様態論〜天才とは才能の結果ではなく「様態」である〜《天狼院通信》
天狼院書店店主の三浦でございます。
香川真司選手が、名門マンチェスター・ユナイテッドによって、事実上の戦力外にあると言う。
彼は日本サッカーが生んだ奇跡の結晶であることに間違いない。
ドイツの名門ドルトムントにおいて、中心的な役割をして誰もが文句を言えないほどの活躍を見せた彼が、どうしてマンチェスター・ユナイテッドでは結果を残すことができなかったのでしょうか。
私見ではございますが、僕はこれは才能の不足によるものだとは思っておりません。
単にマンチェスター・ユナイテッドには、香川選手が活躍する「様態」が整っていなかっただけだろうと思うのです。もっといえば、ドルトムントでの目覚ましい活躍によって「天才」と称されたのも、僕は単にドルトムントには、香川選手が「天才」と呼ばれるに相応しい「様態」が整っていたからだろうと思います。
つまり、ドルトムントには、香川選手の能力がいるための環境が整っていたということであり、もちろん、香川選手がいなければその結果は成り立たなかったのは間違いないのですが、他方で、香川選手の能力だけではその「天才」的な結果を残すことができなかったこともまた間違いないのだろうと思います。
つまり、「天才」という様態にとって、「才能」は必要条件ではなく、十分条件でしかないということです。
同じことがF1でも言えます。
ミハエル・シューマッハはワールドチャンピオン5回獲得という輝かしい結果を得て、「皇帝」と称されるようになりました。
彼はベネトンという中堅チームで頭角を現したのち、その結果を残したチームの中核メンバーほとんどを引き連れてフェラーリに移籍しました。
そこで「天才」的な成果をもたらして、フェラーリに圧倒的な黄金時代をもたらしたのです。
それはたとえば、マンチェスター・ユナイテッドが香川と彼と相性のいい攻撃陣とヘッドコーチの全てを引き抜いてチームを再建したようなもので、もし、そうしていれば香川はマンチェスター・ユナイテッドでも「天才」として扱われるための様態を手にしかも知れません。
また、プロバスケットボールの最高峰NBAにおいて、「神」と呼ばれた男がいます。
マイケル・ジョーダンです。
彼は若くして「天才」の名をほしいままにしました。そのときには彼の圧倒的な能力が原因としてあったのは間違いないのですが、ジョーダンはNBAの世界から一度引退してメジャーリーガーを目指しました。そして、再び現役復帰したのですが、誰もがジョーダンは過去のジョーダンのようには空を飛べないだろうと考えました。
天才は、もはや、終焉した。
そう、各メディアが唱えました。
ところが、ジョーダンは、天才を飛び越えて、次は「神」の称号を手にすることになります。
若さとそれに付随する圧倒的な体力、迫力は確かに衰えました。
けれども、復帰したジョーダンはスリーピート(三連覇)を成し遂げ、シカゴ・ブルズに更なる黄金時代をもたらします。
体力が衰えたジョーダンはなぜ「神」と称されるような結果を残すことができたのか?
