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週刊READING LIFE vol.198

胸《週刊READING LIFE Vol.198 希望と絶望》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2022/12/19/公開
記事:なつき(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
ゆっくり湯船につかる。自分の胸を見る。山が2つある。それはとても見慣れた光景だ。生まれた時から共にしてきたし自分の体の成長と一緒に成長もした。ずっと共にあることが当たり前だった。
 
その当たり前に終止符を打たれることになった。今度湯船につかる時には山は1つになる。それは1か月前に急に決まった。
「乳がんです。胸の下半分に広がっているので乳房の全摘出が必要です」医師にそう告げられた。乳がんか、いくつかの検査をした段階で漠然と乳がんだろうなとは思っていたけど、乳房の全摘出か。私は40代。私の母も40代で乳がんになった。だから乳がんと診断を受けても大して衝撃は受けなかった。あり得るだろうなくらいに思っていた。でも母と違っていたのは、乳房の全摘出かそうでないかと言う点だった。医師の淡々とした口調から全摘出だって大したことは無いと思えた。だからこの最後の湯船につかるまでそれと言った感情は無かった。
 
それなのに、自分の2つの山を見ているうちに急に最後なんだという思いが溢れてきた。乳房の全摘出ってことは胸が無くなるってことだ。今までも頭では考えてきたはずなのに今この時まで最後と言う感覚にはならなかった。私はいつもそうだ。大事な物事でも直前にならないと気持ちが動かない。どうやら今回の1つの胸との永遠にさよならと言う大きな出来事をもってしても心は動かなかったようだ。それとも大きすぎるがゆえに自分が取り乱さないよう無意識に気持ちを抑え込んだのかもしれない。だって取り乱したところでこの事実は変えられないし、周りに心配をかけたくない気持ちも大きかったし。
 
無くなってしまう方の胸をじっと見つめる。これを取るってどうやって。手術の内容は頭に入ってる。切除した後のことだって聞いてる。でもどうしても自分の胸を取るということが結びつかない。ふいに夫を呼んだ。お風呂は1人で入る方だけどこの時は声をかけなければと思った。
「ごめんね。最後だからちゃんと見ておいて」と夫に言った。夫は黙って見つめた後頭を撫でてくれた。
心が安らぐのを感じた。
 
切除手術のために翌日入院した。手術に関する流れなどを確認しその次の日の朝から手術をした。手術後は体の快復優先で胸については考えなかったしガーゼをあてがわれていたので外さないと見えなかった。数日後医師の巡回で手術した経過を見せる時に自分でも恐る恐る見た。
 
胸があったところに斜めに縫い目が15cmほど走っていた。あるはずの山はもうそこにはない。ぺたんとまっ平になり薄い皮膚に肋骨も浮き出している。胸らしき痕跡も無い。
「あ~あ、無くなっちゃったよ、ははは」と思わず口から言葉が漏れた。手でもそっと触れてみる。縫い目の感触がある。夢じゃない、これは現実だ。急に虚無感に襲われた。大したことないって思っていたのに実はかなりのショックを受けていたようだ。そんなことをぼんやりと考えながら客観視する自分にまた、はははと乾いた笑いが口をついて出た。もう戻ってこないんだよなあ。これらの言葉を一言で表すと絶望なのだろう。でもそんな言葉で片付けたくはない。敢えて長々と柔らかい表現を使いたくなる。絶望、それはもう希望が無いってことだから。漢字二文字で表すのは鋭すぎて、私にとっては棘に等しく、受け止めきれない言葉だった。
 
乳がんの場合、胸を全て取っても再建できることがある。それは胸を取った部分に新しく人工胸をつけることだ。でも私にはこの選択肢が無かった。手術前にできないと言われていた。どうやら私のがんは胸の下半分を占めていたことで、取った後の皮膚が薄くぎりぎりの量なので綴じるだけで精一杯と言うことだった。その話を聞いた時ちゃんと受け止めたはずなのに実際に見てみるまで分かっていなかった。永久的に戻ってこないことを改めて突きつけられた。
 
