞬で流れていく。
とりあえず、何かいい考えをひねり出そうと頭を揉んでみた。
すると、思ったより私の頭皮は、カチコチに固まっているではないか。
「イタタタ」
わー、体も固まっているけれど頭まで固い。こりゃ、何にも浮かばないわけだ。ほぐすのが先と、しばらく指圧してみると眠くなって、私はそのまま寝入ってしまった。
「ハクション!」
自分のくしゃみで目が覚めたのは久しぶりだった。もう朝かと思ったら、部屋の明かりが点いたままだった。時計を見ると午前4時。何も体に掛けずに寝てしまって、寒さで目が覚めたのだった。突然、冬がやってきた。ブルッと震えが来て毛布と掛け布団の中に首まで潜ったけれど、一旦冷えた体はなかなか温まらない。
夜が明けるまで布団の中でモゾモゾしていると、もう起きなくてはならない時間になった。思い切って布団から出ると、キュッと身が縮むような寒さに慌てて上着を羽織る。なんとこの日の気温は、前日より14度も低くなり真冬の寒さだった。体が気温についていかず、なんだか重だるい。
その頃には、私の心は決まっていた。
夜明け前に寒さと闘っているときに、ふいに温泉の湯けむりが脳裏に浮かんだ。そしてその映像は、朝まで私の心を捉えて離さなかった。今日は仕事も休みだし、絶対に温泉に行こう! この冷え切った体を解凍しにいくのだ。
そうと決まれば、朝の家事をそそくさと終らせて準備を始める。私が好きな温泉は、自宅から車で1時間半ほどかかる熊本の山あいにある。ちょっとしたドライブにもなるから、BGMはこれにしよう。途中で何かお昼においしいものを食べよう。温泉へ行く途中に、道の駅で野菜も仕入れよう。何だかワクワクしてきた。だるいなんて言っていたくせに、急に体が軽く感じられるから現金なものだ。せっかくなら、行きと帰りに用事も済ませたい。メモ紙に用を箇条書きに書いて、終わらせる順番も決めた。
外に出ると、昨日とは打って変わって風が冷たい。ポンといきなり冬にワープした感じだ。行く途中で、用事をいくつか済ませるたびにペンで消していく。何だかとてもスッキリしてきた。しばらく走っていると、山の合間を国道が蛇行するような感じでカーブが増えてきた。高速道路を避けた大型トラックが、対向車線にも私の後続にも繋がっていてちょっと圧迫感がある。ふと目を遠くに向けると、山々にはようやく色づいてきた紅葉がぽつぽつと顔を出していた。
「眼福、眼福」
山のコントラストの美しさに、思わずそんな言葉を呟く。視神経から脳に、癒しの物質が伝達されていくようだ。温泉までは、あと少し。私のボルテージは目的地に向かうにつれて、否応なしに上がっていった。
急に寒くなったからか、温泉の貸切風呂は比較的空いていた。半露天のお風呂を選んで、さあ、いよいよお待ちかねの温泉タイムだ。
昼間の温泉は、なぜか背徳感がある。みんなが仕事をしているであろう時間に、私だけこっそりと極楽を味わうのだ。
「ごめんねー」
湯船に浸かる前に誰に言うでもなく呟くと、自然と顔がにやけてくる。
片足を湯船に入れると、熱めのお湯が足の芯まで効いてくるようにジンジンする。それをこらえながら全身をザブンと勢いよく湯船に沈めた。
「はあー、これこれ!」
冷え切った体を、一瞬で溶かすマジックに大きく息を吐き出す。
少し曇った雲の隙間から、日の光が差し込みお湯に反射していた。ゆらゆらと揺らめく湯船のお湯を見つめていたら、自分がこの世にたった一人でいるような気がした。貸切風呂で一人、何の音もない中で、ぼんやりとただお湯に浸かっている。頭の中が無になって、体とお湯との境がわからなくなる感覚だ。
ぽこぽこぽこ。
静まり返った中、私の右側から響いてくる音があった。
軽やかで無垢なその音は、かけ流しの温泉の噴き出し口から湯船に落ちるお湯の音だった。耳元で囁くようなその音は、とても心地良く、妙に懐かしい感じがして安心した。私は湯船の縁に頭をもたせかけると、しばらくその音に聞き入っていた。
反射する日の光と、静かな空間に響く音。そして私。
ただ、そこにいる。そこにある。何も考えなくていい、この時間だけは。
そんな風に言われている気がした。温かいお湯に包まれている私は、生まれる前の母の胎内にいる赤ん坊のようだった。だから、懐かしかったのか。腑に落ちた私は、穏やかな温かさの中で、自分の存在を否定することもなくゆったりとお湯に身を委ねている。
ぽこぽこぽこ。
湯船に落ちる愛らしい音に耳を澄ましていると、次第に体が、頭が緩んでいく。
余計なことばかり考えなくてよかったんだ。体が中から痛みを通して訴えていたのに、どうしてその声を聞いてあげなかったんだろう? 不調を回復させることが最優先なのに、いつの間にか頑張ることが目的になってしまっていたのではないだろうか?
