やすらかではないこの気持ちこそが受け継がれていくこのまちの遺産
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記事:あれぐり(ライティングゼミ・通信限定コース)
8月6日。今日は息子が早く帰宅した。広島原爆投下の日だからだ。
2020年の8月6日は、例外だらけの広島原爆投下の日だった。
毎年広島市の多くの小中学校では、夏休み中も8月6日だけは登校する。これは、特別登校で、勉強をしたり、プールで泳いだりするのではなく、8時15分に黙祷をささげる、平和教育の一環として実施されている。息子の通う小学校では、黙祷をささげ、平和への願いをこめて、「アオギリのうた」を歌うことになっている。強制ではないので、遠出をしている生徒たちは登校しなくてもよいが、その日は大切なものと深く認識されており、当然のように登校する子どもは多い。
今年も8月6日はやってきた。ところが、今年は新型コロナ感染症の影響で、いつもと異なる一日となった。まず、そもそも学校が夏休みに入っていなかった。それは、新型コロナ感染症の影響対策として、3月末から6月はじめまで休校や自主登校となったことから、1学期がお盆前まで続くこととなったからだ。そのため、いつもなら夏休み中にわざわざ登校する、特別な8月6日は、日常のなかに埋もれた。通常授業の日々の間にぽつりと挟まった、短時間登校の日となった。かくして息子は通常どおり登校し、いつもより早く帰宅したのだった。
登校しても、通常の8月6日とは異なっていた。一番違っていたのは、毎年歌う「アオギリのうた」を歌わなかったことだ。「アオギリのうた」というのは、原爆で一面焼け野原となり、放射能だらけとなった、むこう75年は草木も生えないだろうと言われていた広島の地で、それでも生き残り、芽吹き、人々に勇気を与えたアオギリの木のことをうたった歌である。その木は今でも平和記念公園にあり、その種から育てられたアオギリは市内の小中学校をはじめ、多くの場所で育てられている。
息子の小学校にいる音楽の先生は、全校生徒に天使のような裏声で、信じられないくらい優しい声音で、「アオギリのうた」を歌うように指導する。ものすごく熱を入れて指導しているのだろう。しかし、コロナ感染の懸念から、今年は歌わないことになったという。音楽の先生をはじめ、この歌への思い入れが強い人々にとって、苦しい決断だったことだろう。
日常に埋もれてしまった8月6日に、いつもよりずっと簡素な登校を終え、息子は早々に帰宅した。私たち家族は家のテレビで平和祈念式典を見た。いつもは大勢の人々が世界中から集まり、市内はせわしなくなるものだが、今年は随分ひっそりしていた。いつもなら昼過ぎから、街なかに人が増え、夕方には灯籠流しのため、相生橋に向かう人々の行列ができたりするが、今年は灯篭流しもなくなった。この日には灯籠を流し、つらく苦しい思いをした人々を弔いたい、平和を願いたいと、強く思うたくさんの人々が、SNSにその気持ちを書き込んでいた。帰省したくとも、自粛せざるをえず、遠くからテレビで式典を見ていた人も多かっただろう。
一年、また一年と、私たちは1945年から離れてゆく。被爆者の方々は年を重ね、亡くなる方も増えていく。悲惨な原爆の記憶は、時が積もるにつれ、少しずつ薄れてしまうのだろう。それにあらがおうと努力する人々もたくさんいて、さまざまな素晴らしい活動を展開しておられるが、それでも時は経ち、街は変わってゆく。そして、ただでさえ、この悲惨な記憶の継承が困難になってきているなか、新型コロナ感染症の影響はとても無残に大きかったようにみえた。
だけど、変わりゆく広島には、多くの人々が移り住み、「広島のひと」になっている。私もその一人だ。私たちは昔から住む生粋の広島人ではない。だけど、そんな私たち、地球上のさまざまな国からやってきた、新しい「広島のひと」やその家族、そして友人知人が、共有し受け継いでいる何かが、あきらかにあると思う。
そう思ったのは、今年の8月6日、深夜近くに子どもと共に、広島駅から向かって北西の方角にある、白島というまちに向かう道を、京橋川に沿って歩いていたときだった。ねっとりと肌にからみつく蒸し暑さ、生暖かい風、真っ暗な水面。ああ、75年前の今頃、きっとここにも苦しみの声が溢れていた。不幸にしてなくなった方々の身体も浮かんでいただろう。そう思ったとき心に湧き上がった、重さ、つらさ、気分の悪さは、心の底に沈殿するような暗い感情は、広島に住む、あるいは住んだことのある、あるいは訪れたことのある、あるいは広島を思う、たくさんの多様な人々が、いろんな濃度で共有できる、そして共有しているものかもしれない、そう思ったのだ。
このやすらかではない気持ちこそが、このまちに受け継がれていく、このまちから受け継がれていく、このまちの遺産と言えないか。それは、毎年少しずつ薄れていく、この街の記憶をとどめるためにはあまりに弱々しいかもしれない。被爆者の方々にとって、そのすさまじい、つらい記憶の継承先としては、あまりに頼りないかもしれない。新型コロナ感染症による影響は、とてもダメージが大きかったかもしれない。それでも広島に住む新しい私たちに、このやすらかではない気持ちを沸き起こさせる、そういう何かをこの街は持っている。そして、その気持ちは、いろんな表現で、いろんな言語で、いろんなひとに共有されていくだろう。
コロナ感染リスクが一段落ついたら、また広島に人は来る。国内外から人が来て、祈りをささげることだろう。私たちはいつまでもやすらかではない気持ちを受け継ぎ、きっと伝えていくだろう。
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