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京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜

【最終回 京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜】第六話 トラウマを消し去りたいあなたへ 後編≪もえりの心スケッチ手帳≫


文:鈴木萌里(京都天狼院スタッフ)
 
 
京都天狼院書店の女将ことナツは困っていた。
昨日アルバイトスタッフのもえりから打ち明けられた悩みに、どう答えたら良いか、何度考えても分からなかったからだ。
 
小説を書きたいのに、書けない。
 
ナツからすると、それがどんな感覚なのか、想像できないからだ。
もし彼女が、「書きたくない」というのなら、自分は迷わず「じゃあ書かなくていい」とアドバイスしただろう。彼女に書くことを強制する権利を持つ者はどこにもいないのだから。
しかし、そうじゃない。
彼女は書きたいと思っている。だからこそ、悩んでいるのだ。昨日自分に悩みを打ち明けたのだ。
 
 
他のアルバイトスタッフが休憩にいっている間、ナツが店頭に立ってお客さんの対応をしているのだが、自分に何か重大な考えごとがあったって、お客さんは構わずやって来る。だからそんな時は、考えごとは一旦忘れて接客に専念するしかない。
「こんにちは」
そんなことを考えているうちに、レジカウンターの前にお客さんが立っていることに気がついたナツが、咄嗟に笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりでしたらお伺いいたします」
いついかなる時でも、お客様の対応を一番先にする。それが板についていたナツは、突然の対応にも絶対に慌てない。これまでの仕事の経験がなせる業だ。
「すみません、私は昨日こちらにお伺いした者です」
お客さんがこうして名乗ってきたり、「以前に来た……」と申し出て来たりしても、女将は決して焦らない。ここは京都天狼院書店だ。普段から「ご無沙汰してます!」と元気に挨拶してくれる一般のお客さんや、京都天狼院とコラボイベントをしたいという他社さん、「自分の書いた本を置いて欲しい」と頼みに来る駆け出しの物書きさんがしょっちゅう来るからだ。
 
「昨日、ですか。おそらく他のスタッフが店頭にいたかと思います」
わざわざ名乗ってきたということは、何か自分か他のスタッフに用があるのだろうと察したナツは、見たところ40~50代に見えるその男に向かってそう言った。
「ええ、昨日は鈴木さんでしたね」
「名前までご存知なんですね」
「それが、ちょっと事情がありまして。私は以前から鈴木さんと知り合いなのです」
彼はそこまで言うと、何か思うことでもあるのか、少しの間意味深に黙り込んで、それからこう言った。
「今日は、鈴木さんはいらっしゃらないのでしょう?」
「え? ええ……彼女は今日は休みでして」
「なるほど」
ナツは今までのやりとりから、なんとなく、彼が何者なのか分かってしまった。
いや、正確に誰か、ということまでは分からないのだけれど、昨日来たというのと、昨日のもえりの様子から、彼が彼女の“悩み”について何かしら関係のある人物だということを推測した。
それから男は、店内を一通り見回して、自分の他に客がいないことを確認すると、こう言った。
 
「店員さん。鈴木さんのことでお話ししたいことがあります。少しだけお時間をいただけないでしょうか?」
 
 
ナツはホットコーヒーを淹れて、男を一階のこたつ席に案内した。
かつてナツ自身も、お店にやって来るお客さんと仲良くなり、色んな相談事を持ちかけられることが多かった。もえりがアルバイトに来てからは、どうやら彼女に何かしら人生相談をするお客さんが増え、すっかり自分の役割は終わっていた。だから、こんなふうに一般のお客さんとこたつ席でお話をするのはとても久しぶりだ。
 
