文豪の心は鎌倉にあり

【文豪の心は鎌倉にあり 第3回】川端康成「魔界の文学」への誘い・前編《天狼院書店 湘南ローカル企画》


記事:篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
鎌倉文学館は、鎌倉の顔の一つである「文学の街」を堪能することができます。建物は、旧前田侯爵家の別邸で国の登録有形文化財です。緑の木立に囲まれた中、館へ入り、窓外へと目をやると青く輝く湘南の海が一望できるロケーションです。
 
格調と気品あふれる建物の中は、鎌倉ゆかりの文学者の展示を行ない、さまざまな展覧会が行われています。また、広大な庭園には美しいバラが季節ごとに咲き、来訪者の目を楽しませてくれる施設です。
 
私たちは、そんな鎌倉文学館の館長であり、文芸評論家の富岡幸一郎氏にお話を伺う機会を得ました。館長から飛び出す鎌倉ゆかりの作家・文学者のエピソードをここに紹介します。ご存分にお楽しみください。
 
 

■第三回(川端康成「魔界の文学」への誘い・前編)
語り手:富岡幸一郎


 
昭和32年(1957)東京生まれ。54年、中央大学在学中に「群像」新人文学賞評論優秀作を受賞し、文芸評論を書き始める。平成2年より鎌倉市雪ノ下に在住。関東学院女子短期大学助教授を経て関東学院大学国際文化学部教授。神奈川文学振興会理事。24年4月、鎌倉文学館館長に就任。著書に『内村鑑三』(中公文庫)、『川端康成―魔界の文学』(岩波書店)、『天皇論―江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋)等がある。
 
鎌倉文学館HP
http://kamakurabungaku.com/index.html
 
関東学院大学 公式Webサイト|富岡幸一郎 国際文化学部比較文化学科教授
https://univ.kanto-gakuin.ac.jp/index.php/ja/profile/1547-2016-06-23-12-09-44.html
 
http://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/teacher/comparative_culture/tomioka-koichiro/
 
第三回に取り上げる文豪は川端康成です。鎌倉文士の象徴である川端は『伊豆の踊子』(金星堂)、『雪国』(創元社)など多くの文学作品を残しています。ノーベル文学賞を受賞するなど多くの業績がある川端が、鎌倉に移住してから残した作品を中心に富岡館長にお話を伺いました。
 
 

●同人誌を作るために鎌倉へと移住


今回は、川端康成と鎌倉についてお話したいと思います。生まれは大阪で明治32年の生まれです。第一高等学校に入ってからは本郷、浅草と移り住み、昭和10年12月に鎌倉へ移ります。
 
横須賀線が開通して以来、鎌倉が保養地・別荘地として栄え、大正の終わりから昭和にかけて大勢の文士が住みだしました。川端もその流れを受けて鎌倉に移ったとも言えるのですが、実のところ、昭和10年に創刊された雑誌『文學界』が移住に大きく影響しています。
 

 
文藝春秋にも同じ名前の雑誌がありますけど別ものです。すでにプロの作家、評論家として活躍していた文士達が、同人誌を創刊しました。なぜかと言いますと、当時は戦争の色が濃くなってきた時期です。昭和6年に満州事変、昭和12年に日中戦争が起きる頃で言論弾圧が始まり、プロレタリア文学も弾圧されていきました。創刊者の一人林房雄さんは元々プロレタリア文学の作家でしたが、日本主義に転向します。転向後は日本人の歴史に回帰して明治維新の話などを書いています。
 
昭和10年は日本文学にとってエポックメイキングの年といえます。国家主義が強まり、雑誌の場において自由な言論を保持するために評論家の小林秀雄、日本百名山で有名になった深田久弥、先述した林さんが共同編集人となり『文學界』が創刊されます。みんな鎌倉に住んでおり、林さんが川端に「鎌倉に住んで一緒に雑誌を作ろう」と誘ったのです。最初は浄妙寺に住んでいました。
 

