「薄いグレーから濃いグレーの人しかいない」という言葉が私の人生を救ってくれた《週刊READING LIFE Vol.209 白と黒のあいだ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2023/3/20/公開
記事:赤羽かなえ(READING LIFE編集部公認ライター)
『人は人の言葉で救われ、人の言葉で殺される』
最近、こんな文を目にしてハッとした。
まさにその通りだ、私も文章を書く人として気をつけなければ、と気持ちを引き締めた。
私が今ここにいられるのは、誰かの言葉の力だなと思うことがある。もちろん、いい言葉も悪い言葉も含めて今の生き方に大きく影響している。久々に、私の子育ての中で一番不安だった時期のことを思い出した。その経験があってこその今なんだな、と納得しているけど、あの時にあの人に出会わなかったら、今頃私は全然違う人生を歩いていたのかなと想像すると不思議な気持ちになる。
今から13年ほど前のことだ。私は、息子が生まれ、初めての子育ては手探りの毎日だった。その当時、私には悩みがあって、かかりつけの小児科で、医師に相談をした。
「お子さんが歩かない……ですか」
なんでその時に小児科に行ったのかは、覚えていない。でも、その時に息子がまだ歩かないんだけど、どこか悪い所があるのだろうか、と聞いたことだけはよく覚えている。確か、息子が1歳4か月くらいの時だ。周りの同世代の子ども達はだいたい1歳前後で歩き始めていた。過ぎてしまった今となれば、たった数か月の差じゃないかと思えるのだけど、いつも似たようなメンバーで顔を合わせているから、周りができて自分の子どもができないということがやたら目につく。1歳半検診も近いから、そこで引っかかったらどうしようというのも焦る要因だった。
かかりつけの小児科医は、私から息子を引き取って彼のことを観察し始めた。ベッドに寝かして、全身をさわり、抱き上げて地面に息子の足をつける。彼は地面に着地した。
部屋の中に、その先生、看護師、そして私と息子がいたけれど、誰一人声を出さず、その場はひどく静かだった。
私は先生と息子の様子を、息をつめて見守っていた。
「体の機能的には問題ないようです。足もつきますから、歩けないということはないでしょう」
その言葉を聞いてほっと息をついた私は、次の瞬間に頭を殴られたような衝撃を受けた。
「体がちゃんとしているのに歩きださない、ということはもしかすると自閉症かもしれないから、検査をしたほうがいいですよ」
自閉症……?
耳を疑った。
ちょっと待ってよ、ただ1歳4か月で歩かないって言っただけなのに……。なんでそれが自閉症の疑いにつながるの?
あまりにもショックが大きすぎて頭の中で渦巻いている声が上手く出せなかった。その間にも先生は、
「どうせ検査するなら早くした方が、いざという時に対処がしやすいから……」
と事務的に話を進めていくけど、既に検査をするのはほぼ決まりのような口調だったことに焦って口を開いた。
「いや、私は、周りの同じくらいの月齢の子が歩いているのに、うちの子が歩かないから相談に来ただけなんですが」
「そうです、だから、身体の機能に問題がないから、こだわりが強くて歩きたくないという可能性が高い。だから自閉症の検査をしてみたらどうかと言っています」
何度も言わせないで――小児科医の顔にはそう書いてあった。強い口調で私に向かって言うと、
「早い段階で分かっていた方が、本人との付き合い方も変わるし楽ですよ」
私が母親だったら、検査しますけどね。そう言って、先生は身体をPCに向けた。話はこれで終わり、というサインだった。
私よりも少し年上に思われる女医の言葉は私の胸に深くふかく刺さった。
どうやって家に帰ったのかはあまり良く覚えていない。息子は相変わらず歩かないけど、機嫌よくおもちゃの自動車で遊んでいた。
自閉症、といきなり言われても、身内にどんな風に言ったらいいのかもわかんないよ……。
息子が生まれた時に、身内の発言にモヤモヤしたことがあるのだ。
生まれてすぐに母親がやってきて、一通りねぎらってくれた時のことを思い出した。そのあと矢継ぎ早に、
「で、手の指と足の指は5本ついてる?」
と聞いてきた。それが彼女にとっては関心事なのだということは話し方の勢いでわかった。疲れ切っているのに、さらにうんざりした。なによ、それ。命が無事に生まれてきた、とりあえずはそれでいいじゃない。なんでそんな言い方するのよ。母の言葉は、息子が生まれてぐったりしている私に墨を落とした。時がたって少しずつモヤモヤは薄まっていったけれど、いまだに消えない言葉だ。その上に、今度は母方の祖父が、
「何かおかしなところはないか? 散歩していると、障害を持っている子ども達のグループがバスの迎えを待っているのをよく見かけるけど、あれはみじめだから」