「申し遅れましてすみません。私は以前あおい文学賞という短編小説文学賞の審査委員長をしていた、杉崎と申します」
ナツが持ってきたコーヒーに手を伸ばす前に、男がそう名乗った。
そこでナツは、やはりこの男が、昨日の夜もえりから聞いた審査委員長の杉崎なのだと確信した。
「あなたのことは、昨日少しだけ伺っております。もえちゃん——鈴木が大賞をとった文学賞の審査委員長だったと」
「ええ。そこまでお聞きでしたか。それなら、彼女が昨日私と会ったことも話したのでしょう」
「そうですね……。あなたにもう一度小説を書いて欲しいと言われて、動揺しております」
ナツはあくまで事実を述べる。
別に、杉崎のことを責め立てようとか、昨日の出来事を詳しく教えて欲しいなどと頼むつもりはない。杉崎に落ち度があったわけではないということぐらい、重々承知していた。どちらかと言うと、もえりの方が自分を見失って仕事ができていなかったのだ。彼女が悪いわけでもないが、ここは中立の立場にいるのが無難だろう。
「そうでしょうね。私は昨日彼女を突然訪ねて、あんなことを言ってしまったのを後悔しております……」
杉崎は淹れたての熱いコーヒーを少しだけ啜って、またすぐにカップをテーブルの上に置いた。その行から、昨日の行いを恥じていることが伝わってきて、ナツはなんとも言えない気持ちになる。
杉崎に、もえりのことを傷つけようなんて気持ちは毛頭ないことがすぐに分かった。
 
「彼女は……、鈴木は、小説を書きたくないのではないと言っておりました」
「え?」
ナツは、わざわざ昨日の出来事を悔いて連日京都天狼院まで訪れてくれた杉崎に、正面から向き合いたいと思った。
「書きたくないのではなくて、“書きたいのに書けない”んだそうです。自分を可愛がってくれたお婆さんの最期に間に合わなかったことが、自分が小説を書いたせいだと思っています。それ以降、小説を書こうとすれば手が動かなくなるそうなんです。……私は小説を書く人ではないから、それがどういうことなのか、完全には分かりません。でも、そういうのって、誰もが経験する小さな“トラウマ”なんじゃないかと思って。ううん、“トラウマ”なんて本当は思い込みで、彼女自身が、書けない理由を探しているだけなのかもしれません。なんんにせよ、私には分からない。彼女にどんなアドバイスをすれば良いか分からなくて、途方に暮れています……」
 
ナツは、今日仕事が始まってからずっと考え込んでいたことを、杉崎の前で吐き出した。もえり本人がどうすればいいか分からないというのと同じように、ナツも、どんなふうに助けてあげればいいか、その答えを考えあぐねていること。
 
もし杉崎が何か知っていることがあれば、教えて欲しい。
そんな願いを込めて語ったのだ。
「そうでしたか……。だから昨日も彼女はあんなに……」
杉崎は、ここでの昨日の彼女とのやりとりを思い出したのか、やっぱり自分の行いを反省している様子で眉根を寄せている。
そして、再び深く息を吸い、彼女に対する想いを語り始めた。
「私は……、実は、息子を亡くしておりましてね。生きていたらちょうど、鈴木さんと同じ歳だったと思います。息子は、高校二年生の夏に、自ら命を絶ったんです。学校でいじめられていたことが原因で……」
予想外の話が出てきて、ナツは戸惑う。
しかも、その内容が衝撃的で、穏やかな雰囲気の杉崎に、そんな過去があったなんて思いもしなかった。
「私も妻も、ずっと後悔していました。夫婦揃って、息子の苦しみに気づいてあげられなかったんです。一人息子だったもので、それから一年の間、二人とも気持ちが沈んだまま、全く生きている心地がしなかった。夫婦間で会話も減って、来る日も来る日も、息子のことを想う毎日。それがとても苦痛だった。いつになったら、私たちは前を向けるんだろう。もしかしたら、一生このままかもしれない。いいや、前を向いてなんかいたら、息子がかわいそうだ。息子は一人で苦しんで、死んでしまったのに……。私たちだけが、この先のうのうと暮らしてゆくなんて、そんなことは許されないとさえ思いました」
杉崎の話を聞いていると、ナツは自然と胸が痛くなる。
こんなふうに自分を責めなければいけないなんて、そんな毎日が永遠に続くかもしれないなんて、もし自分だったら耐えられないだろう……。
コーヒーの湯気に、こたつ席の空間が揺らめいて見える。数年前の杉崎さん夫婦が、息子さんの死に心を痛め続ける日々が、はっきりと脳裏に浮かぶ。完全に妄想なのに、まるで本当に見てしまったかのようだ。京都天狼院では時々こういうことがある。誰かの人生まるごと、自分も体験しているような感覚。この温かみのある木でつくられた空間が、そうさせているのだろうか。
「そんなふうに、毎日死んでいるか生きているか分からないような心地で、無心で仕事に明け暮れている時に出会ったのが、彼女の小説でした」
 
