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若者離れの今、「クルマ一人カラオケ」のススメ


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:ジンノマサヨ(ライティングゼミ・日曜コース)
 
「クルマ、別になくてもいいよね」と、東京で暮らす友人が言った。
新聞によるアンケートでも、若者のいわゆる「クルマ離れ」が進んでいるという記事を目にしたことがある。
 
確かに、公共交通機関が発達している東京なら、クルマに頼らずともJRや私鉄に地下鉄、モノレールまである。
加えてバスやタクシーなど、行き先や用途に合わせてよりどりみどりだ。
 
だが、わたしが暮らすのは地方都市。しかも北海道である。
それなりに交通網の発達した市内だけで用が済めばいいが、自家用車がなければ行き着けないような場所も、それなりに存在している。
 
何しろ人口百万都市と呼ばれる市内の民家近くにさえ、熊が出没する土地柄なのだ。
郊外を走れば、国道沿いに鹿が立っていることなど、ニュースにもならない。
 
わたしの自宅から職場まで、公共交通機関で通勤するのは面倒で、時間の効率も悪い。
バスまたはJRから足早に地下鉄に乗り換え、さらにバスに揺られなければならない。
なかなか目的地にたどり着かない様子は、平安時代の「方違(かたたが)え」のようだ。
 
直線的に向かえばすぐに着くのに、方角の吉凶を占って、良いとされる方向にしか進むことができない。当時のクルマは牛に引かせていたから、当然その歩みは遅い。場合によっては、途中で一泊することもあったという。
それが牛車ならぬ現代のクルマだと、一気に片道45分である。
 
そういうわけで、クルマ通勤をするようになって実に10年以上が過ぎた。
 
実のところ、わたしがクルマ通勤を続けるのは、時間の効率がいいという理由だけではない。
クルマの中は、言わば密室。自分の部屋のようなものだ。音楽を聴くのに、誰にはばかることもない。
もちろん音楽を聴くだけなら、公共交通機関でもイヤホンを耳に入れればそれで済む話だ。
それも悪くはないが、一人、車内で音楽を聴きながらできることがあるではないか。
 
「クルマ一人カラオケ」である。
 
この提案に、どのくらいの人が賛同してくれるのか、今は分からない。
だが、わたしが10年間もクルマに乗っている間に、クルマの性能や車内の機能は格段に進歩したのだ。
 
最初、クルマで音楽を聴くには、カセットテープが必要だった。
やがてCDも聴けるようになり、何枚もセットできるチェンジャーも装備された。
一時期は、MDと呼ばれる媒体も広く知られ、一世を風靡した。
 
パソコンで音楽CDから楽曲を取り込めるようになると、それをiPodで持ち歩けるようになった。
それをクルマに繋いで、FMの周波数で聴けるトランスミッターも販売された。
 
インターネットの普及と拡大、そしてスマートフォンの爆発的とも言える広がりによって、音楽の楽しみ方はさらに大きな変化を遂げた。
 
もはや、CDを買うことだけが音楽を楽しむ方法ではない。
楽曲ごとのダウンロード販売も当たり前となり、ライブのストリーミング放送はもちろん、月額聞き放題などのサービスも生まれている。
 
そして今や、iPodならぬiphoneやスマートフォンの中にある楽曲を、Bluetoothで簡単にクルマに転送できるようになった。
 
操作性も手軽で、音質も問題ない。
あとは、曲に合わせて歌うだけだ。何か問題でも?
 
クルマが走っている時はいい。だが道路には信号がある。信号は青から赤になる。
そしてクルマには、前にも横にも、ウィンドウがある。中から外の景色が見える。
 
停車してふと横をチラリとみたら、隣のクルマの人と目が合ってしまう。
珍しいものを見たかのように、わたしの口元に釘付けである。
わたしの口はパクパク動いている。クルマ一人カラオケだもの、当たり前だ。
 
歌っているのは自分なのだから、当然自己責任の範疇だと分かっている。
中から外の景色が見えるということは、外からも中の様子が見えるということだ。
 
もちろんクルマの窓ガラスは、外からは多少、中が見えにくくなっている。
それでも、歌っているところを見られるのは、やっぱり恥ずかしい。
 
これが一人カラオケ店に出かけて、壁面が全てガラス張りの部屋だったらどうだろう。
歌うための場所であることが前提なら、また気分は違うだろうか。
 
歌うことが前提ではない場所、クルマの中で歌うことの、何とも言えない恥ずかしさ。
それを克服するのは、周囲を気にしないのが一番だ。クルマを「自分の部屋」化するのも一つの方法である。
 
スマートフォンのケースに装飾を施して「デコ電」を作るように、クルマの車内をカスタマイズして自分にとっての最適空間にする。
そのことが自分の部屋であるような錯覚を生み、「クルマ一人カラオケ」の恥ずかしさを多少なりとも和らげることができるだろう。
 
ただ、クルマでの「一人カラオケ」が誰にとっても珍しいものでなくなれば、事はもっと簡単なのではないか。
 
走りながらすれ違うクルマ同士、お互い口をパクパクさせている。
赤信号で停車して、右のクルマを見ても左のクルマを見ても、口をパクパクさせている。
バックミラーで後ろのクルマを見ても、口をパクパクさせている。
想像しただけで楽しくなるような光景だ。
 
時には、すれ違った相手の歌っている表情が魅力的で、若者の恋が生まれるかもしれない。
 
「クルマ一人カラオケ」から始まる恋の物語。
 
そんな荒唐無稽とも思えるCMが、もしかすると若者の「クルマ離れ」を食い止めるきっかけになるかもしれない。
今は限られた個人の楽しみである「クルマ一人カラオケ」が、珍しいものから珍しくないものへと変貌し、いつかそれが当たり前の「文化」となる。
そんな未来も、全くないとは言い切れないのではないか。
 
そんなことを考えながら、今日もわたしはクルマを走らせる。
走りながら歌いながら、ふと国道の脇に目を向ける。そこにたたずむ鹿が、歌うわたしを見つめている。
赤信号で停まりながら歌いながら、ふとバックミラーで後方を見る。遠くから熊が近づいてくるのが見える。
ギャーッと叫びながら、恐る恐る熊の様子をうかがうと、口を大きく開けている。
歌っているのはわたしではなく、熊の方なのだ。
 
それは妄想だが、どこかの地方都市の誰かにとっては、いつか現実となる光景かもしれない。
 
東京で暮らす友人が言うように、クルマは別になくてもいい、のだろう。
しかし、「クルマ一人カラオケ」用としてのクルマは、そしてそれにまつわる妄想の数々は、きっと世の中を楽しいものにしてくれる。


2019-03-08 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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