天狼院通信

完全にのぼせ切った状態で、空を眺めておりました。《「休日弱者」の休養》


完全にのぼせ切った状態で、空を眺めておりました。

 

もう、夕焼けの鮮やかさはずっと奥に引いていて、空は黄昏時のかすかな残滓を雲の間に抱くのみでございます。

空には雲がそれほど厚く覆いかぶさっているわけでもなく、18時をとっくに過ぎているというのにまだ明るく、そういえば裸で寝転がっていても少しも寒くないと季節が完全に夏に呑まれていくのを、定かではない頭で思うのでございました。

 

ふと、頬の辺り、水滴が落ちるのを感じました。

二の腕の内側のあたりに、胸に、脚にと水滴が落ちてくる。

見た目は曇りというよりも、晴れに近い空ですが、なぜか、雨が降っているようでした。

あるいは、幻覚かとも思いましたが、横を向き、池に波紋が無数に広がっているのを見るに、間違いなく雨なのだと認識します。

 

初夏の夕暮れ、湯上がりに裸で雨に打たれているのが、心地よく、ただ心地よく。

 

瞳に小さな雨の雫が落ちてきて、まるで涙のように広がるにいたって、心地良さに面白さがにじむように混じったのでございます。

 

はたして、小さな瞳に雨粒が目薬の1滴のように落ちる確率とはどれくらいなんだろうと考えてみました。

フェルミ推定で求められるんじゃないかと思い、前提条件を頭の中で並べてみます。

 

一重まぶたの小さな瞳の面積はどれくらいか。

1時間辺りに何回、瞳に雨粒が落ちるか。

瞬きの頻度と速さはどれくらいなのか。

 

これがわかると、もしかして、今の降水量がほぼ正確にわかるのではないかとぼんやり思います。

けれども、もちろん、頭はまるで身体に落ちる雨粒のように、ぽつぽつととめどない着想を広げては、消すというのを繰り返します。

それを連環させて、何らかのインスピレーションを得ようという野心めいた願望は少しもなく、ただ脳を統制することを一時ばかり放棄して、脳の着想をままにさせてみる。

僕は正直、無我の境地というものには、てんで興味がない。

けれども、あるいはこの脳の自由の先に、果てしなく遠い先に、そんな状態があってもおかしくはないかと想ってみます。

 

その日、僕はとしまえんに併設された温泉施設「庭の湯」にいました。

と、言っても、1日丸々休みを取るなんてほとんど不可能なので、昨日も6:30-17:00までしっかり働いてからの「湯の庭」入りでございました。

 

「庭の湯」には、一言でいってしまえば、「のぼせ」に行っています。

 

その日も、僕は普通の温泉、ジャグジー温泉、炭酸温泉と入り、ぼーっと涼み、外の露天風呂に出て、1人用の壺みたいな風呂に入り、緑に囲まれた庭をぼーっと眺めながら、湯に浸かり、またぼーっと涼み、広い露天風呂に入ってぷかぷか浮いてぼーっと緑を眺める。

そして、次は海パンを履いて、バーデと呼ばれる男女共用の温水プール部分に行くんですが、ここでも泡が吹き出している部分に身体を預けて浮かんだままにぼーっとする。

そのあとは、バーデの外のサウナに入り、のぼせる寸前まで我慢して、そして、外のビーチチェアーで仰向けに寝ていたのでございます。

 

このエリアは、水着着用が義務づけられているので、カップルが多い。

けれども、平日ということで、夫婦や若い恋人同士というよりも、年配の男性と若い女性という組み合わせが多い。

 

なるほど、なるほど。

それも、何らかの合理的な力学。

 

裸になってしまえば、人間なんてものは権威も権勢も裸にされてしまうものですが、佇まいといいますか、風采まではどうやら裸にならないようでして、あるいは一緒の女性を見て、照り返しのようにそう思うだけなのか、ともあれ、年配の男性たちはある種の豊かな権益の保有者のようだと窺えるのです。