 
『青のまんなか』
タイトルを見た瞬間に、なぜだか私の心が急激に惹かれ、気がつくとページをめくっていた。手書きの原稿用紙に綴られた言葉の一つ一つが、沈んでいた自分の心の奥深くに沁み渡った。なんでもない青春の日々の中で、どちらかと言えば葛藤することの多い日々の中で、きらりと光る幸せの雫が、言葉の端々から感じられた。
派手な物語ではない。ドラマチックな展開があるわけでもない。
けれど、主人公の高校生の少女が、日常の中で感じる小さな幸せに、読んでいる私の方が
勇気をもらった。
 
好きな男の子に告白してフラれたこと。
フラれたけれど、「これからも仲良くしてほしい」と言われて心が和んだこと。これからもっとその人のことを知ればいいんだと前向きになれたこと。
それは、振った方の男の子からすれば、社交辞令、いや自分にとって都合の良い言い訳みたいなものだ。それも分かった上で、「やっぱり好きだ」と思ったこと。
 
大好きな親友と喧嘩をして、もう絶対に仲直りなんかできないと思って意気消沈して家に帰ったこと。
でも翌日、その子が「ごめんね」と素直に謝ってきたこと。
一瞬のうちに、親友を許せて、自分の方こそ悪かったと感じたこと。
心の奥底で、親友に対して怒ってはいなかったこと。
 
そういった、青春時代の情動が、あまりにも繊細な感性が、瑞々しい文章で伝わってきて、気がつくと私は涙を流していた。
いい歳した大人の男が、誰かの作品を読んで泣いている様を見るなんて、一緒に審査委員をしていた会社の部下たちも思わなかっただろう。
自分でも不思議だった。
これまで仕事の関係上、一年に何百冊と小説を読んできたのに、これほど素直に心が動かされたのは久しぶりだった。
そして、『青のまんなか』を読み終わったあとの、なんとも言えない前向きな気持ちを、どう表現したら良いか分からない。
だだひたすら、私は胸の中が喜びと愛しさで満ちるのを感じた。
 
ああ、もう、前に進んで生きて、いいんだと。
 
「私は、彼女の作品に救われたんです。息子の死から立ち直れなかった私に、一つの勇気をくれたんです」
真っ直ぐなまなざしでナツにそう訴えかける杉崎の揺るがない想いが、ナツの心を震わせた。
この人が、どうしてここまでしてもえりに小説を書いて欲しいと言うのか。
自分が、救われたからだ。
彼女の物語が、この人を幸せにしたからだ。
「まったく敵わないですね……」
杉崎にも、彼女にも。
二人とも、愛しているのだ。
物語を、愛している。
だから、書きたいのに書けないと泣いている。
もう一度書いて欲しいと懇願する。
その気持ちは、美しいじゃないか。
これほど真っ直ぐに想えるなんて、素敵じゃないか。
「どうでしょう。彼女に、もう一度書いてもらうことは、できますでしょうか……?」
「それは……できます。いや、私がなんとかしてみせます。彼女に伝えます」
ナツはもう迷わなかった。
自分がもえりにできること。それは多分自分だけが知っている。だってこれまで、京都天狼院で働く彼女を見てきたのは、他でもない自分なのだから。
「だから少しだけ、待っていてください」
「分かりました。よろしくお願いします」
温かい。寒い冬なのに、ナツと杉崎の周りを漂う空気が、ホットジンジャーを飲んだ後みたいな幸福感に包まれていた。
 
