【文豪の心は鎌倉にあり 第6回】鎌倉・円覚寺に座禅を組んで苦しんだ夏目漱石【前編】《天狼院書店 湘南ローカル企画》
2021/03/23/公開
記事:篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)
鎌倉は、明治22年に横須賀線が開通してから多くの文士が移り住んできた文学の町です。今でも鎌倉文士の代名詞的存在である川端康成が常連だった「イワタコーヒー店」や井上ひさしが通った「ブンブン紅茶店」などが文学の匂いを残しています。
その中でも文学の町だと印象づけてくれるのが鎌倉文学館です。館長の富岡幸一郎先生に、鎌倉ゆかりの文士についてお話を聞く連載が六回目を数えることとなりました。
今回はどんなエピソードが飛び出すのか楽しみにしてください。
■第六回:鎌倉・円覚寺に座禅を組んで苦しんだ夏目漱石
●語り手:富岡幸一郎
昭和32年(1957)東京生まれ。54年、中央大学在学中に「群像」新人文学賞評論優秀作を受賞し、文芸評論を書き始める。平成2年より鎌倉市雪ノ下に在住。関東学院女子短期大学助教授を経て関東学院大学国際文化学部教授。神奈川文学振興会理事。24年4月、鎌倉文学館館長に就任。著書に『内村鑑三』(中公文庫)、『川端康成―魔界の文学』(岩波書店)、『天皇論―江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋)等がある。
鎌倉文学館HP
http://kamakurabungaku.com/index.html
関東学院大学 公式Webサイト|富岡幸一郎 国際文化学部比較文化学科教授
https://univ.kanto-gakuin.ac.jp/index.php/ja/profile/1547-2016-06-23-12-09-44.html
第六回の文豪は夏目漱石です。新宿区に漱石山房記念館(https://soseki-museum.jp/)という建物があって、鎌倉との縁はあまりないように思われますが、実は漱石の作品に多大な影響を与えています。弟子だった芥川龍之介や久米正雄が鎌倉ゆかりの文士だったのも漱石の影響があったかもしれません。
今回は富岡館長に夏目漱石と鎌倉との深い縁を中心にお話を伺いました。
●夏目漱石は朝日新聞の社員だった!
夏目漱石の若い頃のエピソードとして外せないのは正岡子規との出会いです。生涯友情を結ぶ仲になのは有名です。漱石は、帝国大学英文科を出てロンドンに留学をし、第一高等学校の英語教師になります。教師を辞めて小説家デビューした作品が『吾輩は猫である』(大倉書店)で、『ホトトギス』という高浜虚子がやっていた雑誌に掲載しています。虚子は、鎌倉ゆかりの俳人・文学者です。漱石にとって虚子と正岡子規は明治という同年代の文学者であり、小説家漱石を生んだというのはエピソードとして大事だと思います。
明治38年に『吾輩は猫である』(大倉書店)を出しました。一回の予定でしたが、好評だったので長編となりました。以後、小説を書き続けます。「坊っちゃん」(春陽堂書店)を『ホトトギス』に、『草枕』(春陽堂書店)を『新小説』という雑誌に書いて注目されていきます。
明治40年、40歳の時に朝日新聞に招かれ、小説家として朝日新聞に入社する形になります。それから月給をもらいながら小説を書いていきます。今で言う独占契約です。漱石の小説は基本的に、朝日新聞に連載された小説なんです。新聞社から給料をもらう形になるので帝国大学と第一高等学校に辞表を出して小説だけで生活していきます。
漱石の小説の読みやすさの一つは、多くの人が目にする新聞に掲載されていたことです。新聞小説は一回一回長くありません。長編だから続きはあるんだけど、それぞれ一回一回読み切れる。それぞれの回ごとにアクセントがあって読みやすい。漱石の小説は難しいところもあるけど、構成や文体を考える上で新聞小説なのは大切だったと思います。
●円覚寺に座禅を組みにいったのが「門」に影響を与えた!
