鴻鵠の志《NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』を観て思う》
天狼院書店店主の三浦でございます。
実は、僕は現在、NHK大河ドラマの『軍師官兵衛』にはまっております。
岡田君の官兵衛も好きなんですが、それ以上に江口洋介の織田信長が好きで仕方がない。
この前の回でも信長のセリフに心底しびれました。
伸ながらの配下荒木村重が謀反を決したことに対して、堺の商人今井宗久が信長に、「となりの摂津(荒木村重の領地)が騒がしくては商売に差し支えがございます」と訴えたことに対して、信長は南蛮渡来の地球儀を手にして宗久にこう言います。
「知っておろう。この日の本がいかに小さいかを。東の果てに浮かぶ小島に過ぎぬ。ワシはこの国を豊かにする。民や南蛮と肩を並べ、競い合うには富がいるのだ。謀反人は、このワシ自らがひねり潰す」
僕は織田信長は、日本史上最大の天才だと思っております。
桶狭間の戦いや長篠の戦いでの戦果のみならず、羽柴秀吉や件の荒木村重など、出自によらずに実力主義で登用する合理性、また楽市楽座や南蛮貿易など、あらゆることに精通しておりました。
固定観念に捕らわれることなく、みずからの頭で何が正しいのかを考え、それを実行することができた。
おそらく、今、この時代に様々なことが分かっているといる立場からしたら、信長が何を考えていたのかもある程度推測できますが、当時、信長のそばに仕えていた人々はどうだったでしょうか。
いくら推し量ろうとしても、推し量ることなどできない。
きっと、得体のしれない化け物に映っただろうと思います。
それもそのはずでございます。
たとえば、登山をしていたとしても、二合目で見える景色と頂上で見える景色はまるで違います。
二合目にいる人が、頂上にいる人が見ているものは、残念ながら見ることはできません。おそらく、こんな景色が広がっているのではないかと拙く想像はできたとしても、明瞭に合致したビジョンを見ることは難しい。
ことに、信長のような、あまりに超然とした天才の視座には到底至ることなどできないでしょう。
おそらく、当の信長も、実にもどかしい思いをしていたのではないでしょうか。
「ワシに見えている景色が、なぜお前たちには見えぬのだ」
人にはプライドがあって、自分の知識や力が高いと思い込んでいればいるほど、プライドも高くなります。
荒木村重は、おそらく、恐怖と欲によって、そして、明智光秀は、おそらくプライドによって、それぞれ、織田信長を裏切ることになります。
きっと、彼らには信長に見えていたものが、まるで見えていなかった。
その不明瞭な点が「闇」を呼びます。疑心暗鬼を生じます。
そして、自己正当化するために、自分の沽券を保つために、理解できなかった存在、つまりは織田信長を貶める必要が出てきます。
不明瞭な存在を貶めることによってでしか、その「闇」から脱することはできないと考えるのでしょう。
それはやはり、弱さなのでしょう。人は、弱さを隠すためなら、何でもやる生き物なのかも知れません。
悪鬼信長と貶めて、自らを正当化し、自己暗示にかけて、自己陶酔にかかって、奮い立たせる。
自分の視座が低い故に、信長を理解できなかったこと、闇にのまれた歴史そのものを、そうすることによってもみ消そうとする。
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
『史記』に出てくる言葉ですが、直訳すればこんな意味です。
ツバメやスズメなどの小さな鳥が、どうして大きな鳥の志を知れようか。
荒木村重や明智光秀には、織田信長の志などわかるはずがない。
鴻鵠には志があって、そして、鴻鵠には大きな鳥ならではの苦悩があります。
同じように、苦悩した人物が、幕末に登場します。
世の中の人は何とも言わば言え 我が為すことは我のみぞ知る
坂本龍馬の言葉です。
これも、きっと信長が感じたのと同じもどかしさから生まれた言葉でしょう。
「鴻鵠の志」を持つ者を全力で押し潰そうとする日本。
実に、危ないような気がします。
なぜなら、「鴻鵠の志」のみが、新しい時代を切り拓くからです。