***
 
「明日のシフトのあと、話があるの」
ナツさんが私に電話をしてきたのは、私がナツさんに自分の身の上話をして一週間が経った頃だった。
「話……ですか」
なんだろう。
やっぱりこの間のことだろうか。私が変な相談をしたばっかりに、ナツさんに迷惑をかけてしまったからだろうか。
緊張しながらその日、午後から夕方までのシフトを終え、一階のこたつ席で待機すること15分。
「こんにちは〜」
店の扉を開けて、明るく挨拶をしてくれるお客さんがいた。聞き覚えのある声だと思い、声のする方を見れば、そこにいたのはすっきりとした黒髪のショートヘアの女の子。
「あなたは……」
「やだ、分かりませんか? あたしです。宮脇沙子です」
「え、沙子さん!?」
「そうですよ〜もう、ひどいですね。忘れないでほしいです」
もちろん忘れたわけではない。他人に自分のことを上手く伝えられない、人間関係で悩んでいると打ち明けてくれた女子高生の宮脇沙子。以前は明るい茶色の髪をしていた。パーマ付きで。それが、どうだろう。今はすっかり大人びた髪型になっている。一瞬誰だか分からないほどに。
「ごめんなさい。沙子さん、あまりに変わってたから」
沙子は、「もぉ」と頰を膨らませて拗ねてみせる。その表情が、以前よりも素直で私は微笑ましいと感じた。
それから彼女が、「そこ、あたしも座っていいですか?」と聞くので、私は「どうぞ」と席を空ける。
と、そこで再び、
「失礼します」
と凛々しい声が。
「岡本さん?」
沙子と同じように店にやってきたのは、出版社に勤める岡本英介。こちらは部下に対する悩みを聞いてからというもの、時々交流があったためすぐに分かった。
「どうして岡本さんまで?」
タイミングを図ったかのように現れた岡本に対し、私は首をひねる。一体どうしたんだろう。なぜこうも、私が相談に乗った人たちが同時にやって来るんだろう。
しかし、そんな疑問に岡本や沙子が答える間もなく、今度は数人のお客さんと思われる人たちがスススと店に入ってきた。
「こんにちは、もえりさん!」
 
「お久しぶりです」
 
「また来ると思ってなかったわ」
 
「まあまあ、そう言わずに」
 
見れば、失恋直後に落ち込んでいたところに声をかけ、今では大切な友達である仲野香穂や、その友人で将来の身の振り方で悩んでいた増田大輝、お子さんの死と向き合えなくて喧嘩していた早苗さん夫婦がなぜか勢揃いしていて。
皆、思い思いにこたつ席に上がり、私を取り囲むようにして座った。
 
「えっ、え?」
 
状況を呑み込めない私はとっさに正座になる。
なんということだ。これは絶対に偶然なんかじゃない。
そうだ、きっとこれはナツさんの———
「お、揃ってる!」
仕業だ、という言葉を心の中で唱えた時、当のナツさんが、二階から降りてきた。
一階ではスタッフのユキさんが接客対応をしてくれている。これは一体どういうことなんだろう……。
「皆さん、集まってくださってありがとうございます」
ナツさんは、こたつ席に座っているお客さんたち———ことさら私と関わりの深かった人たちにそう言った。
「皆さんに集まっていただいた理由はお伝えした通り、ただ一つです」
ここで私以外の皆がそれぞれ、うんと頷くのを見た。
状況を理解していないのは私だけで、ここにいる皆は、ナツさんから全て聞いているらしかった。
「もえりさんに、書いて欲しいんですよね」
よく通る声でそう答えたのは、香穂だった。ちょうど私の正面の席に座っている。私を見て微笑んでいる。香穂も、ナツさんから呼ばれて来たのだ。いつもは私と二人で連絡を取り合っているけれど、今回ばかりは違った。
「書いて欲しいって……」
「そのまんまです! わたし、もえりさんの小説が読みたいです。もえりさんに話を聞いてもらって、失恋をする前の元の自分に——いや、元の自分よりもっと明るい自分になれたから」
「香穂ちゃん……」
彼女の澄んだ瞳が、私を見つめて離さない。
その目に、まるで催眠術でもかけられたかのように、私は動けない。
「僕も、もえりさんが届けてくれた『永遠の出口』を読んで、将来のことを重く考えずに済みました。もっと自由に、未来を考えられるようになったんです」
今度は、香穂の隣に座っていた増田大輝が笑って言った。彼の背中からは、羽が生えている。見えないけれど、彼の声色から、大きな翼を広げて飛び立つ姿がありありと浮かんだ。
「あたしももちろん、店員さんに感謝してる! 『かがみの孤城』、すんごく共感だらけだった! あたしは今のあたしが一番好き」
「もちろん私たちも、『星やどりの声』をもう一度読んだから、娘のことを忘れずに前を向いて生きようって思っています」
宮脇沙子も、早苗さん夫婦も、私が渡した小説を、届けたかった物語をきちんと受け取ってくれた。
「もちろん僕も、もえりさんのおかげで変われたでしょう?」
ニッと笑って私に笑いかけたのは、岡本さん。
私は、自分を囲むお客さんの——ここで働きながら関わることができた人たちを、ごく普通の悩みを抱えた皆さんの顔を、ぐるりと見回した。
ああ、なんて、清々しい表情をしているのだろう。
どうしてそんなに真っ直ぐな目を、私に向けてくれるんだろう。
胸に込み上げる熱い塊の正体を、私は知りたい。
「書いてください、もえりさん。もえりさんの物語を、ここにいる全員が楽しみにしているんです」
もえりさんに出会えた人たちが、待ってるんです。
物語に救われた人たちが、あなたの新しい物語に、耳を傾けてみたいと思ってるんです。
香穂の声が、ここにいる皆の心の声となって、私を突き動かそうとしている。
書きたい。
私は物語を書きたい。
ここにいる皆さんに、私の物語を読んで欲しい。
自分の書く物語で、誰かの心を動かしてみたい。
派手なお話じゃなくていい。心にそっと寄り添って、辛いことがあったとき、いつまでもお守りみたいに包んでくれる物語を届けたい。
「私は書きたい…でも、上手く書けるか、分からなくてっ……」
こんなに書きたいと思っているのに、手が震えて動かなくなった時の恐怖を思い出す。
気持ちがあるのにできないなら、もうそれは神様が書いたらダメだと言っているんじゃないかと思うと悲しくて。
私は書くべき人間じゃないと告げられたんだと思って。
だから、諦めようと思ったのに、それすらもできなくて。
「書きたいです……。諦めたくないです。私は——」
 