体が不調だと、心も不調になる。分かっていたはずなのに、なかなか学習できない自分に苦笑いだ。
生きているということ、健康であるということ。まずは、そこからだ。
焦って、足りないものばかりを探さなくてもいいじゃない。
気づいたら、私は湯船の中で泣いていた。
ごぼごぼごぼ。
湯船から溢れたお湯が、排水溝へと吸い込まれていく。かけ流しだから、お湯は流れっぱなしだ。その様を見ていると、スッと何かが抜け落ちていくようだった。自分の中に溜まっていた膿のようなものが洗い流され、脱皮したように重い殻を抜け出したような清々しさ。しんとした中、巨大な生き物が大量に水を飲みこむような音が響く。
感じていたモヤモヤが、ようやく晴れたように思えた。「洗い流した」ということにした。そう決めたことで、気持ちが復活できたというか区切りがついた。何だかお祓いみたいだけど、気持ちや体が軽く思えるのなら何だっていい。
勢いよく湯船から身を起こす。再び排水溝にお湯が流れ大きな音を立てる。脱衣所に向かう前に、もう一度私は湯船の奥に回り込んで、お湯の噴き出し口に耳を澄ませた。相変わらず「ぽこぽこぽこ」という軽やかな音が耳に心地良い。
体が疲れたとき、心がささくれたとき、またここに戻ってこよう。
嫌になった自分をリセットするために。生まれたてのように、まっさらになるために。
あの軽やかな音は、どうやら頑なになった私を解く力があったようだ。
体が喜ぶ音には素直になったほうがいい。楽しいリズムの音楽が体を動かすように、好きな楽器の音色が心に沁みるように、体が反応する好みの音には不思議な魔力が備わっているのだ。
すっかり体が温まっていた私は、冷たい飲み物を飲みながら自宅へと車を走らせた。冷たさが、喉を通って体の中を下りていくのが、はっきりと分かる。
「ああ、生きてるなー」
風呂上がりにビールを飲む人そのもののセリフだ。運転中だからアルコールは飲めないけれど、気分的には一緒だ。帰り道も、用を済ませながら帰る。今日はできたことがたくさんあった。二重線だらけのメモ紙がその証だ。
ひょんなことから思いついた温泉は、私にとって充電器の役割を果たしてくれたのかもしれない。充電切れだった私は、何とか電流を流さなければとやっきになっていたけれど、そもそも充電ができていないのだからそれが叶うはずもない。
気忙しくなる師走に入るタイミングで、温泉に行くことができて良かった。ちょっとした行動が、思ったよりも自分を癒すことになるとは驚きだ。
寒くなってくると、体が縮こまってしまう。下を向きがちになるから、気持ちが沈むことが増えるかもしれない。もしできるならば、近場の温泉で体も心もリフレッシュするのがお勧めだ。もし難しければ、家のお風呂に好みの入浴剤なんか入れてゆっくり浸かってみるのもいいと思う。そして、自分を棚卸して心なしか軽くなった体で、2022年最後の月を乗り越えていこう。来る2023年に、自分なりの幸せを描きながら。
□ライターズプロフィール
今村真緒(READING LIFE編集部公認ライター)
福岡県在住。
自分の想いを表現できるようになりたいと思ったことがきっかけで、2020年5月から天狼院書店のライティング・ゼミ受講。更にライティング力向上を目指すため、2020年9月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部参加。
興味のあることは、人間観察、推し活、ドキュメンタリー番組やクイズ番組を観ること。
人の心に寄り添えるような文章を書けるようになることが目標。
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