天狼院通信

誰かに先に失敗されたらと思うともう居ても立ってもいられない〜僕が「フルスロットル」という言葉を使う理由〜


ここに一枚の写真がある。

炎天下、長岡花火大会で本を売った時の写真である。

この日の顛末については、以前、天狼院の記事に詳しく書いた。

 

炎天下「長岡大花火」の会場で屋台で「本」を売ってみた。〜用意した本は300冊、観客50万人。はたして本は何冊売れて、いくらの利益があったのか?〜《天狼院通信》

 

この記事にも書いた通り、結果的に10冊しか売れなかった。
経営的にみれば、小さな天狼院にとって大きな赤字を計上したので、「失敗」と片付けることもできるだろうと思う。

早まった、浅はかな、勢いだけの短略的な行動だったととることだってできる。

どこぞの居酒屋で、人の文句ばかりいう輩にとっては、

「あいつ、バカだな、花火会場で本なんて売れるはずないだろう」

と格好の嗤いのネタにもなるだろう。

おそらく、そういう人たちには、きっと一生かかっても、今、僕がこの件に関して得ている、ある種の充足感を到底理解できないだろうと思う。

いや、分かってもらうと少々、困る笑。

たとえば、それについて「プライレスな経験をした」と書いたことに対して、負け惜しみだと捉えることもできるだろう。
また、結果が伴わなければ意味がないと考えるのも、実にまっとうである。そのとおりである。非の打ち所がない。

僕にとって、この前、長岡大花火で本を売ったことが、何よりの「成功」だったと言ってもほとんどの人がぽかんとしてしまうだろう。

今から、少し、やっかいなことを言うが、これが真実である。

僕よりも先に誰かに失敗されなかったから、「成功」なのである。

きっと、へ?だろうと思う。へりくつ?とお思いだろう。これをもうちょっとわかりやすく、言い換えるとこうである。

もし、誰かに先にやられて失敗されてしまったら、これ以上の失敗はない。

たとえば、花火大会において、僕ではない誰かが先に屋台を出して「失敗」していたとしたら、僕は身もだえするほどに悔やむだろうと思う。眠れない日々を過ごしただろうと思う。

ところが、もし、僕のやり方を見て真似をして、それを改良して、大きく売上を伸ばして「成功」したと聞いたところで、僕は何とも思わない。

きっと、その話を聞いたとしても、鼻くそをほじりながら、あっそう、と言うだけだろうと思う。僕をマネッコして改良して「成功」したことに対しては、まるで興味がない。

どこかに「うまい儲け話」がころがっていて、その人が大きく儲けて「成功」したと聞いたところで、あっそう、である。何ら興味がない。

けれども、どう考えてもうまく行きそうもないところに誰かが全力で挑んで、圧倒的な「失敗」をして見せたとすれば、僕は気が穏やかではいられないだろうと思う。ましてや、自分が関係する書店や出版の分野でそれをした人がしっかりと「失敗」して見せたとすれば、もう、夜も眠れないほどに悔しいだろうと思う。憔悴するやも知れない。

これは、はたして、『成功できる人の営業思考』(PHPビジネス新書)に登場する「成功回避の心理」だろうか?

似て非なるものなのである。

誰も、好き好んで失敗を目指すわけではない。
この前の花火大会においても、僕は事前に「300冊売り切るか、0冊か。そのいずれかだと思う」と周りにも言っていた。それはつまり、当たり前の話だが、大成功することも念頭にあったということだ。
ただ、僕がやる前の段階において、「それは絶対に無理だ」と100%の自信をもって言い切れた人は皆無だったはずだ。そう、誰にもわかるはずがない。

やってみないとわからないからだ。

あれは2002年のF1鈴鹿グランプリでのことだったと思う。日本が誇るF1パイロットの佐藤琢磨は、弱小のジョーダンのマシーンでレースに挑んだ。改修前の鈴鹿グランプリには、今のコースよりもはるかに難易度の高い、130Rというコーナーがあった。そのコーナーはアクセル全開で行けるか、行けないかのギリギリの難易度にある、勇気が試されるコーナーだった。下手をすれば、コースを外れて大クラッシュをする恐れもあったのだ。
ほとんどのF1パイロットが、わずかにアクセルを緩める中、そのコーナーを「フルスロットル(アクセル全開)」で駆け抜けたドライバーが、たったの二人だけいた。
それが、弱小チームにいた佐藤琢磨と、そして皇帝ミハエル・シューマッハだった。
弱小チームの弱小マシーンだったにもかかわらず、そのとき佐藤琢磨は5位入賞という輝かしい成績を残している。そして、優勝したのは、やはりシューマッハだった。

