メディアグランプリ

いちばん大切な約束を守る


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:しんがき佐世(さよ)(ライティング・ゼミ日曜コース)

その日は、朝から疲れていた。
ひさしぶりに夜中から降り出した雨が降り続いていた。
濡れたバスの窓から、ビルの向こうに重たい雲が見える。
道路も信号機も夕方のように暗い。

とつぜん、目覚ましのアラーム音が聞こえる。
私の隣に座っていた女性が、あわててスマホを操作して止めた。
しばらくして、またアラーム音が鳴り出し、また、止めた。
ただそれだけで、神経がささくれる自分に気づいて、かなしくなった。
疲れていた。
朝がはじまったばかりなのに、仕事帰りみたいだ。

そんな日は、感情にシンクロするような出来事が、納豆のように2つ3つ、つらなってくる。

「私、○○の予定に行けなくなったので、代わりに行ってくれません?」

手にしたスマホに、知人からの急な依頼がメッセージで飛び込んできた。

私も、自分の仕事で手一杯だ。

「打ち合わせなので、行けません」

いつもより短く返信してスマホをポケットにしまい、首を垂れて座席に深くしずんだ。

しばらくして、またメッセージが届いた。
さっきとは別の人からだった。

「埋め合わせの原稿を急きょ、1ページ書けますか? 諸事情でページに穴が空きそうなんです」

反射的に、返信していた手が、急にとまった。
返信を書き終えないまま、ホームボタンを押した。
窓を見やるとうす暗いバスの窓に、自分の顔がうつっている。
書きかけでほっておかれた文章みたいに、宙ぶらりんの顔だった。

疲れてイライラした自分がふくらむ。
バスの座席がきゅうくつに感じる。

目を閉じて、頭のなかに混じりあう色という色を追い出そうとしていた。
頭を消灯して真っ暗にしてしまいたかった。

なにか大切な約束を、破りつづけているような気分だった。

いつもの喫茶店の、いつもの席につく。
心がしずんでいるまま、目が合ったカウンターの内側にいる奥さんに、自動的に笑ってコーヒーを注文した。

原稿がたてこんでいて、返さないといけない返事がたまっていて、関わっているすべての人を待たせているような気がした。
今から打ち合わせで会う人にも、待たせている原稿について謝る予定だった。

かばんの中からパソコンを取り出す。
仕事の資料を取り出す。
すこし迷ってから、ずっと読みたかった本も取り出して、テーブルに置く。

“ そんなことをしている場合じゃないだろう ”

頭のなかから、声がした。
本をかばんに戻そうか迷い、苦しまぎれに表紙をひっくり返してテーブルの隅に置いた。

“ 仕事が終わってないのに、本読んでる場合じゃないだろう“

頭のなかで、また声がしたのとほぼ同時に、仕事先の人が現れた。
本を結局、かばんにしまう。
パソコンを開いて、打ち合わせが始まった。

「心がしたがってること、やってあげてる?」

急にラジオの声が聴こえて、顔をあげた。
喫茶店でいつも流れるBGMは、地元のラジオ番組で、そのパーソナリティの声だった。

疲れているのは、体じゃなかった。
心のほうだった。
ある約束を破っていて、それで弱っていた。

大切な約束を交わした相手は、自分の心だった。

観たい映画に、行けていなかった。
読みたい本を、読めていなかった。

それらが、どんな約束よりも大切だったことに、私は気づいていなかった。
約束を破った自分への負い目が、知らず知らず私を弱らせていった。

人生でいちばん大切な約束を交わすのは、私の心。
人生でいちばん大切な打ち合わせ相手は、自分だった。

体は、しょっちゅう、心とはウラハラな行動を取る。
急にはいった仕事や、誰かからの頼まれごとを優先する。

「仕事が遅いと、思われたくないでしょう」
「せっかく、仕事を依頼されたんだから」
と、正論を言っては、心を黙らせる。
正論は、優しくない。
映画に行きたかった私の心は、正論で刺されるたびに、弱っていく。

他の人との約束は守るのに、心と交わした約束はないがしろにする。
映画館に行こうとしていたのに。
本を読もうとしていたのに。
自分との約束を破られるたびに、軽んじられていることを、心は敏感に感じとる。

そうやって体が、さんざんあとまわしにされた心をつぶしてしまう。
そこで初めて、人生でいちばん大切な約束を反故にしつづけてきたことに、気づくのだ。

「そんなことしている場合じゃない」からこそ、映画館へ行こう。
「そんなことしている場合じゃない」からこそ、仕事の役にたたない、好きな本を開こう。

次の日も雨だった。
いつもより早く喫茶店に着き、カウンターにいる奥さんにコーヒーを注文する。

「あ、今日は一人?」

ピッチャーを手にした奥さんが言った。

「はい」

「一人の時間ね、いいわね」

水のはいったグラスをテーブルに置いてから、奥さんがカウンターへ戻っていった。
冷たい水を飲んだ私が、思ったより深く息をついている。
私がずっと読みたがっていた本を開く。

途中で、思いたって手帳をひらき、来週の日付に「19:00 私と映画」と書いた。
ずっと観たがっていたあの映画も、観せてあげよう。

私の心がどんなにリクエストしても、私の体が映画館へ向かわなければ、心の願いは叶えてもらえない。
他人との打ち合わせの約束と同じように、「私との約束」も手帳に書いておこう。

仕事の約束も、家族との約束も、大切だ。
でも、私の心と交わした約束を守れるのは、私しかいない。

テーブルの上に、コト、と音がした。
手帳から顔をあげると、自動的ではない笑顔で、奥さんが笑っていた。

「これマスターの親戚の、手作り。よかったらどうぞ」

目の前に、発光しているような、みかんゼリーが置かれていた。

お礼を言って、お日さまみたいな色のみかんゼリーを、スプーンですくって食べた。
内側から、お日さまに暖められているような気がした。
心を大切にすると、心が喜ぶことが起きる。

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2019-02-23 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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