恋は暇だからするものなのか?悲恋ジャンキーの構造《『容疑者Xの献身』を何気なく観て》
天狼院書店店主の三浦でございます。
今日は閉店前にフロントライン(天狼院の近くの家)に撤退し、満載の仕事を集中的にこなそうと思っておりました。
ふと、何気なくテレビをつけてみると、『容疑者Xの献身』をやっている。
いわずとしれた、名作中の名作でございます。
とくに、堤真一と松雪泰子の演技が図抜けていい。
堤真一扮する石神の、最後のうめきが素晴らしい。その後に続く、柴咲コウの主題歌がまた絶妙にいい。
東野圭吾さんの小説『容疑者Xの献身』は日本が世界に誇れる作品だと思いますが、この映画『容疑者Xの献身』もまたとてつもなくいいのです。
結局は僕は、なんだかんだ言いつつも、『容疑者Xの献身』が好きで、『グレート・ギャツビー』が好きで、実は『タイタニック』が大好きでということになると、やはり、恋愛小説の恋愛映画のたぐいが元来大好きなわけで、それをもって自身の恋愛観と照らしあわせて、ああ、わかるなぞとのめり込んでいるわけでもなく、ただ、客観的に、自分を埒外に置いてただ純粋にこれらの作品が面白いと思えるわけでございます。
それでふと、思ったわけです。
極論、僕は恋愛は暇だからするものではないかと。
ここにおいて、少し、「恋愛」の定義をして置かなければならないかと思いますが、ここで言うところの「恋愛」とは、たとえば、暗闇で溝に足を突っ込むようなたぐいの恋愛のことでございます。ダメだと理性では分かっていても、否応なく落ちてしまう種類の恋愛のことを言っております。
それは、ドツボにはまって、デフレ・スパイラル的な下降螺旋構造へと落ちゆくたぐいの恋愛であり、精神衛生上、実に良くない。誰も幸せにならない。ただし、それは「悲劇のヒロイズム」的に自分を何らかの劇の主人公へと、空想上で押し上げる効果があり、これが麻薬的に作用して、悲恋ジャンキー的に、ともすれば気持ちのいい状態にはまりこんで、そんな非生産的な恋愛構造から多くは抜け出せなくなるものでございます。
多くが、悲恋の物語が売れて、悲恋の歌が売れて、やはりクリスマスは永久に山下達郎の『クリスマス・イブ』が流され、B’zの『いつかのメリークリスマス』が聴かれ続けるのは、やはり、悲恋ジャンキーやジャンキー予備軍が世の中に多くいるからなのでございましょう。
それはわからなくもない。
おそらく、小説や音楽的なクリエイティブというのは、この「悲」なる部分から生まれるのが大部分だと思われ、そうした「悲」をインスピレーションの下敷きにした作品は、それを誘発させる機能も併せ持っているので、極めて健康な精神状態にある人がこれを何気なく聞いたとしても、「悲」のチャンネルをくすぐられ、今の感覚はなんだろう、甘酸っぱいような、陥るのが怖いような、と感覚を追憶から手繰り寄せようとしても、急速に離れていって、それがどんな感覚だかわからずに、感情の路上にあって、なんだか迷子になった気分にもなる。
ちょっと、心が弱っている時にそれらの作品に触れると、たちまち、暗闇で溝に足を突っ込むような恋に落ちてしまうこともあります。
そして、人は、それが「悲」となることが最初からわかりきった恋愛であったとしても、落ちてしまいたいという衝動も、不思議なことに持っているのでございます。「破滅の心理」とでもいいましょうか。
ところが、この悲恋ジャンキーとは、対極に位置するような恋愛の状態がございます。
あまりに極端な例になってしまうことを承知で言ってしまえば、かの山本五十六などは、軍人として仕事をして故郷を離れている最中に、家族が勝手に相手を決めてしまっても、当時としてはそれが当然のことだったらしく、良きにはからえ的な返答しかしておりません。
僕は思春期の最中にその部分を読んで、実に衝撃を受けたわけでございますが、今なら、その山本五十六の心持ちが少しばかりわかるのでございます。
結婚に直結するようなある種の社会的な「恋愛」とは、ある意味男性的で大人の恋愛観であり、それはなぜかといえば、生きるか死ぬかの戦争を前にすれば、暗闇で溝に足を突っ込むような恋に陥って、「ああ、ロミオや、ジュリエットや」と思い悩んでいる暇はなく、それよりもむしろ、明日、どう戦えばこの窮地を脱することができるのかを真剣に考えるほうが重要なのでございます。
そういった、究極に忙しく、優先すべきことがある場合は、たとえ、動物的な欲望をむき出しにしたような、直截的な恋愛はあったとしても、悲恋には走らないのでございます。
それは、別に戦争という悲惨な状況だけではなく、夢中になる夢や目標がある場合にも、悲恋ジャンキーは程遠いものになります。
皮肉なことに、そうやって悲恋にかまけている暇がない人の方が、男女ともに「凛」とするものであって、そうした「凛」とした人に、悲恋ジャンキーは惹かれてしまうものなのでございます。そして、そうした「凛」とした人は、下降螺旋に陥るような恋愛をする人にはあまり興味を抱かないものなので、あるいは興味を持ったとしても一時的に動物的な欲求を満たすためのことなので、悲恋ジャンキーの人は、やはり、下降螺旋を下って行くことになるのです。そして、それが実は心地良くなってしまうので、この構造から永遠に逃れられなくなる。
モテる、と一口に言うと、容姿だの年収だと、いわゆるスペックを取り沙汰されることが多いようでございますが、実は、こうしたスタンスのほうがより重要なのではないかと個人的には思うわけでございます。
なぞと、悲恋ジャンキーの皆様に対して痛切に言ってしまいましたが、しかして、僕としては実際はそうした状態に憧れに近いものを抱くのも、また否定できない事実でございます。
なぜなら、悲恋ジャンキーになっているということは、暇だということであり、悲恋はやはり、作品創作の上ではインスピレーションの源になりえるからでございます。そうした、暇な時間が持てて、「ああ、恋がうまくいかない、自分は死にたい、この想いを小説や短歌にたくそう」などと言える身分は、平安貴族であり、そんな優雅な状況に、憧れなくもないのでございます。
いや、べつに、憧れないか笑。
なぞと取り留めのなく想いつつ、あ、そうだ、今度の月曜日の夜には、「恋する映画ラボ」があるんだと思い出し、最後に宣伝させていただきます。
【概要】 日時:6月16日(月) 19:30-21:30 参加費:¥500+1ドリンク(アルコール推奨!) 定員:20名 場所:天狼院書店「東京天狼院」 持ち物:オススメ映画のDVD・原作本・関連本・パンフレットなどがあれば是非お持ちください!!
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TEL:03-6914-3618