「書けるよ」
 
天から降ってきたかのようなその声に、私はいつの間にか俯いていた顔をはっと上げた。
見上げた視線の先には、ナツさんがいる。
ナツさんが、いつも以上に真剣な眼差しで、私にくれた。
全身全霊の「頑張れ」を。
 
「もえちゃんは書けるよ」
 
ありきたりな言葉なのに、私はもう、先ほどから目尻に溜まっていた涙を止めることができなかった。
 
「もえちゃんに、この本を渡します」
 
この間と同じようにみっともない姿を晒している私に、ナツさんは「はい」と一冊の小説を差し出す。
それは、小説だった。
文庫本で、『小説の神様』というタイトルだ。
相沢沙呼さんという著者名を見て、沙子さんの方をちらりと見やる。彼女は「えへへ」と少女らしく笑っている。
「ここにいる全員で選んだ本なの。今のもえちゃんに、合ってるんじゃないかって」
私は思わず手元の小説『小説の神様』をじっと見つめた。
この本を、私は読んだことがない。
でも、読まなければならない。
決して無理矢理にではなく、本当に読まなければならないという使命感が芽生えていた。
「私……読みます。『小説の神様』を、読みます。皆さんがくれた言葉を、ちゃんと実現できるように」
この本を読んで、私は変われるのだろうか。
そんなことは露も分からない。
けれど、ここにいる全員が、刺さるように真っ直ぐな視線を向けてくれている。
読んでみよう。何が変わるか変わらないかは神様だけが知っているのだ。
「感想、聞かせてね」
ナツさんがにっこりと笑い、皆もそれにつられるようにして笑う。
京都天狼院にいる私は、もう一人じゃなかった。
 
***
 
「ナツさん、小説のタイトルが決まりました」
2ヶ月後、3月15日。
大学を卒業する私にとって、その日は最後のシフトの日だった。
それと同時に、書き上げた小説のデータを、女将のナツさんに送る日でもあった。
店内は相変わらずゆったりとした居心地の良い空気に包まれている。
もうすぐここを去るなんて、名残惜しくてとても淋しい。
「お、決まった? どんなタイトル?」
ナツさんは興味津々、という様子で私に顔を寄せる。
ついにこの時が来たのだ。
私が書いた小説を、たくさんの人に読んでもらえる日が。
「はい! 京都天狼院に、もっとたくさんのお客さんが来たらいいなって。それで———」
 