それは「神」となるべく様態が整っていたからです。
すなわち、当時のブルズは名称フィル・ジャクソンヘッドコーチの元、「トライアングル・オフェンス」という新しい戦術を徹底していました。フィル・ジャクソンがいて、スコッティ・ピペンがいて、そしてリバンド王デニス・ロドマンがいた。その中心に、ジョーダンがいた。
つまり、ジョーダンが「神」と呼ばれるために、必要条件となったのは「様態」だったのです。「才能」は十分条件でしかありません。
僕はこれを「様態論」と名づけようと思います。
この「様態論」を今度は世界のアニメ業界に当てはめて考えてみましょう。
宮崎駿監督を「天才」たらしめたのは、まちがいなく、手塚治虫から始まる日本のアニメ業界の芳醇な土壌があったからです。その土壌においてエースとして君臨することができれば、優れたアニメーターを抱える日本のアニメ業界では、「天才」的な成果を残すことができるだろうと思います。
それを前提として考えても、宮崎駿監督の才能は傑出したものです。その世界観の描き方は世界でも群を抜いている。言うなれば、日本のアニメ業界が蓄積してきたエッセンスが、宮崎駿という器の中に流れ込んで、一人の天才という「様態」をかたちづくっていたのではないでしょうか。
つまり、宮崎駿という器を失えば、日本アニメ業界は「天才」的な成果を残せなくなる。
その利点と弱点の両方を研究し抜いたのが、今のディズニーアニメの大本になっている、ピクサーのジョン・ラセターだろうと思います。
ジョン・ラセターは宮崎駿を尊敬していると言って憚りませんでした。真実、そうだったのでしょう。
けれども、彼は単に尊敬しただけではありませんでした。
天才宮﨑駿という一人の人間に込められた「天才」としての様態を、真剣にトレースして研究し尽くして、もっと大きな器、つまりはディズニーに移し替えたのです。つまり、ディズニー全体を「天才」という様態にしてしまった。
組織全体を「天才」という様態にしてしまえば、これほど強いことはありません。
ひとりの天才がその組織に現れるかどうかは、確率論的に不確かなことです。けれども、組織全体が「天才」の様態を手にしているのならば、人は、細胞に過ぎなくなります。
たとえば、ライターは才能がある10人を集めて、いいところをもちより、誰かがディレクションして、最高のものを仕上げて行けばいい。
「天才」としての様態を手にしたディズニーが生んだ結晶こそが『アナと雪の女王』だったのだろうと思います。
一方で、組織の天才化に失敗したスタジオジブリが隆盛することは、可能性としてほとんどないだろうと思います。
日本人は、この様態論を理解していない。
だから、同じ過ちを繰り返すのだろうと思います。
太平洋戦争において、日本は天才パイロットとゼロ戦の組み合わせで勝利しようとしました。
たしかに、資源が乏したかったという圧倒的不利な面もあったでしょう。
けれども、組織で勝利をすればいい、人間は弱いものだという考え方が下地にあったアメリカは結果的に日本を凌駕していくことになります。『永遠の0』にも描かれているラバウルの航空戦などがそうです。
日本のアニメ業界は、今、アメリカのアニメ業界に対して太平洋戦争と同じ負け方をしようとしている。
『アナと雪の女王』はそれを証す作品なのだろうと思います。
僕が唱えるところの「様態論」は、どちらかと言えばトルストイの『戦争と平和』における「ナポレオンがいなければ、また別のナポレオンが現れただけだ」というある種のニヒリズムに近いだろうと思います。司馬遼太郎先生の「竜馬がいなければ明治維新は起きていないだろう」というある種のヒロイズムと対極にあります。
けれども、我々は、同時に天才が世界を変えてくれる場面を幾度となく見ています。
シューマッハが皇帝として君臨する前、F1界は天才アイルトン・セナが時代を席巻していました。
アイルトン・セナとマクラーレン・ホンダという組み合わせは、当時は世界最強の「様態」だったとも言えるでしょう。
圧倒的な強さを持つマクラーレンのシャーシ(車体)に、当時世界最強だったHONDAのエンジンが積まれ、天才アイルトン・セナがパイロットとなっていた。
負ける理由が見当たらないくらいの最強の「様態」だったろうと思います。
けれども、当時HONDAのアイルトン・セナ担当のメカニックだった方はこんなことを言い残しています。
「このシャーシでこのエンジンを積んで、このコースで最高の状況でドライブすれば、MAXでこのタイムが出るだろうとコンピュータが予測していた数値がありました。合理的にはその数値を超えられないはずでした」
すなわち、「様態」としての最高点がそこにあった。
「けれども、アイルトン・セナはそのタイムを破るんです。彼は時に滑りながら、コーナーを駆け抜けていたのです」
あるいは、神が能力を授けるような種類の、本統の意味での「天才」は世の中にいるのかも知れません。
けれども、組織や再現性を考える上で、「天才」の出現は「異常値」として判断しなければものごとは進まないだろうと思います。
本統の天才の出現をロマンを持って待ちつつ、我々は組織をそして自分自身を、天才と称される成果を残す「様態」の中に組み入れることが、現実的なアプローチかと考えます。
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