おんな格闘家の私
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記事:EM(ライティング・ゼミ日曜コース)
日本で開催されるあらゆる分野の外国人による講演会やワークショップで、イヤホン付の小型機器を渡されたご経験はないだろうか?そのイヤホンを付けたら外国語の講演者の話が時間差なく、日本語にどんどん訳されていくのが聞こえる。行われているのは、同時通訳。これが私の仕事である。
講演者が少し話したら止まり、そこまでの内容を通訳家が訳し、また区切っては訳すという形式の通訳は、逐次通訳と呼ばれている。以前は私もやっていたし、今でもどうしても逐次通訳が必要な場面もあるが、私の専門は(そして断然好きなのは)時間差のない、ほぼメモ取りもない、同時通訳である。これを私は15年ほど前からは一つの企業内で行なっている。日本人と外国人とが混在する社内やクライアントとの様々な話し合いの場に同席するのだ。少ないときは2人のミーティングから、多いときは500人にも及ぶ参加者のいる講演会のような時もある。
私は4歳の頃から父の仕事の関係で海外と日本を行き来する生活がずっと続いていた。高校と大学は日本だが、大学院に行くためにまたアメリカに渡り、卒業後の最初の職場もフランスだった。数えてみると人生のおよそ半分を海外で過ごしている、いわゆる帰国子女である。したがって、現地の生活の中で身につけた語学力を活かした仕事に就きたいと思うことは極めて自然なことだった。が、大学時代に日英の同時通訳の授業を受けた時、思いがけない壁にぶち当たった。母国語である日本語と外国語は私の頭の中で「別々の」場所に存在していたのだ。あくまでも感覚的な話だが、日本語を話すときは日本語脳しか使っていないし、英語を話すときは英語脳しか使っていない感じで、両方を同時に動かしてその二つを繋げるには相当の時間と努力を要した。通訳ができるようになったのは、厳しいトレーニングを経てやっと二つの言語脳の間にパイプラインみたいなものができて、それが開通してからのことだった。しかしその喜びも束の間、それからまたその上の同時通訳を目指すには特殊な技術を習得しなくてはならなかった。
今ではとても自然に行なっている同時通訳。あるとき「同時通訳って、いったいどうやってるの?」と聞かれたことがあって、自分のやっていることを改めて考えてみた。誰かが話している時にその声に誰よりも集中して聞き入り、理解し、さらにそこに込められた意味を分析し、違う言語に変換して最適な表現にして話す。しかも話している間にも、スピーカーの声を聞き続ける。つまり、聞く→理解→分析→翻訳→発声のプロセスを瞬時に、現在進行中の話も聞きながら行う。こう書いてみると到底人間の業とは思えないし、どうやるのか不思議に思われても仕方がないような気がしてくる。
しかしこのような技術的な説明よりも面白い表現に出会った。「同時通訳は格闘技だ」。同時通訳の第一人者の長井鞠子さんの表現だ。彼女は以前NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも紹介された国内外の著名人が信頼する同時通訳者で、私は足元にも及ばないが、さすがだなと思わされた言葉だ。同時通訳は格闘技? と最初は意味がよく分からなかったが、確かに仕事中の自分を思い起こしたときにイメージは重なり、同じ階級でないにしてもまさに私が日々体感している感覚そのものだった。
長井さん曰く、「そのときその場で発言されたものに瞬間的にスパッと答える」 という意味で 「格闘技」だそうだ。実際相手が決まったら、身体を相手の体勢に合わせ、その人から目を一瞬たりとも離すことは許されない。とにかくその人に全身全霊で自分の意識を向けるのだ。そして何か技をかけられたらその技にスパッと反応する。次の動きはどう来るかも察知できるように感覚を研ぎ澄ます。常に相手の呼吸と心を読み取ろうとしなければならない。私の場合、もちろん相手を倒すことはしないが、最後まで相手のエネルギー値に自分を合わせていきながら真剣に挑んでいる。だから長時間続くとかなりの体力を消耗する。格闘技は「心・技・身体」が重要と言われるが、同時通訳も然りだ。これが私は好きでたまらない。
グローバル化の時代の中で、最近の傾向といえば、これまでの技が効きにくい、かなり手強い相手が増えているということ。私にとって最も大変なのはインド人だ。彼らは極めて聡明で頭の回転が速い上に、独特な動きをする。それに付いていくのが至難の技だ。ただそう思ったら思考の壁を作ってしまうので絶対にいけないし、相手を選べないのだから耐えるしかない。そうしてだんだん慣れていく。
AIの波が格闘技の国際試合まで押し寄せてきた時が私の引退のタイミングだろう。その日が来るまで、おんな格闘家の毎日の地道なトレーニングは続く。
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