2020に伝えたい1964

東京オリンピック、影の立役者《2020に伝えたい1964》


2021/07/05/公開
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 
前二回のオリンピック東京大会開催に尽力した人々を描いていたのが、2019年のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』。
その中で一人だけ、1964(昭和39)年に開催された第18回オリンピック東京大会の立役者が、取り上げられることが無かった。
その方の名は、フレッド・イサム・ワダ。
片仮名表記が示す通り、アメリカ・ワシントン州出身の日系二世の方だ。
もし、ワダ氏の御尽力が無かったとしたら、前回の東京オリンピック招致は成功しなかっただろうと言われている。
 
フレッド・イサム・ワダ氏は1964年当時、5歳だった私でも読むことが出来た雑誌に間違いなく登場していた。私が記憶をたどって断定するのは、ワダ氏の片仮名表記に、平仮名の“ルビ”が振ってあったことを確かに覚えているからだ。
しかも、ワダ氏の功績を、しっかりと記憶しているからだ。
 
1907年生まれのフレッド・イサム・ワダ氏は、4歳に成った時に和歌山県にある実母の実家に引き取られる。5年後にアメリカに戻るが、この間の日本での生活が、後に役立つことに為った。
何故なら、アメリカ生まれだったにもかかわらず、母国で成長したことで日本語も流暢に話すことが出来たからだ。
ワダ氏は、12歳の時から農園や農産物店(八百屋)に住み込みで働いた。そして20歳の時に独立し、カリフォルニア州オークランド市で自身の店を開業した。店といっても、野菜や果物といった農産物を屋台に乗せて販売するいわば露天商の様なものだった。
しかしワダ氏の店は、日本的に整えられた陳列が評判を呼び大繁盛した。子供の頃、日本で見た光景を覚えていたのだった。
1930年代後半ともなると、オークランドの日系人社会で一目置かれる存在となった。
 
しかし時代は、戦争へと突入する。西海岸三州(カリフォルニア・オレゴン・ワシントン)では、日系人の居住が許されなくなった。
あまんじて、強制収容所に向かう多くの日系人の中で、ワダ氏はそれを良しとせず、居住が許されたユタ州の農園に移り住む。荒れた地が多いユタ州で、農場経営は困難を極めた。
しかし、こんな時期でもワダ氏には強い反骨心が有ったらしく、この時期に生まれた次男にEDWIN(エドウィン・江戸が勝つ、すなわち日本が勝つの意味)を名付けている。世に知られる、某ジーンズ・メーカーの名称と同じだ。但し、ジーンズ・メーカーの名称に関しては、都市伝説らしいのだが。
 
祖国日本との戦争が終わると、ワダ氏は直ぐにカリフォルニアへ戻って来る。ユタ州の厳しい気候に懲りてか今度は、気候が温暖で湿度も低いロスアンゼルスに移り住みスーパーマーケットを開いた。
文字に起こしても解かる通り、厳しい時代に比較的自由に居住地を変えることが出来た背景には、ワダ氏がオークランド時代に経営していた屋台の八百屋が、如何に繁盛していたかが解かる。
 
この際、ワダ氏が新しい居住地をロスアンゼルスにしたことが後に、東京オリンピックを影で支えることと為るとは、当の本人も気付かなかったことだろう。
 
1949(昭和24)年、古橋廣之進・橋爪四郎を始めとする日本の水泳選手6名が、ロサンゼルスで開催される全米水泳選手権大会に出場するため渡米した。
その裏には、日本水泳連盟の田畑政治氏の発案で前年に行われた、オリンピック・ロンドン大会(日本選手団は戦争責任で出場出来なかった)と同日同時刻同競技という奇想天外な日本水泳選手権が有った。
古橋・橋爪両選手は、水泳1,500m自由形で、オリンピック記録よりも1分も速い世界記録を樹立していたのだ。
アメリカの水泳ファンは口々に、
「日本のプールは空爆によって短く為った」
とか、
「日本の時計はアメリカの時計よりゆっくり進む」
といった、訳の分からない難癖を付けて来たそうだ。
何といっても戦前は、日米の競泳陣がしのぎを削っていたのだ。
 