ナツさんから『小説の神様』を受け取った日、これまで色んな悩みを相談してくれたお客さんたちから背中を押してもらった日の夜、私は眠る前のベッドの上で、そっと物語のページをめくってみた。
 
作家デビューしたばかりの「僕」は、デビュー作を酷評され、売り上げも伸びず、書く意味を失っていた。そんな彼が、同じ高校にいる人気作家の小余綾詩凪と合作をつくることになる。
容姿端麗で秀才の小余綾詩凪は、側から見れば、欲しいものをなんでも持っている女の子だ。
“書けない”という現実に鬱々とした毎日を送る「僕」は、小余綾詩凪の高飛車な態度に幾度もイライラする。「成功している人には自分の気持ちなんか分からない」と思う。
しかし、そんな小余綾詩凪には、誰にも言えない秘密があった。
彼女もまた、書くことで傷つき、苦しめられ、それでも書かなければならない現実と闘っていたのだ……。
 
『小説の神様』を読んでいるあいだ、とても不思議な気持ちにさせられた。
ベッドの上で、私は何度、「ああ、分かる」と共感したことだろう。
最初は主人公「僕」の気持ちが痛いほどよく分かって、「僕」と同じように私も胸が痛くなるのを感じた。思うように物語が書けない葛藤に、自分自身を重ねて。
しかし、物語が後半に近づくにつれ、次第に大きく膨らんでゆくヒロイン小余綾詩凪への共感が、心に渦を巻き起こした。
書くことは必ずしも楽しいばかりではない。
むしろ苦しいことの方が多くて、物語を書いたせいで、苦しまなければならないことがいっぱいあって。
でも、それでも書く。
書くことで、人生を選んでいる。
『小説の神様』は、書くことの裏側にある苦しみと痛み、その中でもがき、必死に這い上がろうとする主人公たちの、美しい青春ストーリーだった。
 
 
物語に没頭していた私は、最後のページをめくり終えたとき、何かに突き動かされるようにして机に向かっていた。
『小説の神様』の主人公たちは、書くことを諦めなかった。苦しいけれど、決して逃げたりしなかった。
机の上でパソコンの電源を入れ、Wordを起動する。
白紙の用紙を開き、キーボードの上に手を添えた。
「大丈夫……」
一文字、構想も何もないままに、キーボードに触れて文字を打つ。
 
白紙の用紙に、「き」という文字が浮かぶ。
私はそっと、自分の胸に手を当てて、深く息を吸い、吐いた。
 
大丈夫、苦しくはない。
 
カチ、カチ、カチ。
 
時計の音なのか、自分が文字を打つ音なのか、そんなことはもうどっちでも良かった。
 
気がつくと、ゆっくりだけど、確実に私は文字を綴っていた。
どんな物語を書こうとか、誰に届けたいとか、そんなことも考えずに、ただ書いてゆく。
 
苦しくない。
 
それだけで嬉しかった。
 
その日は途中で眠ってしまい、目が覚めると身体中が痛くてたまらなかったけれど。
私は翌日も、その翌日も、必死に書き続けた。
書きながら構成を練って、とにかく話を前に進める。
 
——もえちゃんの小説を、おばあちゃんの本屋さんに、並べるられるのねぇ。
 
祖母が私の頭を撫で、嬉しそうに微笑む姿は、私の妄想だっただろうか。
何度も脳裏に浮かんでは、展開に行き詰まった私を助けてくれた。
祖母の声が聞こえると、たとえそれが幻想だろうが私は落ち着いて息をすることができたのだ。
 
おばあちゃん。
大好きなおばあちゃん。
私はもう一度、物語を書きます。
ずっと書きたかった物語を、焦らず、ゆっくりと綴ります。
だから、完成したら読んでくれるかな。
完成したら、私はもう、書けないなんて言わずにいられるかな。
誰かに「面白かった」って、笑って言ってもらえるかな。
 
岡本さん、香穂ちゃん、増田くん、沙子さん、早苗さん。
お客さんとして出会ったみんなの悩みを聞いて、物語を紹介したあとの「ありがとう」が嬉しかった。
物語で誰かの心を癒したいとずっと思っていたから。
でも本当は、癒されていたのは私だった。
お客さんのみんなにいつも背中を押してもらっていたのは、他でもない自分自身だった。
変わることができると教えてくれたのは、京都天狼院で出会った人たちだった。
 