 
以後、鎌倉に住むことになります。当時36歳です。昭和12年の5月に二階堂に転居しています。これは詩人・蒲原有明の家を借りて住んでいました。戦争を挟んで昭和21年の10月に今の鎌倉文学館近く長谷の246番地に移り、ここで生涯を過ごすことになります。
 
 

●川端が鎌倉の自宅で「対話」していた日本画の存在


今、鎌倉文学館では川端康成展(2020年12月23日まで)をやっています。川端が収集した美術品とかコレクションを収蔵している記念会も同じ場所です。そういう意味では川端康成にとって縁の深い土地といえると思います。
 

 
関西の生まれですけど、新感覚派で若い頃は浅草に住んでおり『浅草紅団』(先進社)は初期の代表作です。鎌倉に移り住んでからは『山の音』(筑摩書房)、『千羽鶴』(筑摩書房)を書いています。
 
その二つの作品に触れる前に、鎌倉に移った後、戦後なんですけど今回の文学館の展示にもある《凍雲篩雪図(とううんしせつず)》という江戸時代の日本画と川端との繋がりについてお話をします。この絵は浦上玉堂(うらかみぎょくどう)の作です。絵を京都で見つけ、長谷の家に持ち帰り飾っています。
 
川端は以前から《凍雲篩雪図(とううんしせつず)》に非常に興味を持っていて、戦後すぐに滋賀に住む方がこの絵を所有していると聞き、わざわざ自宅にまで直接訪問しています。そして「あの絵が欲しいからください」と頼んでいるのです。するとその方が「あの絵は戦時中に焼けてなくなった」と答えました。それで一旦話が終わっています。
 

 
その後、昭和25年に川端は日本ペンクラブの会長になり、11月に広島市の招きでペンクラブの会長として訪問したときに縁が生まれるのです。広島は原爆の被災地ですからそこを視察するのが目的です。戦後復興は始まっていましたが、原爆の惨禍が残っている頃です。鎌倉から列車で18時間くらいかけて広島市議会で講演したり、赤十字病院を訪問したりと多忙な日を過ごします。
 
視察した川端は「非常に強いショックを受けた」と言います。ただ同時に「広島で起死回生の思いをした」と述べているのです。起死回生、つまり、あの非常に悲惨な広島の20万人の死が自分に生きる力を与えてくれたと言っているのですね。そして「広島が私を鼓舞した」と驚くような言い方をしています。「私は広島の悲劇を書きたい」とも述べました。
 
その帰りに京都に寄って、そこで浦上玉堂の《凍雲篩雪図(とううんしせつず)》が出てきたと画商から聞きました。川端はすごく驚いて「是非見たい」「買いたい」と言い、すぐに購入したのです。奥さんに何度も「為替をくれ」と手紙を送り、かなりの高額で買いました。
 
この絵は、非常に美しく大きな自然に取り巻かれているけど、寂寥感(せきりょうかん)というか孤独感というか、巨大な雪の山を描いたものです。まさに「凍る雲」とも言われていて、粉雪が舞っている絵なんです。その絵を川端は、自分のある感情の原点にした。あれを鎌倉の自宅に持ち帰り、深夜ずっとあのぎょろっとした目で対話していたんです。それが川端康成の戦後の重要な出発点です。だから広島と《凍雲篩雪図(とううんしせつず)》という絵が川端康成の中で融合して戦後の作品に影響を与えたと思います。
 
 

●川端康成は太宰治に恨まれていた?


川端康成といえば『伊豆の踊子』(金星堂)ですね。昭和12年に単行本になった『雪国』(創元社)も代表作の一つです。『雪国』は一応いろんな雑誌に書いたのが一冊になるんですけど、今、僕たちが読んでいるのは戦後さらに加筆しています。戦後になって最後のシーンを書き足したのです。あの作品は全体で言うと12年くらいかけて完成させているのです。川端の中ではかなり長い時代をかけて連作を積み重ねて書いています。
 
 
 
太宰治は『晩年』(新潮社)という小説で芥川賞が欲しかった。昭和10年に芥川賞ができるのですが、太宰は川端が選考委員だったので「芥川賞をください」という手紙を長々と書いて送りつけました。ところが川端は直接否定したのかはわからないけど、受賞させなかった。それで太宰は「川端康成のせいで芥川賞を取れなかった」と恨みを抱き、反発をしていたのです。
 
