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週刊READING LIFE vol.125

魔法の国で出会ったマジシャンが、プロフェッショナルすぎた件《週刊READING LIFE vol.125「本当にあった仰天エピソード」》


2021/04/26/公開
記事:今村真緒(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
「ない! どこにもない!」
真っ青になってリュックサックの中を何度も探ってみるけれど、お目当てのものには、かすりもしない。
行き交う人々は、そんな私の慌てぶりには無関心だ。
こんなだだっ広い駅で、狂ったように何度もリュックサックをひっくり返している日本人など、そう珍しくはないのだろうか?
 
ここは大都会、イギリスはロンドンのヴィクトリア駅だった。
大勢の人々がひしめき合い、速足で過ぎていく。きょろきょろと辺りを見回してみたものの、何がどうなって、こんなことになっているのかさっぱり分からなかった。
 
今、一つだけわかっていること。
それは、私のリュックサックの口が全開になっていて、一番奥底に入れていた財布だけがなくなっていることだった。カメラは無事だし、その他のものに異状はない。
 
さっき立ち寄った本屋で支払いをした時まで、財布の生存確認は取れている。その最寄りの駅からこのヴィクトリア駅まで、リュックサックを開いた覚えはない。
とすれば、財布が消えたのは、その間のこととしか思えない。
ヴィクトリア駅の雑踏の中で、私の頭はフル回転だ。
思い出せ! 何か手がかりになることはないのか?
頭を抱えながら、その場を忙しなくクルクル回りながら考える。
 
推理はまだ途中だったが、とにかく警察へ行こうと思い立った。
鉄道警察の中に入っていくと、口ひげを蓄えた警察官がいた。こちらに向かって、にこやかに微笑む彼は、いかにもジェントルマンだった。
「財布がなくなってしまったんです」
とにかく、切実な問題を訴えようと私は意気込んだ。
「いつ失くしたの? どこから来たの? 中学生?」
髭を生やしたジェントルマンは、まるで子どもをあやすように尋ねた。
 
残念ながら、中学生ではない。
童顔だから仕方ないが、当時大学4年生だった私は、中学生は言い過ぎだと思いムッとした。
日本人が実年齢より幼く見えるというのは、本当らしい。
心もとない気持ちでいっぱいになりながら、私は警察官の問いに答えていた。
 
これは、大学4年生の夏休みの出来事だった。
夏休み前に就職の内定をもらい、かねてからの念願だったイギリスへのホームステイへと私は飛び立った。
何しろ学生のアルバイトで貯めたギリギリのお金と、祖父からの援助で実現できたホームステイだ。
直行便ではなく、福岡からクアラルンプール、クアラルンプールからロンドンへと経由する飛行機で、到着するまでにかなりの時間がかかった。
だからこそ、長い飛行時間の末、ヒースロー空港へと着陸する間際のオレンジの光は印象的で、今でも忘れることができない。
夜明け前のロンドン上空から見た景色は、オレンジの街灯の渦で埋め尽くされていた。
よく映画などで観ていたあの街灯に、ようやくロンドンへと到着したという実感が湧き、私の期待はいやがうえにも高まった。
ホームステイ期間は、約1か月。不安よりも、これから出会うはずのものに胸が高鳴った。
 
素晴らしいホストファミリーに出会い、語学学校でのレッスンを意欲的に受けた。
語学学校は基本午前中のみだったので、午後からは、目いっぱい様々なことを体験する時間にした。
アンティーク好きにはたまらないコヴェントガーデンに、ウエストエンドで観る本場のミュージカルも素晴らしかった。私がミュージカルのチケットを手に入れて喜んで帰ってきたら、ホストマザーが値段を聞いて「ぼったくり」だと怒っていたっけ。本場で観られるだけで嬉しかったから、そう気にしなかったけれど。
ロンドンには、行きたい所がたくさんあった。博物館に美術館、スコーンの美味しいお店を巡ったこともあった。
スコットランドにも足を延ばし、エディンバラ城を見に行ったときには、現地の人と仲良くなった。
そう言えば、その人の住所を書いたカードを、あの財布に入れていたのに。
財布がなければ、もう連絡を取ることができやしない。大ショックだ。
 
気落ちした私は、髭のジェントルマンに尋ねられるまま、大学生であること、日本からホームステイ中であること、ホストファミリーの住所などを答えていた。
幸い、鉄道の1日周遊券だけはポケットに入れていたから、最寄り駅までは帰れそうだ。
 