これからはこの体と付き合っていかないといけないんだ。毎日縫い目のチェックが必要なので数日もするとこの自分の姿は見慣れた。それでも1つ残った胸と無い方を見比べてため息が出る。真横に比べる対象があるのだから否が応でも目に入る。2週間ほど経ち退院の日を迎えた。
 
退院してその日にお風呂に入った。入院中はシャワーのみなので湯船につかるのはあの最後の日以来だ。特に何も考えることなく頭を洗い、体を洗い湯船につかる。つかった途端最後の日が思い出された。お風呂場はまったく同じなのに私だけが違う。今日お風呂につかったことで、胸があった時の記憶から胸のない記憶に塗り替えられてしまう怖さがよぎった。40年間一緒にいた胸の記憶が消えてしまう。お風呂につかるごとに薄れていくような気がして湯船に入るのを躊躇するようになった。
 
1か月ほど湯船につかるのを止めた。時期は初夏だったのであまり支障は無かった。この頃になると縫い目もだいぶ綺麗になり、鏡で自分の肌を見てもさほど気にならないようになってきた。慣れとはすごいものだ。あんなに見たくなかったのに自分の体が可愛くさえ思える。再建できないけど、それもありなんじゃないかと思えた。もう湯船につかっても大丈夫。記憶が変わっても大丈夫。そして試しにつかってみた。特に心がざわつくことも無く落ち着いて入ることができた。湯船につかるというミッションを1つクリアした。1つクリアすると他も試したくなる。不安もあったが試すことにした。
 
それは夫に見せることだった。夫には最後のあの日以降見せていない。どう受け止められるか怖くて見せられなかった。乳がんで胸を取った人の体験談をいくつか読んだ。やはりご主人に見せるのは勇気がいったとのことだった。中には見せたら顔を背けられたというものもあった。夫は背けるタイプではないだろうけど、やはり見せるのは怖い。見せるのは面と向かってなのでその瞬間の夫の顔も目に入る。その顔は私の心に一生残るだろう。
 
だったら見せなくてもいいのかもしれない。でも夫がちゃんと受け止めてくれたらそれは自信になるし自分を認められる気がする。意を決して見せることにした。ただし最後を見せた風呂場は止めた。夫の中にあるあの記憶を塗り替えるのはまだ早いと思った。
 
いざ見せるとなったら緊張した。真面目に話すのが難しい。おどけてへらへらしながら夫に話しかけた。「見てもらってもいいかな」やっとそれだけ言った。
あの最後の時同様に夫は静かに見つめた。特に動揺することも無く、目をきょろきょろすることも無く、何か一種の儀式の様な厳かな空気だった。そのシンとした空気に耐えられず縫い目部分をしまうと夫は静かに頭を撫でてくれた。心が安らぐのを感じた。
 
あの最後のお風呂場での時と同じだった。涙が出た。私は1か月かけて、この体だって私のチャームポイントと思えるようになった。それなのに夫はこの瞬間で受け止めてくれた。なんと肝が据わった人なのだろう。この体になって、夫に見せるのがかなりの難関だと思っていた。受け止めてくれる大丈夫と自分に何度も言い聞かせ、淡い希望であっても持ち続けて実行に移せて良かった。一気に肩の荷が下りた。
 
手術から5年以上経った。もう今ではこの体が当たり前になっている。あの時夫に話せていなかったら、見せていなかったら今も悶々と考えていたかもしれない。希望を捨てずに行動に移せたことで自信に繋がった。もし今胸の再建ができるとなったとしてもその選択を私はしないだろう。胸があっても無くても自分の体は可愛いと思えるようになったから。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
なつき(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

東京都在住。2018年2月から天狼院のライティング・ゼミに通い始める。更にプロフェッショナル・ゼミを経てライターズ倶楽部に参加。書いた記事への「元気になった」「興味を持った」という声が嬉しくて書き続けている。

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2022-12-14 | Posted in 週刊READING LIFE vol.198

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