ただ、『雪国』に関しては負けると言っています。12年もかけて書き上げたという粘りには脱帽するとも言っているのです。あの小説は日本の近代文学を代表すると共に多くの作家にも影響を与えました。後にノーベル文学賞を受賞して道を開いた作品です。
 
よく読むと不思議な作品ですね。島村という妻子ある男が雪国の温泉場に現れて駒子という芸者と仲良くなる物語です。最初の「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」の文章のイメージで雪のシーンが多いと思われますけど、二人の出会いは春です。初春に島村が山から降りてきて温泉場の駒子と知り合います。
 
春・夏・秋・冬の四季があの作品に描かれています。そういう四季と雪のシーンを見事に表現している。島村はいい加減な男で1年くらいいなくなって、また不意にやってくる。駒子は島村に深い愛情というか恋心を抱きます。ところが島村は都合の良いときにしか来ない。それで駒子が段々と自分を追い込んでいくような感じになります。
 

 
印象的なのが最初の出会いの時、春なんですけど、蝶が二羽寄り添いながら高く空に昇っていくシーンがあります。それは島村と駒子を象徴しているんです。秋になると蛾が出てきます。宿の窓にたくさんくっついている。それは駒子が変貌していく姿の描写です。蝶から蛾になっていく風に読める。駒子が孤独と愛のなんというか、思いが伝わらないことで自分を追い込んだら蛾になった、ということしょうか。細かいところを読むと非常に良く書けた作品ですね。
 
行間を読むという言葉がありますよね? あの小説は何度か読み返すと色々なことがわかってくるところがあります。僕も蝶と蛾はね、読み返してわかりました。行間、即ち書かれてない部分に大事なことが書かれているのです。駒子と島村が男女の関係になるシーンがありますが、文章として書いていません。匂わせるような会話があるんだけど、一旦会話が切れて行間が生まれて想像させています。
 
実は当時、検閲があったので、そのせいかと思いました。しかし、今は検閲でどこを削ったかが全部出ていて確認できます。見てみると、確かにエロティックなシーンは削っています。でも最初から書いてないんです。それが、言葉のないところに言葉があるのを読ませようという小説『雪国』なんです。これはまさに日本の他の芸術と相通じる部分です。余白とか余韻があるじゃないですか、それと同じです。
 
会話と会話の行間に大事なメッセージが込められているというのが『雪国』の持っている一つの秘密なんです。だから『雪国』は再読を繰り返すと非常に見えてくるものがある面白い作品です。12年もかけて書いているので川端康成の代表作といっていいと思います。戦争をまたいで書いていたのも重要だと思います。
 
 

●鎌倉の自宅の裏にある山を小説のモデルに


戦後、長谷の家に移って書いたのが『山の音』(筑摩書房)と『千羽鶴』(筑摩書房)です。この『千羽鶴』と『山の音』はほぼ同時並行で雑誌に断続的に発表しています。もの凄いエネルギーを持って書き始めたといって良いと思います。他にも色々な作品を書いています。
 
 
 
山の音は尾形信吾と一歳年上の妻の夫婦を基軸にした家族小説です。戦地に行って心理的に傷を持つ息子・修一、その妻の菊子が出てきます。尾形夫妻の娘で離婚して二人の子供がいる房子も登場人物の一人です。舞台は昭和21年に引っ越した自宅がモデルになります。
 
尾形信吾は少年の頃に妻の美しい姉に憧れを持っていました。結婚してその姉は若くして亡くなっています。それから30年あまり、会社の社長として鎌倉に居を構えており、かなり豊かで恵まれた家庭でした。空襲で家が焼けたとかないし、息子も戦争に行ってトラウマがあるけど、戦死したわけではない。ですから戦争の直接の被害は受けていない。戦後の生活を中流というかブルジョア的な家庭を営める家ですね。その中で離婚した娘の房子の夫が他の女と心中事件を起こしたり、息子の修一が菊子がいながら他に女を作ったりしています。一見平和なブルジョア的な家庭が内部を見ると崩壊していく姿を書いているのです。
 