そこで、一部の良心的な関係者の発案で、翌年の全米水泳選手権に日本選手を招待することが決まった。
GHQのダグラス・マッカーサー最高司令官から出国許可は取り付けたものの、現地では直前迄の敵国選手を宿泊させてくれるホテルも無かった。
そこで、イサム・フレッド・ワダ氏は、選手たちを自宅に滞在させることにした。選手達は、白い御飯に喜びの声を上げた。それにも増して、アメリカ生まれ・在住にもかかわらず、流暢な日本語を話すワダ氏は、選手達にとって心強い通訳だった。
日本の競泳選手団は、圧倒的な強さを見せ付けた。特に、古橋・橋爪の両選手は、1,500m・400mの両種目で1位2位となった。
 
現実を目の当たりにすると、良い意味で直ぐに何の躊躇いもなく掌を返すのがアメリカ人の特徴だ。試合前迄は、戦中に使っていた差別用語の“ジャップ”と日本選手を呼んでいた。しかし、その健闘振りを見た途端に、差別用語は“富士山のトビウオ(The flying fish of mt.FUJI)”という賞賛の呼び名に代わっていた。
日本選手の活躍により、現地の日系人に対する差別は一気に解消されたという。
また、この時の遠征で、東京オリンピックのキーパーソンである田畑政治氏や東龍太郎氏(後の東京都知事)と、ワダ氏は知り合いと為ったのだ。
 
1949年の親交が切っ掛けとなり、ワダ氏は1958年に東京オリンピック招致に向け設立された準備委員会に、田畑・東両氏に懇願される形で委員に就任した。外国籍では、唯一の委員だった。
1958年5月に開催されるIOC総会に向け、準備委員会はワダ氏に或る密命を依頼した。北米は勿論、中南米のIOC委員に対し東京へのオリンピック招致への協力を依頼することだ。
ワダ氏は夫人を伴い(この辺りは西洋風)、手弁当でアメリカ大陸各地を訪問した。その甲斐あって、IOC総会では一回目の投票で、東京が過半数を獲得するに至った。
この、ワダ氏の南北アメリカ大陸行脚のことを、57年前の子供向け読み物には、しっかりと書かれていた。
 
東京招致が決まると、ワダ氏はIOCの名誉委員となり、アメリカを始め諸外国へ遠征する日本選手の面倒を見ている。
 
このことが、フレッド・イサム・ワダ氏が、東京オリンピック成功の影の立役者
と言われる所以だ。
勿論ワダ氏は、1964年10月10日の東京オリンピック開会式に夫人と共に招待された。
そればかりではない。ワダ氏の尽力に対し、日本政府は勲四等瑞宝章を贈った。
 
ワダ氏は東京オリンピック後も、1968年に隣国メキシコで開催されるオリンピックの渉外担当として、JOCとの仲立ちを務めた。
そればかりではない。
イサム・フレッド・ワダ氏は、1976年のオリンピック開催を目指したロスアンゼルスのオリンピック委員会に招聘された。結局、1976年の招致は実現しなかったものの、1984年のオリンピック・ロスアンゼルス大会時には、主に日本企業を中心にスポンサー集めに奔走した。
現代の、スポンサーに支えられるオリンピックの基盤を、明治生まれのワダ氏は、率先立って実現したのだ。
 
57年前の東京オリンピックを知る者として筆者は、この、ワダ氏の功績だけは語り継がねばと思っている。
 
イサム・フレッド・ワダ氏は、21世紀まで御存命だったが、2001年2月に94歳の天寿を全うされた。
 
もう直ぐ始まるオリンピック東京大会。
天国のイサム・フレッド・ワダ氏は、どんな感想を抱かれることだろう。
 
 
《以下、次号》
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
天狼院ライターズ倶楽部湘南編集部所属 READING LIFE公認ライター
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2021-07-05 | Posted in 2020に伝えたい1964

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