メディアグランプリ

グランデじゃ物足りない。


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記事:浦部光俊(ライティングゼミ・ゼミ平日コース)
 
「やばっ」
時計の針を見るともう7時を回っている。一瞬自分の目を疑った。昨日の夜、終電ぎりぎりだったせいか、目覚まし時計の音に気付かなったみたいだ。今日は朝から課長との打ち合わせ。急がないと間に合わない。ベッドから飛び降りた僕は着替えと髪のセットに取り掛かった。どんなに時間がなくても、ここは手を抜けない。見た目がすべてじゃない、世間ではよく言われている。でも僕はそんな言葉は信じない。まずは身だしなみを整えることが大事なんだ。見てる人は見てるから、いや、きっと見てくれてるはず。
 
ネクタイよし、髪もばっちり、それから笑顔もオッケー。鏡を見ながら指差し確認、出発前のルーティーンだ。よし、出発、と靴を履きかけたところで、大事なものを忘れたことに気が付いた。“あれ”がなければ、僕の一日は始まらない。急いでキッチンに戻ると昨日の夜にしっかりと洗った“あれ”を鞄に詰め込んだ。
 
駅に着くと店の前でガラスに映る姿をもう一度チェック。一息ついたところでタイミングよく開いたドアに飛び込んだ。
 
「いらっしゃいませ おはようございます」 女性スタッフの明るい声。カウンターの列に並び“あれ”を鞄から取り出す。段取りが大切なんだ。注文の時に鞄をガサゴソしている奴もいるけれど、僕からしたら信じられない。“あれ”を店員に洗ってもらっている奴なんてもってのほかだ。
 
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「あっ、おはよう。元気。」さりげない笑みを浮かべながら、僕は“あれ”をカウンターに置いた。
「おはようございます。元気ですよ。いつもありがとうございます。本日のコーヒー、タンブラーですよね。」
 
毎朝の僕の日課、それはスタバで本日のコーヒーをタンブラーで買うこと。それからカウンターの“彼女”とのちょっとした会話。気さくな笑顔が、朝の一杯のコーヒーのように僕をさわやかな気分で満たしてくれる。
 
「うん、ありがとう」 よし、今日のやり取りもばっちり。心の中のガッツポーズが表情に出てこないように気を付けながら、余裕を見せつけるかのようにゆっくりと店を出た。「何事も小さいことの積み重ね。僕の魅力、いつかきっと彼女に伝わるはず」 ずっしりと重いタンブラーを鞄にねじ込みながら、僕は会社への道を急いだ。
 
僕が勤めるのは食品会社。所属は経理部、担当は原価計算だ。原価計算とは、簡単に言えば、製品を作るのにいくらのコストがかかったのかを計算すること。小麦粉や砂糖なんていう原材料はもちろんのこと、電気やガス代、人件費なんかを集計して、いくらかかったのかチェックする。製品コストのトリックをわかりやすく説明した「スタバではグランデを買え!」なんて本がしばらく前にあったけど、原価計算のプロを自称する僕からしたら、グランデじゃ足りない。タンブラーを買えだ。
 
打ち合わせが始まると、課長が苦虫をかみつぶしたような顔をしている。「お前、これまずいよ。この資料、間違っているぞ」 そんなはずは…… と思いながらも課長が指摘するポイントを見ると確かに間違っている。苦くて酸っぱい唾が出た。実をいうと僕の担当は原価計算だけではない。計算結果をうけて、もっとコストを下げなさいと関係部署に“改善命令”を出すのが僕の仕事だ。昨日の夜、ひとりでうんうんと頭を悩ませながら、僕はかなり厳しめの改善命令を出したばかり。資料が間違っています、なんて今更言えない。「一緒に謝りに行くしかないな」 課長の表情もさえない。こげ茶色に日焼けした顔がどす黒く見える。思い足を引きずりながら二人は会議室を出た。
 
「やばいぃ!」
時計の針を見るとまた7時過ぎ。昨日は課長と一緒に謝りにいった後、二人で飲んだ。こっちの改善命令が厳しかった分、相手からの反応も相当手厳しかった。課長も僕もひたすら頭を下げ続けた。「まあ、こういうこともあるさ」 なんて優しい声をかけてくれる課長に申し訳なくて飲み続けてしまった。重い心を引きずるようにしてなんとかベットから出る。着替えを済ませ、鏡で身だしなみをチェック。おっと、タンブラーを忘れるところだった。慌てて部屋を出る。
 
タンブラーをカウンターに置くと「いつものですね。」スタバの彼女は今日も明るい笑顔で迎えてくれる。
「おはよう。今日も元気?」 何事もなかったように話しかける。
「私は元気ですよ。でもなんか今日はちょっと元気なさそうですね。なにかあったんですか。」
彼女からこんな風に話しかけられたのは始めてだ。「あっ、うん、元気元気。でも、どうして?」 動揺して声が少し震えてしまった。
「いや、いつもタンブラー、きれいに洗ってあるなって。でも今日はちょっとコーヒーが残っていたから、なにかあったのかなって」
 
昨日の夜、飲みすぎてタンブラーを洗うのを忘れていたらしい。ごめん、ごめん、僕の言葉が耳に届いたかわからない、彼女はタンブラーを手早く洗う。
「本日のコーヒーは、ブレックファーストブレンド。一日の始まりにふさわしい、いきいきとしたコーヒーです。今日もお仕事、がんばってくださいね!」
 
その声を聴いた瞬間、僕は確信した。そう、グランデじゃだめなんだ。タンブラーじゃなければだめなんだ。スタバではタンブラーを買えだ! 勇気づけられた僕はさっそうと店を出た。今日のタンブラー、なんだかいつもより軽く感じるのは気のせいだろうか。
 
 
 
 
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2019-12-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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