漱石と鎌倉ということでお話をします。一つは明治27年の暮れに北鎌倉の円覚寺との関わりです。鎌倉五山として建長寺、円覚寺が鎌倉を代表する禅寺で、その円覚寺の帰源院(きげんいん)で参禅(さんぜん)しにきています。この経験が後に『門』(春陽堂書店)という作品に影響を与えます。
『門』は明治43年3月に連載を開始します。明治27年に漱石は27歳ですけど、前年に大学の英文科を卒業して大学院へ進学した翌年です。。同時に東京高等師範学校の英語職員になります。翌年の春に肺結核の疑いで療養もしています。ですから大学を出て教師を始めて、色々と自分の将来を考えるようになったのかもしれません。それで明治27年に円覚寺に参禅(さんぜん)している。明治33年に漱石は、文部省の英語研究のためにロンドンへ国費で留学をします。留学中は、滞在費や学費の不足、孤独感から神経衰弱になります。
円覚寺に来たのはロンドン留学より前ですけど、結核の疑いや将来への不安から神経衰弱気味だったのもあって、悟りを開きたいと思っていたようです。
最近神経衰弱ってなんだかわからなくて、大学のゼミで「漱石は神経衰弱だったんだよ」というと学生が「漱石はトランプが好きだったんですか?」と切り返してきたから「違うよ、漱石は花札だよ」と言って話が止まって「今日はおしまい」ってなってしまったんだよね。神経衰弱ってよくわからない。今で言うとうつ病が近い状態かもしれません。
漱石は生涯そんな状態でした。奥さんがヒステリーだったという説もあるけど、むしろ漱石のほうが感情障害的な部分があったかもしれません。だから円覚寺に行ったのかもしれません。
●座禅を組んでも悟りを開けず、俗世にも戻れずに悩む漱石
『門』を読むと主人公は宗助(そうすけ)となっていて、オヨネというお嫁さんと生活をしている話です。その中で宗助が円覚寺に行く話が重要になってきます。小説の中でも円覚寺のお坊さんが出てきます。モデルが当時の円覚寺のお坊さんで、釈宗演(しゃくそうえん)という名前です。実際に漱石も会っており、漱石が亡くなったときはお経もあげています。後に釈宗演は円覚寺の管長になっています。
釈宗演は当時若かったのですが、海外にもその名を知られるくらいの人です。金沢出身の仏教学者・哲学者の鈴木大拙も釈宗演から教えを受けています。当時円覚寺に行くことがちょっとブームになっていたくらいです。漱石も釈宗演さんに会っていて、円覚寺へは12月の末から翌年の初めくらいまで3週間弱くらいまで参禅のために訪れています。
禅宗というのは座禅を組む以外に公案(こうあん)というのがあります。公案とは修行者に課する諮問、受け答えなんです。来た釈宗演(が漱石に禅の公案を授けます。『門』では
《「まあ何から入っても同じではあるが」と老師は宗助に向かっていった。父母未生以前、本来の面目は何だか、それを一つ考えてみたら善かろう》
このように老師が公案を出して来ます。父母未生以前(ふぼみしょういぜん)とは、父母が生まれる以前にお前は何者だったのか? と問うわけです。ホントに訳がわからない。禅の公案はわからない。禅の公は答えられないわけです。
これを『門』(春陽堂書店)で書いています。漱石が釈宗演(しゃくそうえん)にそのまま問われたのかはわかりません。ただ漱石がある種、人間の存在みたいなものへの、あるいは生きるとは? 人間のエゴは何か? という漱石の小説の主題に絡ませて出したのでは? と言われています。
漱石の作品で『夢十夜』という不思議な短編小説があります。自分の出生以前の幻想的なものが書いてあったのは若き日の円覚寺の体験が生きており、また『門』にも強く表れています。
『門』で主人公の宗助は答えを得られませんでした。釈宗演(しゃくそうえん)のモデルでもある老師からこんなことを言われています。
《この面前に気力なく座った宗助の、口にした琴奈はただ一句で尽きた。
「もっと、ぎろりとした所を持ってこなければ駄目だ」と忽ち(たちまち)いわれた。「その位な事は学問をしたものなら誰でもいえる」