僕はこれと同じなんだと思う。

「フルスロットル」は、たしかにリスクが大きい。クラッシュ(失敗)する可能性も高くなる。
けれども、そのクラッシュは、アクセルを全開で踏み込んだからこその結果なのだ。
もし、無理をせずに、順当に行って、順当な順位に収まるほどの「失敗」はないだろう。

今回、僕は、だれも全開で挑んだことのない、危険なコーナーがあることを知った。

知った時点で、僕にしてみれば、これに挑まないという選択肢は、そもそも、なかったのだ。

「市のはからいで花火大会会場近くに販売ブースを用意してもらえますが、どうしますか?」

そう聞いた時点で、僕にはもはや「やる」という以外の選択肢はなかったのだ。
なぜ、それでは僕は「失敗」を渇望するのか?

それはそこにしか未来がないことを、もはや感覚的に知っているからだ。

世に言うところの「成功」とは、そうして「成功」と形容された時点で、すでに過去である。
それか、二番煎じという実にみっともない、最悪の敗残者に身を落とすことになる。
プライドも、意地も、矜持も、へったくれも捨てさって、お金のために二番煎じを「是」とできれば、それはもう楽である。

けれども、それを断じて許せないのは、きっとそこに美学があるからだ。ロマンがあるからだ。

「誰々がこうやって、こうやったら、これくらい儲けたらしいぞ」

という会話のどこに美学やロマンがあるというのだろうか。

誰もやったことのない、挑んだことのない「荒野」にこそ、美学があり、ロマンがある。
そして、そこにこそ、本当の意味での成功と大きな成果物があると僕は思うのだ。

失敗を繰り返す、死にはしないほどの、たとえば土俵際いっぱいくらいのラインで円を描くように、130Rをアクセル全開で駆け抜けるように、そういった、生と死の狭間のような、誰も怖くて足を踏み入れない場所にこそ、いや、そこにしか、本当に得たいと思うものがないのだろうと思う。

僕が常に全開バリバリのフルスロットルで生きたいと思っているのは、そうすることでしか、本当に得たいものは得られないと直感的にわかっているからだ。

それはきっと、大脳新皮質のロジカルな考えというよりも、もっと旧皮質的な、動物本能的な、野生の勘的なものなのだろうと思う。

この感覚まで行くと、あるいはそこまで逆行すると、MBA的な理論や概念が、実に過去によってしか構築されていないことに気づく。これを、踏まえて、忘れ去り、全開バリバリのフルスロットルで駆け抜けるときにしかわからない、つまりは異空間において冴えきった感覚でしか捉えることの出来ない、絶対圧力の中で、ほんの少しだけ接触できる真理のようなものを、直感で受け止めて、ようやく「わかった」ような気になる。

旧皮質的な直感で、いわば体得した圧倒的に多くの情報量は、アウトプットしようとすればきっと膨大なことになる。本でそれを精緻に表そうとするならば、8,000ページあっても第一章が収まりきれないことになるだろう。

そうして体感したことを、人に説明しようとすれば、限られた時間で言葉では正確に伝えることなぞできるものではなく、おそらく、そのとき、「なぜそれがわかるのですか?」と聞かれれば、こう答えるより他はあるまい。

「直感でそう思うからです」

けれども、本当はこう言いたいのだ。

「逆に聞きたい。それほど明確なことが、なぜあなたにはわからないのか?」

歴史は誰かの成功の連なりとして描かれているが、それはあたかも氷山の一角でしかなく、それよりも重要な、成功に限りなく近い「失敗」の連鎖があるはずなのである。

その土俵際ともいうべき境界線を、滑るかどうかの限界でフルスロットルで駆け抜けるからこそ見える風景というものがあり、感覚というものがある。

あの日、僕が長岡で得た感覚は、そういった意味で限りなく成功に近い、痛烈な失敗なのである。
そして、あの日の写真は、失敗の軌跡として、しっかりと小さな歴史に刻まれたのである。

つまり、あの日、全てを売り切るよりも多くのことを得たということを、このブログを最後まで読んでくれたあなたになら、分かっていただけただろうと思う。

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2014-08-14 | Posted in 天狼院通信, 記事

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