週刊READING LIFE vol.235

救いようのない退屈から私を救った祝杯《週刊READING LIFE Vol.235》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/10/9/公開
記事:松浦哲夫(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
退屈は忙しいよりもはるかに辛い。これは、定年退職で会社を退いてから家で1ヶ月を過ごした私の本音だ。会社員時代、憧れ続けた悠々自適な生活がこれほど辛く苦しいものだとは夢にも思わなかった。
 
でも今は違う。今の私に退屈な時間はなく、目的に向かって最高に充実した毎日を送っている。人は定年退職しても、還暦を過ぎても目指すべき何かが必要だ。
 
今から1ヶ月前、私は約40年間勤めてきた会社を定年退職した。最後の出勤日には社員のみんなから華々しく見送られ、「田中士郎主任 40年間お疲れ様でした」と書かれたメッセージカードつきの花束までもらった。仲間と別れる寂しさはあるが、明日からの自由な日々を思うと心が踊る。さあ、明日からなにをしようか。
 
退職後の1週間は本当に楽しく過ごすことができた。会社員の頃の大型連休を過ごすような感覚だ。この時はまだ、私の中に限られた自由な時間を目一杯楽しもうとする習慣が残っていた。
 
しかし、そのような感覚は2週間も経過すると確実に損なわれていき、退職から1ヶ月が経過する頃には完全に失われた。私の中に残ったもの、それは救いようのない退屈だけだった。
 
この1ヶ月間、思いつくままに好きなことをやった。公園を散歩、映画鑑賞、舞台の観劇、読書、キャンプ……ゴミ拾いのボランティアに参加したこともあった。それで一時的な楽しみを味わうことはできたが、結局のところ退屈から解放されることはなかった。
 
次第に家にも居づらくなった。毎朝私がリビングに顔を出すと、妻はしかめっ面で朝食の支度をした。朝食を用意してくれることはありがたいが、二人っきりの空気感がつらい。妻は何も言わないし、私も何も言い出せない。妻は、この先ずっとこの男の食事を作り続けるのかとうんざりしているのだろう。
 
そんなある日、私のスマホに着信があった。実に1ヶ月ぶりの着信だ。出てみるとかつての部下の吉澤だ。久しぶりに飲みに行きましょうとのことだった。吉澤は私にとって単なる部下ではなく、業務上の難題やトラブルを何度も力を合わせて乗り越えてきた、いわば戦友のようなやつだった。難題を1つ片付けるたびにビールで祝杯をあげたものだ。
 
急な呼び出しの訳を聞くと、会ってから話すという。なんとなく腑に落ちないが、1ヶ月ぶりに予定が1つ埋まった。妙にワクワクしている自分に気が付いた。
 
約束の日、時間よりも少し早くいつもの居酒屋に入ると、先に吉澤がカウンター席に座っていた。私は吉澤の隣に座りビールを注文、1ヶ月ぶりの再会にということで乾杯した。
 
「田中さん、毎日休みで羨ましいなあ、俺なんかもう忙しくて」
「いいじゃないか、それだけ毎日が充実してるってもんだ」
「田中さんはどうですか?」
「俺のことはいい。で、急な誘いのわけはなんだ?」
「率直に聞きますが、田中さん、毎日退屈してませんか?」
「……なんでそんなこと聞く?」
 
私はビールをぐいっと飲んだ。自分の心が見透かされたような気持ちになった。
 
「田中さんって仕事一筋って感じの人だったから退職後の生活が想像できなくて……」
「……確かに退屈してる。退屈すぎて辛いくらいだが仕方ない。まあ、こうしてお前と飲めるだけで俺は満足だよ」
「でしたら登山、してみませんか?」
「なに?」
「登山ですよ、してみませんか?」
 
予想外の誘いだった。吉澤が登山を趣味にしていることは知っていたし、そこそこのベテランだとも聞いたが、まさか還暦をとっくに過ぎた私を登山に誘ってくるとは思わなかった。
 