そんなことを言った。産後で慣れない世話をしている日々だったのもあるけれど、軽くいなすことができなかった。祖父は寡黙で温和な印象の人だったから、その人から出た言葉だったことが余計にショックだった。少しずつ育児疲労がたまっていた私を切りつけた言葉の刃はするどかった。
小児科の女医の言葉を聞いた時に真っ先に思い浮かんだのが母と祖父だ。もしも検査をして、自閉症と診断されたら2人はなんて言うだろうか。他の親戚たちだって色々言うに違いない。私は、まだ何も始まっていないのにそれだけで押しつぶされそうだった。
実際のところ、自閉症がどういう状態なのか、どういう特徴があるかはよくわかっていなかった。それでも、日々息子と接していて、目が合わないわけでもないし、私が話しかけた言葉にちゃんと答えてくれるし、ごはんもよく食べるし……歩かないのが気になるだけで、その他に手を煩わされることはあまりなかったから、大丈夫なんじゃないか、そう思っていた。
でも、それって、大丈夫って思いたいだけなのかな……息子が初めての子どもだから、確信を持って大丈夫と言い切れる自信はなかった。やっぱり検査だけでもした方がいいんだろうか。
答えの出ないモヤモヤが抱え切れなくなって、勇気を出して夫に相談してみた。その当時、彼は仕事が忙しくなっていて、付き合いで夜が遅いことが増えていた。ようやく話せる機会を見つけて、ことの顛末を話すと、彼は一気に機嫌が悪くなった。
「俺達の子どもなのに、そんなことあるはずないだろう」
私の話が終わるか終わらないかのうちに彼は強い口調で否定の言葉をかぶせた。アルコールのにおいが漂ってきて、私は少し顔をしかめた。
「私だって、そう思っているよ。でも、もうちょっと真剣に考えて」
ようやく話すことができたのに、すげない返事だった夫に、私はつい強い口調で返してしまった。
「いや、真剣に考えるなら、検査を受ければいい話だろ。そんなのここで、ああでもない、こうでもないって言っていたって何の結論も出ないじゃないか」
酔ってはいるけど、夫の言うことはド正論だった。でも、そんな言葉が欲しかったんじゃない。どっちを向いても孤独だ……。涙が浮かんできたけど奥歯を噛みしめて耐えるしかなかった。
結局、1歳半検診の数日前にようやく歩くようになったので、それ以降、特に何かの検査を受けることはなかった。
当の息子は、特に育てづらいと感じることはなかったけれど、何かにつけてよく泣く子だった。時に延々と泣き止まない我が子を見ると、あの小児科医の「自閉症の検査をしてみたらどうか」という言葉が時々フラッシュバックした。
泣き止まない息子を見て、やっぱりこの子は「クロ」なんだろうか、と思う。普通の人は「シロ」で、普通じゃない人は「クロ」……当時、私はそんな風に思っていた。私自身も、どうにかシロでありたい、と思い続けていたし、息子をクロだなんて思いたくなかった。どうにかして息子がシロであるという確証を得たい……日々の生活の中で彼のことをそんな目で見続けていた。延々と不安の種ばかりが芽吹いていった。
そんな時に、同じ年の子どもを持つ友人がお話会に参加しないか、と声をかけてくれた。その友人は子どもが大好きで、同世代のママさん達の間で一目を置かれるような存在だった。彼女の周りにはいつも沢山の子どもがいて、のびのびと遊んでいる。私もよく一緒に遊んだし、時々は彼女に息子を預けて彼女の家で1日過ごしてもらうこともあった。彼女のうちで1日過ごすと息子は普段よりも機嫌が良くてありがたかった。彼女は、一時期、とある保育園で保育スタッフをしていたらしい。なるほど子ども達の相手がとても上手だったし、頼りになる存在だった。
お話会の話し手は、その友人が働いていた保育園の園長だった。園長は、彼女の子どもとの過ごし方に影響を与えた超尊敬する方なんだと熱弁をふるうものだから、そんなに言うなら、と参加することに決めた。
おはなし会の当日、ナチュラルな服装を身にまとい、園長は登場した。
そして、園長は歯切れのいい広島弁でテンポよく話し始めた。
「今の風潮って、子どもを色々な検査をして、発達障害の『クロ』か『シロ』かって決めたがるんよ。でもね、私は沢山の人や子供をみてきて、人は絶対に『シロ』か『クロ』か、なんて分けられないと思ってるんよね。世の中の人はみんな、薄いグレーから濃いグレーなんよ。わたしなんか、かなりのグレーなんで」
そう言うと、あとは、園長の豪快な笑いが部屋に響いた。自分自身も発達障害だと堂々と言い切ってしまう園長に、私は小児科で受けたのとは別の意味で、驚いた。
今まで、息子がシロかクロかで悩んでいた私って、なんだったんだろう。本当にみんながグレーだったら、そんなに気にしなくていいんじゃないの、もっと気楽に生きられるかもしれない……!