一通り尋ね終わった警察官は、私の顔を覗き込んで申し訳なさそうな顔をした。
「せっかく来たのに悪いけれど、財布はもう見つからないと思うよ」
 
そうでしょうね。そんな気はしていた。
財布がなくなってから、しばらく時間が経つ。
こんなに大勢の人がひしめく駅で、私の財布が見つかるなんてことは有り得ないだろう。
落としたのなら、届けてくれるような奇特な人がいることを願うしかないけれど、ここは異国の地で、日本ではない。その可能性はゼロに等しかった。
 
ため息をつく私の横で、申し訳ついでに警察官は尋ねてくれた。
「何か、変わったことはなかった?」
ぼんやりと、記憶を掘り起こしてみる。
確かに、財布をリュックサックの一番奥底に入れたはずだ。ファスナーを閉めたことを確かめてから、背中に背負ったのは覚えている。
煙のように消えてしまった私の財布と、大きく開けられたリュックサックのファスナーの謎に、ある答えがひらめいた。
落としたのではないのなら、考えられることは、ただ一つ。
そう、スリ、だ。
 
ここで、再び疑問が浮かんだ。
よく、海外旅行でバッグの紐を切られて盗まれたとか、内ポケットの財布を、ぶつかる振りをしてすられたということは聞いたことがあると思う。
けれど、あんなに大きくファスナーを開けられたのなら、きっと気づくはずなのだ。
それに、全く気がつかないなんてことがあるのだろうか?
ファスナーを開けた音が聞こえたり、開くときの振動が伝わったりするはずだし、分からないように開くには、時間もかかる筈なのだ。なのに、誰かが触れた感じが全くしていなかったのだ。
一体どうやって、盗むことができたというのだろう?
 
私は再度、書店からヴィクトリア駅までの道筋を頭の中で辿ってみた。
記憶を0.5倍速くらいで再生していると、ふとある場面で一時停止ボタンが押された。
それは、ヴィクトリア駅に到着し、列車を降りて改札へ向かう構内で起きたことだった。
ある長身の若い男性が、私の行く手を遮ったのだ。
 
こちらに向かって、いきなり超早口の英語を浴びせかけてくる男性に、私はポカンとしていた。
知り合いでも何でもない、見知らぬ人だ。
しかも英語が早すぎて、何と言っているのか全く聞き取れない。
 
ひょっとして、私は何か因縁をつけられているではないのか?
日本人でどうせ何も分からないと思われて、いいように言いくるめられてしまうのか?
両手に持った紙袋の持ち手が、手汗でじんわりと湿ってきた。
ああ、やっぱり一人で地下鉄に乗るんじゃなかった。
ちょっと怖くなって後悔し始めた時、急に男性は機関銃のようなトークをピタッと止めた。
そして驚いたことに、その男性は何事もなかったかのように踵を返して去ってしまった。
 
「何だったんだろう、あれは?」
取り残された私は、突然の出来事にあっけにとられていた。
こんな体験初めてで、びっくりしてしまい、まだ鼓動が早かった。
改札を出たら、何か飲んで一息つこう。
一日中、本屋巡りをして買い漁った本のずっしりとした重みが、両腕に蘇ってきた。両手に持った紙袋を抱え直すと、私は駅の中にあるコーヒーショップへと向かった。
そこで注文をしようとしたときに、あの惨事に気づいたのだ。
 
ここまでのことを聞くと、髭のジェントルマンは、憐れみを込めた目つきで私を見た。
「プロの仕業だね。きっと2人組のスリだ。1人が君の注意を引いて、その隙にもう1人が財布を盗んだんだよ」
 
そんな。よりによって、私を選ぶことはないではないか。
学生の財布だ。正直、財布にそんなにお金は入っていなかった。狙うのなら、もっとお金持ちそうな人は他にいるじゃないか。
お金は少ししか入っていなかったけれど、頑張ってアルバイトをしたお金で買ったお気にいりの財布だったし、エディンバラ城で出会った人の住所が分からなくなってしまったことが惜しかった。
何より、こんなことはお話の中の出来事でしかないと高を括っていた自分が情けなかった。
まさか、自分がこんな目に遭うなんて思ってもみなかった。
 
冷静に考えれば、地下鉄で一人、両手に荷物を抱えてリュックサック背負って、ボーっとしている日本人女性(子どもと思われていたかもしれないが)なんて、格好の餌食だ。
両手は塞がっているし、リュックサックを狙われても、すぐに反撃できそうにないじゃないか。
まさに、カモがネギ背負って歩いていたのだ。
 