 
作品の底から段々崩れていくというか、夫婦や家庭の異様な姿を表現しています。尾形は、息子がトラウマがあるとはいえ、外に女作ってしまうということで嫁の菊子に同情をします。しかし、次第に愛情に変質していく。道ならぬ嫁への思いも出てきます。ある意味戦争と、戦争の傷跡というか、戦争小説みたいに直接描くのではなく、むしろ戦後の日本人の家庭の中にそういうものを描きだした。有名な一節が冒頭に山が鳴る描写があるので読み上げますね。
 
「八月の十日前だが虫が鳴いている。木の葉から木の葉へ夜露の落ちるらしい音も聞こえる。そうして、ふと信吾に山の音が聞こえた。風はない。月が満月に近く明るいが、しめっぽい夜気で、小山の上を描く木々の輪郭はぼやけている。
 
しかし風に動いてはいない。信吾のいる廊下の下のしだの葉も動いていない。鎌倉のいわゆる谷の奥で、浪が聞こえる夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。遠い風の戸に似ているが、地鳴りとでもいう深い底力があった。自分の頭に聞こえるようでもあるので、信吾が耳鳴りかと思って、頭を振ってみた。
 
音はやんだ。音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた死期を告知されたのではないかと寒けがした。風の音か、海の音か、耳鳴りかと、信吾が霊性に考えたつもりであったが、そんな音などしなかったのではないかと思われた。しかし確かに山の音は聞こえていた。魔が通りかかって山を鳴らして行ったかのようであった」
 
こう書いてあります。最後の一行凄いよね。
 

「魔が通りかかって山を鳴らして行ったかのようであった」

 
これが山の音なんですね。川端は難しい描写はそんなにしないのだけど、これは他の人には書けないというのがあります。これがまさにそうですね。雪国でも二行目の
 

「夜の底が白くなった」

 
これは書けないよね。新感覚派だから非常短く詩的に書いているんだけど、夜の底が白くなった。要するに夜汽車がトンネルを抜けて向こうに雪が降り積もっている。周りに明かりもなくてぼうっと降り積もった雪が光になって夜の闇の中を照らしていたと普通は書くんです。それを「夜の底が白くなった」、これでノーベル賞決まり。これは書けない。そういう言葉を川端は書くんだよね。これはエッセイとかさりげない随筆でも出てきますね。
 

 
それは本当に関心します。まさに山の音、不気味な、山が主人公に死を告知するような描写です。この山があるのは長谷の川端邸の背後です。隣に鎌倉最古の神社・甘縄神社があります。この山も鎌倉文学館と繋がっているんです。ここからずっと川端邸の山まで繋がっています。
 
『山の音』は表面は静かな日常が展開されながら背後に崩壊とか危機とかがはらんでいる世界です。川端康成はノーベル賞受賞した講演「美しい日本の私」で一休禅師の言葉をとって
 

「魔界なくして仏界はありません。そして魔界に入るのは難しいのです。心弱くてできることではありません」

 
と述べています。文学というのは宗教とか救済、人間の心の救済とギリギリ関わるけど、宗教や信仰とは違う。仏界、仏の世界に入って人間が救われるというのを文学は書いてなくて、それは宗教の世界。文学はギリギリ接しているけど救える予兆は出るが、宗教とは違う何かを与える。つまり仏界に対して魔界だと述べています。川端が
 

「仏界は入りやすし、魔界入りがたし」

 
これを書で書いています。これも凄いです。もの凄いエネルギーがある書です。川端康成の文学は「魔界の住人」というか、通常の道徳とかヒューマニズムとかを寄せ付けない非常に厳しい寂寥(せきりょう)の世界、虚無と孤独の世界、それが非常に自然のたおやかなものと美しいものと表裏一体になっている。
 

 
仏界と魔界が隣り合うような、生と死の世界が往復するような、そうした住民としての文学。旅人と文学と川端は言っているけど、そういう地上の空間を旅するだけではなく、此岸と彼岸というか一つへの世界、仏界と魔界、救済と虚無の世界を往復する、そういうところに川端康成の文学の本質があるんじゃないかという気がします。非常に特異な作家です。
 