ナツさんも、ユキさんも、京都天狼院書店で働かせてくれた三浦社長にも、「ありがとう」を伝えられる物語を書きたい。
お客さんにも、京都天狼院を知ってもらえるような話を書きたい。
誰もがぶちあたるような壁にぶつかった時、将来のことで悩んだ時、傷ついた時、泣きたい時、心にそっと寄り添ってくれる物語を。
 
私は届けたい。
 
届け。
ページを開いてくれたみんなに、届け———。
 
2ヶ月かけて、物語は完成した。
 
「物語のタイトルは、『京都天狼院物語』です」
その、こてこてのタイトルを聞いて、ナツさんは笑うだろうかと少し不安だった。
私があえてこのタイトルにしたのには理由がある。
一つには、京都天狼院書店を知らない人たちに、知って欲しかったから。京都天狼院に来れば、新しい本に出会えるだけじゃなくて、本が大好きな他のお客さんたち、店員にも出会える。
そして、何より優しい光に包まれた温かい空間が、どんな悩みさえも吹き消して安らぎを与えてくれるから。
そんな素敵な京都天狼院書店を、もっと多くの人に味わって欲しかった。
 
「ふふっ、いいタイトルだね」
 
数年続いたトラウマを乗り越えてようやく書き上げた小説の、そのありきたりな題名を聞いて、ナツさんは嬉しそうに目を細めた。
 
「ナツさんは……びっくりしないんですか?」
 
ナツさんが笑ってくれても、私は不安だった。いや、不安というより、戸惑っていた。
だって私は、ずっと書けないと思ってきたのに。
祖母との悲しい別れを経験したせいで、もう二度と書くことができないと思い込んでいたのに。
だけど、ナツさんが教えてくれた小説が、こんなにあっさりと、自分の心のつっかえを砕いてくれるなんて。
 
「うん。本当言うと、私も分からなかったよ」
 
まばらにやってくる外国人のお客さんが、外人さん向けの本を楽しそうに見ている。私はそんなお客さんの様子を見ながら、それでもナツさんの答えに必死に耳を傾けた。
 
「でも、もえちゃんになんて言葉をかけようか迷っていたときに、杉崎さんが話してくれたんだ」
 
——私は、彼女の作品に救われたんです。息子の死から立ち直れなかった私に、一つの勇気をくれたんです。
 
「もえちゃんが書いた小説が、彼に勇気を与えたって。だから書いてほしいんだって。その言葉に動かされて、自分にできることは何か考えたの」
 
そうして気づいた。
もえちゃんがいつも、お客さんにしていることをしてあげようって。
一冊の小説で、あなたの心を癒すことができるはずだって。
『小説の神様』は、お客さんからおすすめしてもらったの。
小説が大好きだっていうお客さん。
その人は、誰かって? それは秘密。だけど、誰だっていいじゃない。
ここに来るお客さんはみんな、本を愛している。物語を愛している人が、いっぱいいる。
 
ナツさんが語ってくれたことは、私にとってちょっぴり衝撃だった。
杉崎が、そんな事情を抱えていたこと。私の物語で、彼を励ますことができたということ。
それを今、初めて知った。
だからこそ彼が、あんなにも私に小説を書いてほしいと言ってくれたんだと思うと、胸がいっぱいになるのを感じた。
今度杉崎に会ったらお礼を伝えよう。そして、私の小説を読んでくださいとお願いする。
その時は、笑って言おう。
私の書いた物語、お口に合うか分かりませんが、いかがですか——と。
 
「いらっしゃいませ」
 
見慣れた木製の扉がまたゆっくりと音を立てて開く。
まだちょっぴり肌寒いけど、少しだけ暖かくなった春の風が、京都天狼院書店に舞い込んできた。
 
「書店だけでも、カフェだけでも、ご利用になれます」
 
私はすうっと息を吸い込んで、京都の別れの季節を肌で感じる。
お別れは淋しいけれど、また一つ先の未来で素敵な出会いがあるから、明るくなれる。
 
「よろしければ、お話だけでもしていきませんか?」
 
 
 
トラウマを消し去りたいあなたへ。
相沢沙呼著『小説の神様』はいかがでしょう?
 
 
【第六話 後編/京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜 終】


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