やっぱり、出発前に父が言ったことを、もっと真剣に捉えておかなければならなかった。
私の父は、海外旅行というものを一度も体験したことがない人だった。だから、私が長期でイギリスに滞在することになると、大変心配していた。
出発の前日、父は、あるものを私に渡した。
「これを身に付けて、お金の管理をしなさい。日本とは勝手が違うのだから用心しなさい」
父から渡されたものを見て、私は一瞬たじろいだ。
なぜなら、いかにも「実用第一! これで安心。腹巻型財布」という宣伝文句が浮かびそうな、おしゃれとは程遠い代物だったからだ。
ウエストポーチと思い込もうとしたが、服の上に身に付けるのが憚られた。これを、服にうまくコーディネートさせるセンスを、私は持ち合わせていなかった。
 
「ありがとう。気を付けるね」
困ったけれど、父の精一杯の愛情だ。受け取らないわけにはいかない。
当時は海外に行くときには、現金を外貨に両替して持っていくか、クレジットカードが台頭する前の、トラベラーズチェックという旅行小切手を持っていくのが主流の時代だ。
せっかくの父のプレゼントを一度も使わないのは悪いと思い、出発当日、シャツの下に腹巻型財布を仕込んだ。
 
腹巻型財布は、お金の出し入れが面倒だった。服の下に巻いているため、非常に使い勝手が悪かった。お金を出す度に、後ろを向いて素早く出さねばならなかった。
そのため、億劫になった私は、次第に腹巻型財布を疎んじるようになってしまった。
それと同時に、私の中の危機意識も薄くなっていった。
イギリスでの生活に慣れ、心配していたよりも随分安全じゃないかとさえ思うようになっていた。
 
あの時の父の言葉を、もっとちゃんと心に刻んでおけば、こんな目に遭うこともなかったのだろう。
後悔の嵐の中、今度は違う思いつきが頭をかすめてヒヤリとした。
なぜか、あの財布の中に銀行のカードが入っていたかもしれないという思いが、頭から離れなくなったのだ。
銀行のカードなんて、盗まれたら悪用されることのナンバーワンだ。
まずい。これは非常にまずい。
いや、待てよ。自宅の私の部屋に置いてきたかも知れない。
いやいや、やっぱり、財布の中に入っていた気がする。
曖昧な記憶を確かめるには、自宅に国際電話をかけるしかない。
父が出たらどうしようかとビクビクしながら、思い切って電話した。
幸い、自宅の部屋に銀行のカードをしまっていたことが分かり、ようやく胸をなでおろした。
 
財布がなくならなければ、こんな思いはせずに済んだ。
今から30年ほども前の話だが、財布を盗られるという経験が初めてだったということもあり、鮮明に覚えている。
財布を失った悔しさはあるが、それよりも強烈に印象に残っているのは、あの2人組(警察官による考察だが)の手口の鮮やかさだ。
 
イギリスは、魔法の国として名高い。ファンタジー文学の発祥の地でもあるし、かの有名なハリーポッターを生んだ国でもある。
イギリスのスリは、やはりマジックのスペックも高いのだろうか。
「種も仕掛けもありません」そう言って始まるマジックショーを見せられたようでもあった。
まるで狐につままれたように、たやすく魔法にかけられてしまった。
あの超早口の英語は、魔法の呪文だったのかも知れない。
もっと私が英語に長けていたならば、対抗する呪文を繰り出せていたのだろうか。
そんな埒もないことを考えてしまう。
 
現在はコロナウィルスの影響で、海外に行けるようになるのは、まだまだ先のようだ。
一日でも早く収束して、また様々な国の人々との交流が広がることを願う。
しかしながら、行き来が活発になればなる程、トラブルが増えるのも世の常だ。
オレオレ詐欺など、様々な詐欺がバージョンアップしていくのと同じで、スリの世界もアップデートし続けているはずだ。
あれから30年が経っている。きっとまたマジックは更に洗練され、新たな技術が生まれて、気づかぬうちに術中に嵌まってしまった人も多いことだろう。
 
異国へ行って違う文化や風習に触れることは、新たな世界への扉を開いてくれる。
未知との遭遇は心が躍るものだが、スリとの遭遇は避けたいものだ。
あの手この手で狙ってくる輩は腹立だしいが、何とか自衛の術を身に付けて、素晴らしい体験だけを得てきてほしい。身を以て知った人の、切なる願いである。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
今村真緒(READING LIFE編集部公認ライター)

福岡県出身。
自分の想いを表現できるようになりたいと思ったことがきっかけで、2020年5月から天狼院書店のライティング・ゼミ受講。更にライティング力向上を目指すため、2020年9月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部参加。
興味のあることは、人間観察、ドキュメンタリー番組やクイズ番組を観ること。
人の心に寄り添えるような文章を書けるようになることが目標。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

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2021-04-26 | Posted in 週刊READING LIFE vol.125

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