「登山だと? 俺が?」
「登山と言っても大げさなものではありません。少し傾斜のかかった山道を、自然の空気と景色を堪能しながら山頂を目指して歩く。それだけです」
「でも、それなりの装備もいるし、体力だって必要だろう?」
「スニーカーとリュックとタオルがあれば十分です。それに、会社に毎日通勤できる体力があれば登山はできます」
 
あまりに急な展開に私は戸惑った。確かに退屈は辛いが、だからといって私が山に登るなど思いも寄らない。真剣に登山を勧める吉澤に対して、私は断る口実を次々と口走るが、そのことごとくを吉澤は覆してくる。
 
「俺が最後に山に登ったのはもう小学生の頃だ。山頂まで登る自信もない」
「山頂なんて山の一部に過ぎません。途中で下山したっていいんです」
 
ここにきてとうとう断る口実も尽き果てた。そうして私の脳裏には微かな登山への興味が残った。いつの間にか、山に登ってみてもいいという気持ちが芽生えてきたのだ。
 
「わかったよ、そのかわりお前が案内してくれよ」
「もちろんです! お任せください!」
 
それから数日後、吉澤の案内で私は小学生以来の登山に挑戦した。標高1000mに満たない地元の山だが、山頂を目指すつもりもない。途中でキツくなったらさっさと下山するくらいの気持ちだった。
 
ただ、登山は本当に気持ちが良かった。登山道はかなり細く、歩きにくいため集中力を保つ必要があったが、爽やかな風が吹き抜けるような緊張感は実に心地よかった。
 
上空を見上げると、大小の木が登山道に覆いかぶさるように生えており、涼しげな木陰を演出している。木陰を吹き抜ける風が、火照った体を優しく冷やしてくれるようで気持ちがいい。このままどこまでも登れそうな気がしたが、やはり私の体力が尽きた。予想通りだ。
 
しかし、この時私の中に予想もしなかった感情が芽生えた。悔しさと情けなさがこみ上げてきたのだ。
 
体力が尽きた今、無理に登っても山頂にたどり着くことなどできやしない。そんなことわかっているのだが、なぜか下山しようと言う気持ちが出てこない。そんな私の様子は、吉澤から見ても明らかだったようだ。
 
「田中さん、今回はここまでです。下山しましょう」
 
吉澤の言葉で私はようやく下山する気になり、その場で腰を下ろした。息も絶え絶えの私に吉澤は言った。
 
「登山って不思議ですよね。最初は山頂なんてどうでもいい、なんて思って登るけど、途中でバテるとすごく悔しい。どうしても山頂に立ちたくなるんです」
 
私は黙って頷いた。
 
「今回、田中さんとここまで登れただけで私は大満足ですが、願わくば、また田中さんと一緒に山に登りたいとも思っています」
「なんで俺だ? 他にもいるだろう」
「俺たち、仕事で何度も力を合わせて難題に立ち向かって乗り越えたでしょう。その度に祝杯をあげた時の達成感が忘れられないんですよ。もちろん他にも一緒に登る人はいますけどね。でも退屈してるなら、また山に登ってみませんか? 次はこの山の山頂を目指します」
「なに言ってんだ。お前が俺と一緒に山頂に立っても力を合わせたことにはならんだろう」
「なりますよ。山頂からの景色を眺めながらビールで祝杯です。最高でしょ?」
 
その時私は思い出した。居酒屋で吉澤と祝杯をあげた時のビールは本当に美味かった。吉澤と共有した最高の思い出だ。まだ見ぬ山頂で乾杯するビールの味、あの達成感を味わうためならどんなことでも乗り越えられる気がした。そして何が何でもこの山の山頂に立ちたいと思った。
 
「吉澤、俺はこれからしっかり体力をつける。次は山頂まで連れて行ってくれ!」
 
私がそう言うと、吉澤は嬉しそうに頷いた。私の中から退屈という言葉が完全に消えた瞬間だった。
 
 
 
 

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2023-10-04 | Posted in 週刊READING LIFE vol.235

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