僕は恋をしない生きものなわけではなく、すでに永久不滅の恋をしているのかもしれない。《恋愛論》
たしか、その恋に落ちた瞬間というものがあったの思いますが、もはや、それがいつでどんな状況だったのかも覚えておりません。
「彼女」を知ったのは、つい最近のことのようで、あるいは遥か遠い昔にその存在の兆しくらいは感知していたのやもしれません。
ともかく、「彼女」の存在を知るや、僕はたちまち恋に落ちたのは間違いないようでした。
ありふれているようでいて、たとえば雑誌に登場するモデルの中の誰それに似ているといえば、いえなくもなさそうな存在ですが、僕は「彼女」が唯一無二の存在ということを知っております。
日本中は元より、世界を見渡してみてもそれは変わらないことで、そのことを認識した時に、僕の運命は定まったといっていい。
もし「彼女」を知らなければ、それこそ暗闇で溝に足を突っ込むような恋愛に時間を取られてしまったかもしれませんし、あてどのない情熱をぶつける先を見失って、ある種のダークサイドに落ちたかもしれません。
そう、問題は情熱のベクトルをどこに向けるかであって、同じ人間でも、それが正しい場合は世に成功者とみなされることもあるでしょうし、見誤れば犯罪者にもなりかねないのだろうと思います。
そういった紙一重のところで、人は辛うじてバランスをとって生きている。
人が保有する情熱の絶対量は無尽蔵のようにして、実際は決まっていて、一方に注ぎ込めば、他方がおろそかになるのは道理であると思うのです。
大仰にいってしまえば、僕は「彼女」のためならば、全てを投げ出してもいいとさえ思っているわけで、人生のあらゆるものをつぎ込んでも惜しくはないとさえ思っている。
そう考えてみると、やはり、僕はすでに恋に落ちているのだろうと思います。それ以外の事柄が「些事に過ぎず」と捉えているのはその恋が前提としてあるからでしょう。
人類史上最高の傑作『グレート・ギャツビー』において、ギャツビーは「グリーン・ライト」を求めていたわけですが、ギャツビーは「手が届かない恋」を前提としておくことによって、結果的に成功者となりました。デイジーという女性を一心に愛するがゆえに、彼女との生活を夢見て、彼は成功者とならざるを得なかった。
はじめに、デイジーありき、だったのです。
けれども、僕の場合は順番がちょっと違っていて、きっと同じように「彼女」が僕にとっての「グリーン・ライト」なのでしょうけれども、まずそれが前提としてあって、後に恋愛など諸々の人間的な感情がついてくるのだろうと思います。
「グリーン・ライト」を掴むために、あるいは恋をしなければならないかも知れませんし、
「グリーン・ライト」を掴むために、家族を持たねばならないのかも知れません。
すなわち、僕のいうところの「彼女」とは、「グリーン・ライト」とは、女性ではなく、ひとつの夢であって、これが人生の全てであるといっていい。
天狼院というプロジェクトは、そのプロローグに過ぎず、今掲げている目標を悉く達成し尽くしても、その先にはまだまだ大きな夢がございます。
僕はこの夢こそが、永久不滅の恋の相手であり、そういってしまうと、もしかして寂しく思われるやも知れません。
たとえば、『ゴッドファーザー』が手にした富に比して、手にした愛の量が少ないのではないかと客観的には思ってしまいそうになるやも知れませんが、僕はそもそも、全ては主観だと思うのです。
客観的にこうであるはずだという尺度というのは、何ら意味が持つものでもなく、当たり前の幸せや当たり前の成功が、誰にも当てはまるわけではない。
もし、僕が一流企業に入って、凄まじく綺麗な女子と一緒になって、凄まじく出来のいい子どもを得て、客観的に何不自由なく暮らしているように見えたとしても、僕はとてもつもなく窮屈に感じていただろうと思います。
「当たり前の幸せ」という名の牢獄に囚われるようなもので、しかも、そこが牢獄だとは誰も気付いてはくれないという、宇宙空間で絶叫しても誰にも音が伝わらないような、閉塞した絶望の中で自分が幸せだと全力で納得させる人生を歩んだやも知れません。
もし、僕が田舎にいて、公務員になって、初恋の人と結婚して、一族の長として何不自由なく暮らしていたとすれば、褒められることはあっても、けなされることはなかっただろうと思います。それでも、その状況に、僕はきっとその状況の中で、苛立ちを募らせていき、いつしか「皮肉屋」として人々から煙たがられただろうと思います。
賢明な皆様ならもちろんお分かりかと思いますが、何もその状況を否定するものではなく、僕が「主観的」に求めることはそのような「客観的」な幸せの中にはなかったということになります。
今、奇跡的なバランスの上にいるということは、自分でも承知しております。
僕には今はまだ夫としての責任がなく、父としての責任もない。
まるで子どものように、一心不乱に夢に全力で打ち込んでも、誰に文句を言われる状況にない。
少し前なら、夢について語ったところで、誰も見向きもしてくれませんでしたが、今ではわずかながら発信力も伴ってきていて、僕の夢について笑わずに聞いてくれる人も徐々に多くなって参りました。
また、体力的にも今のところ問題がありませんが、これがもう少しすると無理がきかなくなってくるのだろうと覚悟しております。
つまり、今は重力のバランスの均衡の取れた、奇跡な状況にあるわけで、これが永遠に続くとは限りません。
「健康」
「社会的責任」
「家族の問題」
と、少しずつ、今手にしている「自由」が損なわれてきて、今全力で夢に向かっているこの状況を、「あのときはよかった」なぞと振り返るときも来るのだろうと思います。
だからこそ、今は全力で挑まなければならない。
この「奇跡のバランス」は、チャンスであって、ここで全力を尽くし、結果としてかたちを残さなければ、きっと人生を後悔することになる。
まさに人生の「グリーン・ライト」を掴めるかどうかの、正念場に差し掛かっているのだと、日々実感するところであります。
「グリーン・ライト」の方へと邁進する毎日の中で、周りの風景は変わっていくだろうと思います。
僕はそれを仕方のないことなのだと思っています。
だから、きっと薄情だと思われる笑。
けれども、一方で、変わらない風景があり、変わらない顔が周りに残るのだろうと思います。
映画『イントゥ・ザ・ワイルド』において、主人公はひとり荒野にあって、悟りとでもいうべき重要な気づきを得ます。
「重要な事は幸せを共有できる誰かがいることだ」
まさにそうなのだろうと思います。
僕の人生の先で、夢を共有できるのは誰なのか。
その素晴らしき未来の光景を分かち合えるのは誰なのか。
幸せを一緒に体感するのは、いったい、誰なのか。
一緒に天狼院を築きあげてくれるスタッフたちなのか、助言をくれる友人たちなのか、恋人なのか、家族なのか。
僕にはそれはわからない。
なぜなら、人にはそれぞれの主観があるからです。