客席に座ったあなたは極上の「無音」を奏でる演奏家になる
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記事:でこりよ(ライティング・ゼミ日曜コース)
「……」
しーん、とも、ぴーん、とも違う。無音、も正確ではない。ピタリと当てはまる言葉が見つからない。しかし、私はこの形容しがたい特別な「無音」に心を奪われている。
私は幼い頃から音楽、特にクラシック音楽が好きだった。4歳くらいだろうか、一番古い記憶は、生まれ育った福岡で聴いた九州交響楽団の親子向け演奏会だ。演奏会の後は、妙にテンションが上がって、ピョンピョン飛び跳ねていたことをかすかに覚えている。おそらく、この時に生演奏を鑑賞する喜びを覚えたのだろう。それからピアノを習い、本格的に音楽の道を志すようになったが、演奏する楽しさが鑑賞する喜びを上回ることはなかった。小学校高学年になってからは、コンサートや楽譜に関する情報を求め、バスで50分かけて中心地の天神まで一人で出歩くようになり、中学生の時は、東京に単身赴任をしている父親に会いに行く理由を付け、憧れの東京芸術劇場に一人で出向いた。また、高校入学と同時に福岡初となる本格的な音楽ホールを備えた複合施設「アクロス福岡」が誕生すると、コンサートが無い日でも毎日のように入り浸っていた。
「クラシックのコンサートを聴く」という夜遊びには高尚に聴こえる理由が功を奏して、私は機会があれば試験期間中だろうがなんだろうが、とにかく貪るようにコンサートに出向いた。なぜこんなに取り憑かれてしまったのか。単に色々な音楽、演奏家に触れる楽しみはあったが、もう一つ大きな理由があった。
演奏家がステージに登場すると、客席から温かい拍手が沸き起こる。主役が深々とお辞儀をすると、くるりと体勢を返し演奏の準備に入る。演奏家が楽器と向かい合う時、もしくは指揮者がオーケストラと対面した時、今までの空気がガラリと変わる。そして客席も導かれるように演奏家と同じ集中力を共有し始める。そして、あの瞬間がくる。
「……」
コンサートホールが作り出す空気の中でしか味わうことのできない演奏前に一瞬訪れる特別な「無音」に取り憑かれたのだ。
約10年後、気がつくと、私はコンサートホールの職員になっていた。
今や音楽はいつでもどこでも聴ける時代になった。片手に収まるカッコイイ鉄の塊には何千曲、いや何万曲と収納されている。スピーカーに話しかけると聴きたい曲が流れてくる。YouTubeさえあれば、どんなレアな曲にでもアクセスできる。私はこのような文明の力を否定するつもりもないし、現に私も日常的に使用している。しかし、音楽がこのように身近にあふれ、もはやこのようなコンテンツにすべて吸収されてしまうのか、という懸念も頭をよぎる。いや、しかしあの特別な「無音」はコンサートでないと味わえない。
それは、今年になって始めた座禅を体験して確信へと変わった。
場所は東京の広尾。早朝の香林院には出勤前のサラリーマンや外国人など様々な人々が集まる。20畳ほどの畳の間に敷き詰められた座布団に座り、始まりの時を静かに待っている。
「チーン」
和尚の鈴の合図で朝7時からの座禅が始まった。
「……」
最初は途中で寝てしまわないか、足が痺れてソワソワし出さないか心配だった。しかし、いざ始めてみると毎回毎回新しい発見の連続だった。途中で眠気が襲って猫背になる日もあれば、ランチに何を食べようかと、食べ物のことばっかり気になって終わる日あった。それでも、慣れてくると、そんな自分を受け流せるようになって、座禅をすることが楽しみになった。
しかしある日、今までとは違う感覚を感じた。30人程いるはずなのに、人の気配が感じられない。皆、すーっと自分の気配を消しているかのようだ。座禅は半眼といって、完全に目を閉じない。見えているはずなのに、その感覚がない。しかし、だんだんと皮膚が敏感になっていくのを感じる。人の気配ではない。感じているのは人の集中力、静かな生命力だ。ここに集う人は、少なくとも私にとって一期一会であり、今までほとんど言葉を交したことはない。しかし、この座禅の間だけは、心を一つに合わせ、皆で協力してこの特別な無音を生み出しているかのように感じられた。
「コンサートに似ている……」
コンサート鑑賞中、私もウツラウツラと船をこぐこともあるし、食べ物のことを考えることもある。しかし、この場にいる全ての人と力を合わせて生み出した特別な「無音」の力を感じられた時は、とてつもない感動が押し寄せる。聴こえる、聴こえない、わかる、わからない、正しい、正しくないを遥かに通り越して、肌がその感動をキャッチする。私の中でコンサートと座禅がすっと重なり合った。
クラシック音楽のコンサートは物音を立ててはいけない、マナーが厳しくて敷居が高いと感じている方もいるかもしれない。しかし、あなたもぜひ一度、騙されたと思って特別な「無音」を作る演奏家の一員となってコンサートを体験して欲しい。そしてその無音の後に訪れる演奏家のとてつもない集中力を共有する体験を味わって欲しい。そして、その集中力を支えているのは、客席に座っているあなた自身であることに、喜びを感じて欲しい。
「チーン」
終わりを告げる鈴の音が聴こえた。「無音」の後に鳴り響いたその音色は、温かく、心地よく、私の身体を優しく包み込んだ。
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