その後も、園長の話は目から鱗が落ちることばかりだった。
なかでも、発達障害について書かれた本の使い方を教えてもらったのが一番印象的だった。
「発達障害について研究されている本っていっぱいあるんだけど、みんな、自分の子どもが発達障害かどうかばかりが気になって、チェック項目で判断するところしか関心がないのがもったいないんよ。実は、そういう本には、発達障害の人と付き合うための方法が書いてある。そちらを実践して子どもが気持ちよく生活できるようにしてあげることの方が大事だと思わん?」
気がつけば、私は、首がもげるほどうなずいていた。
そうだ、検査をするしないは別として、発達障害の子どもとの付き合い方を参考にすればいいんだ。
どんな人でも薄いグレーから濃いグレーにいるのであれば、発達障害の子どもと接する際に本の内容を参考すれば、もっと円滑にコミュニケーションを取れるかもしれない――話を聞いて感動した私は、何冊か発達障害の子どものための本を買って読んでみた。
それが、息子が小学校に入ってからとても役に立った。
結局、自閉症など発達障害に関わるような検査はしなかったけれど、小学校に入った時に息子は、生活面や学習面で壁にぶつかることがあった。片付けができなかったり、人の話をちゃんと聞いてなくて言われたことができなかったり、落ち着きがないと言われたり……ひとつひとつは大した問題ではなかったけれど、担任から指摘されてどうしたらいいのか悩んだ。
そんな時に、園長が言っていたことや、そのあと本で学んだことを思い出した。もしかすると、学校でやっているやり方がたまたま本人に合っていないだけかもしれない。
読んだ本を参考に、息子の様子を観察して、どういうことが苦手で、どういうことが得意かというのを探ってみた。すると、彼は読書が好きなので、口頭で言われたことを文字化したら受け入れやすいかもしれないと予想して、今日あったことの要約や宿題でやるべきことをノートに文章で書いてみてもらう、ということを試した。
そうしたら、そのやり方が合っているという手ごたえを感じた。だから、先生に状況を話して、どうしても本人が忘れてしまいそうになるものはメモして、机の上に貼ってもらうなどの協力を頼むことにした。
「お母さんが言う通り、紙に書いて机に貼ったら、できるようになりました」
煩わしいことを頼んだにも関わらず、先生も手ごたえを感じてくれて2人で喜んだ。できないことがあったら、本人ができる方法を一緒に考えればいい――園長の話からの学びが私の中で芽吹いて育っているそんな風に思えた。
もうひとつ私の中で大きな変化があった。園長の言葉で、私自身も薄いか濃いかわからないけど、グレーなんだ、ということに気づくことができた。私はもう「シロ」になるために必死にならなくていいんだ、と腑に落ちたとき、思いがけず気が楽になって驚いた。
白と黒の間には沢山のグレーがあって、みんな生きづらい部分を少なからず持っている。シロとクロで決めつけるのではなく、グレーをお互いに認め合って、その人達それぞれが生きやすい環境を作っていけばいい。
園長の話を聞いてから10年の時が経った。息子は中学生になって、思春期だなと思う時はあるけれど、彼がどんな態度を取ったとしても、それが今の息子なんだと思うことができる。今、彼が生きやすい方法って何だろうと考えてきたおかげで、今のところ、日々色んなことが起こっても、それを受け入れることができている。
それ以上に、私自身が自分をグレーの人間だと認めるようになったことで、完璧を求めて息苦しくなるということが減って随分と生きやすくなったと思う。園長があの時、『わたしなんて、かなりのグレーなんで』と言った時には、自分の弱みをさらけ出すようでとても驚いたけど、今では私もできないことはできないと言ってしまうようにしている。『私かなりグレーなんよ、だからできるところはできるし、できないところはできないから助けて』と言うと周りの人達はちゃんと助けてくれるのだ。
白と黒との間には、愛すべきグレーの人達が沢山いる。このグレーの存在が、私の人生を救ってくれた。
私は今日も言葉に生かされている。
□ライターズプロフィール
赤羽かなえ(READING LIFE編集部公認ライター)
人とモノと場所をつなぐストーリーテラーとして、愛が循環する経済の在り方を追究している。2020年8月より天狼院で文章修行を開始。腹の底から湧き上がる黒い想いと泣き方と美味しいご飯の描写にこだわっている。人生のガーターにハマった時にふっと緩むようなエッセイと小説を目指しています。月1で『マンションの1室で簡単にできる! 1時間で仕込む保存食作り』を連載中。天狼院メディアグランプリ47th season 、50th seasonおよび51st season総合優勝。
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