 
後編へ続く
 

●川端康成の歩み
・明治三十二年(1899)
六月十四日、大阪市北区此花町一丁目七十九番屋敷に、父栄吉、母ゲンの長男として出生。
 
・大正六年(1917)
三月、茨木中学校を卒業。第一高等学校を志望し、浅草蔵前の従兄を頼り上京。九月、第一高等学校文科乙類に入学。
 
・大正九年(1920)
七月、第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部英文学科に入学。
 
・大正十一年(1922)
六月、国文学科に転科。夏、湯ケ島で『湯ケ島での思ひ出』(百七枚)を書いた。この年から自活する。
 
・大正十三年(1924)
三月、東京帝国大学国文学科卒業。卒業論文の序章が『日本小説史の研究に就て』と題されて発表される。
 
・昭和二年(1927)
三月、第二作品集『伊豆の踊子』(金星堂)刊行。
 
・昭和四年(1929)
新聞小説第二作『浅草紅団』を連載、カジノ・ブームが起きる。
 
・昭和九年(1934)
湯沢で『雪国』連作を書き始める。
 
・昭和十年(1935)
芥川賞の銓衡委員となる。『雪国』の分載発表。十二月、林房雄の誘いによって、鎌倉町浄明寺に転居。
 
・昭和十二年(1937)
六月、書き下ろしの新稿を加えて、初の単行本『雪国』を創元社から刊行。
 
・昭和二十年(1945)
五月、鎌倉在住の文士の蔵書を基に貸本屋鎌倉文庫が開店。八月、島木健作の死をみとる。
 
・昭和二十一年(1946)
一月、鎌倉文庫から雑誌「人間」を創刊。三島由紀夫の作品『煙草』をこの雑誌にのせる。十月、鎌倉市長谷に転居し、生涯過ごす。
 
・昭和二十二年(1947)
十月、『続雪国』(「小説新潮」)を発表、『雪国』を十三年かかって一応完結したことになる。
 
・昭和二十四年(1949)
五月から『千羽鶴』の、八月から『山の音』の連作分載が始まる。
 
・昭和二十五年(1950)
四月、ペンクラブ全員と広島、長崎を視察。
 
・昭和二十七年(1952)
二月、『千羽鶴』(筑摩書房)を刊行、これにより芸術院賞を得た。
 
・昭和二十九年(1954)
四月、『山の音』を完結、刊行(筑摩書房)、これによって野間文芸賞を受けた。
 
・昭和三十九年(1964)
六月、『たんぽぽ』の連載始まる(「新潮」)。
 
・昭和四十三年(1968)
十月、ノーベル文学賞受賞が決定。十二月ストックホルムにおもむき記念講演『美しい日本の私ーその序説』を行なった。
 
・昭和四十七年(1972)
四月十六日夜、逗子マリーナの仕事部屋でガス自殺。満七十二歳と十力月であった。
 
※参考資料:公益財団法人川端康成記念会HP「川端康成 略年表」より

http://www.kawabata-kinenkai.org/nenpyo.html
 

 
 
(文・篁五郎、写真・山中菜摘)

□ライターズプロフィール
篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)

神奈川県綾瀬市出身。現在、神奈川県相模原市在住。
幼い頃から鎌倉や藤沢の海で海水浴をし、鶴岡八幡宮で初詣をしてきた神奈川っ子。現在も神奈川で仕事をしておりグルメ情報を中心にローカルネタを探す日々。藤沢出身のプロレスラー諏訪魔(すわま)のサイン入り色紙は宝物の一つ。

□カメラマン
山中菜摘(やまなか なつみ)

神奈川県横浜市生まれ。
天狼院書店 「湘南天狼院」店長。雑誌『READING LIFE』カメラマン。天狼院フォト部マネージャーとして様々なカメラマンに師事。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、カメラマンとしても活動中。

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2020-10-27 | Posted in 文豪の心は鎌倉にあり

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