その何らかの「豊かな権益」の、直裁的な利益の享受を目論んでいるのか、またはその「豊かな権益」がもたらす、間接照明のような光をある種のオーラと認識するためなのか、または「豊かな権益」とは単に人間的に魅力の結果に過ぎないと動物本能的に感知しているゆえなのか、若く、見た目も美しい女性は、この時間帯をこの年配者に委ねている。

現実として、数組、目の前にあるとすれば、これは様々な力学の結果と因果律的に思うわけです。

 

なるほど、なるほど。

 

そんな取り留めのないことを、想うがままに想っていると、なぜ、このタイミングで「湯の庭」に逃避したのかすら忘れてしまうほどでした。

 

「あ、あ。あ、あ」

 

左耳を塞いで、そう空に向かって行ってみる。

どうやら、聞こえている様子。

妙な耳鳴りもない。

 

ほっと安心しました。

 

実は、その日の朝、起きると右の耳が聴こえなくなっていたのです。

連日の寝不足のままに、W杯のプチパブリック・ビューイングをやろうと早朝6時半から天狼院を開けていたのですが、右耳がまるで聴こえない。右隣に、常連さんの岩田さんがいたのですが、岩田さんの声がまるで認識できない。

 

「え? なんですって?」

 

と、言われるたびに聞き返す。しかも、音がヒュンヒュンとした妙な音に変換にされて聴こえる。

さすがに、まずいな、と思います。

明らかに疲労の蓄積。

 

それで大慌てて夕方まで仕事を済ませ、イベントはスタッフに任せて、仕事から強制的に離れようととしまえんに向かってのでございます。

病院よりも、仕事から離れることを優先しました。

 

仕事のための発想とは、考えてもみれば、あらゆる着想を意図的に有機的に結びつけることによって、半ば強制的にインスピレーションの状態に導くというのが僕の方法論だったと気づきます。

世の中で起きている事象から、常に天狼院で使える情報を抽出し、絶え間ないインスピレーションに、偶発的にではなくて必然的に至る方法論を、どうやら僕は体得してしまっていたようです。

 

のぼせた頭では、その意図の部分が滅殺されます。意図的に有機的に結びつける作業には、存外、エネルギーが要って、頭をのぼさせておけば、面倒がってその機能が一時的に停止するようです。

そして、いつ使うとも知れない、天狼院とは関係のない、着想が生まれては消え、生まれては消える。

 

エコのように、あらゆる着想を天狼院に結びつけるということを日常的に無意識でやっていた僕にとって、これはとても贅沢なことでした。

 

湯から上がり、全身マッサージをすることにはだいぶ脳がリラックスしていて、耳のあたりのモヤモヤもほとんど感じられなくなっておりました。

さらには、仕上げとして、闘志を再注入するために、その日公開されたばかりの『300』の続編をユナイテッド・シネマで観て、インスタントな休養を終えて池袋に戻ったのでございます。

 

今日起きてみて、耳のあたりの違和感はほとんどなくなっていました。

もちろん、様子がおかしくなれば、今度は病院に向かいますが、どうやら、やはり問題は疲労の蓄積にあったようです。

もはや不名誉とも言える連勤記録は700日を超えています。

これからも、当分は休める隙はなさそうでございます。

 

一気呵成に天狼院の基礎を固めてしまうまでは、どうしてもアクセスを緩めることはできない。

間違いなく、正念場。

 

これを乗り越えられるかどうかが、大きなターニングポイントになるのだろうと思います。

目に見えない疲労と上手く付き合いながら、隙を見て、半日でも休養を取りながら、ここを切り抜けて行きたいと思います。

 

最後に、僕が抜けてもイベント、店の両方を回してくれたスタッフに感謝です。

 

天狼院への行き方詳細はこちら


2014-06-21 | Posted in 天狼院通信, 記事

関連記事