メディアグランプリ

私は子を生まなくてもいいのか問題


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:阪口美由紀(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
夜のうちに珍しく雪が降ったようだ。ベランダに出ると息が白かった。居間では、リタイアして週に3日だけ働いている父がニュースを見ている。夜ふかしの母はまだ起きてきていない。早朝に洗濯を干すのは40を過ぎて非常勤講師を続ける私の役目だ。手先が凍るように冷たい。ふと足元の薄汚れた植木鉢に目が行った。表面にうっすらと雪が積もっている。そこからぴょこんと何かが飛び出しているのだ。
 
「お父さん、ここって何か植えてあるん?」
「分からん、もう何年もほったらかしや」
 
放置された植木鉢に芽吹いた何か。好奇心をくすぐられ、新芽の観察が私の日課に加わった。
 
濃い緑色でへん平なアイスクリームの棒のようなものは、最初は一本だったが、あれよあれよと仲間を増やした。そのうち縦方向へと成長を始め、ニラ畑のようになった。土の中に長年捨て置かれ、忘れ去られていた球根が、真冬の厳しい寒さに負けず、どんどんと大きくなる。花が咲いたらいいなあ。私は期待を持って見守るようになった。
 
15年続けている語学教師の仕事は充実していた。本当に低収入だが、留学生の夢を応援している実感があったし、忙しくても非常勤を逆手に取って、遊ぶ時間はたっぷり捻出できた。この日は大学時代の友人と12年ぶりに会うことになっていた。高校2年生になる息子さんの付き添いで、街中まで出てくるという。ホテルの喫茶室で再会した彼女は、相変わらずの美人だが以前のシャープさは薄れ、やわらかい印象になっていた。
 
ひとしきりしゃべって満足し、二人で会計に並んでいると、一人の青年がほほえみながら近づいてくる。背が高く手足が長い。茶色がかった髪色に切れ長の目。コーヒー色の瞳をしていた。なんてきれいな人だろう。息を吸うのを忘れるほどだった。
 
次の瞬間、私は息の吸い方が思い出せなくなるくらいに驚いた。その美しい青年は私に向かって「お母さん」と言ったのだ。いや、正確に言うと、私の隣にいる友人に向かって。12年前に会った息子君は、何とかレンジャーのベルトを付けて、決め台詞を繰り返しては笑い転げていたのに……。
 
聞くところによると、彼は同級生にスリランカ出身の人がいて、スリランカという国に興味を持ったのだそう。スリランカと交流するNPO団体を自分で見つけてきて、アポを取り、一人で話を聞いてきたという。将来はアジアでビジネスをしたいのだ、と落ち着いた調子で語ってくれた。友人は「こだわりが強くて困るんよ」と苦笑いしていたが、どっしり構えているふうに見えた。母親という感じだ。
 
子供とは十数年でこんなにも成長するものなのか。子育てってすごい。偉業だ。友人は一人の「人間」を育て上げたのだ。しかも周りを惹きつける魅力を持ち、視線を世界に向けビジネスを考えるような立派な人間を。
 
友人がその偉業を成し遂げている間、お前は一体何をしてきたのか。ただあちらこちらと遊びまわり、飲んで食べて騒いでいただけではないのか。生産性のない恋愛をしては傷つき、同じ場所にとどまっていただけではないのか。何も生み出さず、何も育てず、何のバトンも渡さない。単に欲望にかまけて消費をしていただけだろう。声が次々とたたみかけてくる。
 
私は気弱に、しかし必死に反論する。今を楽しむのは悪いことじゃない。私だって少しばかりは経済を回したかもしれない。仕事は手を抜かずいつでも最善を尽くしてきた。少ないけれど税金も払っている。しかしながらそれらは、一個人が自己を満足させるためにしたことにすぎない。全てがその場限りのつながりのない個別の行為に思えた。
 
結婚願望がなかったわけではない。ただ自分が家庭を持つ姿がうまく想像できなかった。こんなに精神的に未熟で、経済的な自立も果たしていないのに。もう少し大人になってから。気がつくと40代に入っていた。
 
「私は子供を生まなくてもいいの?」
「子育てをして、未来につながる人間を育てなくてもいいの?」
 
唐突に何もないところから芽生えたこの気持ちは、最初は心をざわっとさせただけだったのに、瞬く間に私の心を埋め尽くしていった。
 
ベランダの植木鉢に生えてきた緑色のアイスクリームの棒は、成人の日の翌週に開花した。水仙の花だった。白と黄色の愛らしい花が同時にいくつも咲き、冷たい風にゆれた。
 
ほったらかしにされていた植木鉢は、私の抱えていた問題だった。
 
結婚して家庭を持ち子供を生む。その与えられたカードを使うのか捨てるのか。選択ができないまま、長い時間が経ってしまった。恋愛や仕事でつまづくたびに、問題は幾度となく回避され、私から切り離された。ただ放置され、その存在すら忘れ去られてきた。
 
しかし、植木鉢の中では、母親になりたいと強く願う球根がいつか芽を出そうと我慢強く待っていたに違いない。今それが芽吹き、目の前で花を咲かせているのだ。私は子を生み育てたい。最後のチャンスは生かすべきだ。少なくともそのための努力は、すぐにでも始めるべきではないか。
 
白と黄色の花を前に、晴れ晴れと高揚した気分だったのを覚えている。このようにして私は、婚活と妊活への一歩を踏み出した。だが、その時の私は知らない。それが自力では抜け出すことのできない深い沼へと進む第一歩だと。
 
 
 
 
***
 
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
 


 
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院書店「東京天狼院」

〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F
TEL:03-6914-3618/FAX:03-6914-0168
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
*定休日:木曜日(イベント時臨時営業)


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「Esola池袋店 STYLE for Biz」

〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-12-1 Esola池袋2F
営業時間:10:30〜21:30
TEL:03-6914-0167/FAX:03-6914-0168


■天狼院書店「プレイアトレ土浦店」

〒300-0035 茨城県土浦市有明町1-30 プレイアトレ土浦2F
営業時間:9:00~22:00
TEL:029-897-3325


■天狼院書店「シアターカフェ天狼院」

〒170-0013 東京都豊島区東池袋1丁目8-1 WACCA池袋 4F
営業時間:
平日 11:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
電話:03−6812−1984


2020-10-24 | Posted in メディアグランプリ, 記事

関連記事