宗助は喪家(そうか)の犬の如く室中を退いた。後に鈴(れい)を振る音が烈しく響いた》(夏目漱石『漱石全集』1994年岩波書店)
結局、この宗助は悟りを得ずに寺を出る設定です。もしここで宗助イコール漱石だとして考えれば27歳の体験で悟りを得ていたらどうでしょう? 漱石は小説家にならずに宗教者になっていたかもしれません。
有名なところでは、円覚寺を描写しているところがあります。
《山門に入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪(ふうじゃ)を意識する場合に似た一種の寒気を催した(もよおした)。
(中略)
山の裾を切り開いて、一二丁奥へ登る様に建てた寺田と見えて、後ろの方は樹の色で高く塞がっていた。路の左右も山続か丘続の地勢に制せられて、決して平ではないようであった。其小高い所々に下から石段を畳んで、寺らしい門を構えたのが二三軒目に着いた》(夏目漱石『漱石全集』1994年岩波書店)
これは今も変わりません。北鎌倉の駅を降りて横須賀線のすぐ近くに円覚寺があります。山門も入ったところに大きな杉があるのも一緒です。横須賀線は円覚寺の境内を突っ切って通っているのも明治22年にできたときから変わりません。横須賀に海軍の基地があって、国が急いで通したかったから円覚寺の中にあるわけです。
(写真AC:鎌倉・円覚寺の新緑より引用)
漱石も恐らく横須賀線に乗って山門をくぐったと思います。今、言ったような参禅して禅の公案を受けたけど悟りを開けずに帰るのを象徴的に書いてある部分があるので読んでみます。
《彼自身は長く門外に佇立む(ただずむ)べき運命をもって生まれて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざ其所まで辿り着くのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうして到底また元の路へ引き返す勇気を有たなかった(もたなかった)。彼は前を眺めた。前に堅固な扉が何時までも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日が暮れるのを待つべき不幸な人であった》(夏目漱石『漱石全集』1994年岩波書店)
この文章からすると宗助、漱石もそうだと思うけど、門の中に入ろうとする、ある種悟りを得ようとする。入れないのならば現世、俗世を生きないといけない。けれども元の道に勇気もなくただ前を眺めている。前には堅固な扉がある。そうなると門を通る人ではない。門を通らないで済む人でもない。要するに門の下にいるしかないというのに立たざるを得ないのが主人公の宗介で、恐らく漱石もそうだった。
だから悟りを得てしまえば宗教の世界に行ってしまうわけです。できなければ完全に俗世に生きようとする。でも、それも難しいとなれば門の下に立ちすくんでいるしかない。そこに漱石が小説、文学を書く一番の意味があったのだと思います。その体験を27歳の円覚寺でしたのはすごく大きな出来事で、そういう意味では漱石と鎌倉は僅か数週間ですが、彼の人生に大きな影響を与えていると思います。それが『門』(春陽堂書店)によく現れていると思います。
《後編へ続く》
●夏目漱石の歩み
(パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集より引用)
・1867年(慶応3年)江戸の牛込・馬場下横町で父・夏目直克、母・千枝の五男として誕生する。
・1870年(明治3年)種痘がもとで疱瘡にかかり、顔にあばたが残る。
・1879年(明治12年)東京府立第一中学校正則科(現・都立日比谷高校)に入学
・1888年(明治21年)第一高等中学校予科を卒業。英文学専攻のため本科一部に入学
・1890年(明治23年)第一高等中学校本科を卒業。帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学、文部省の貸費生となる。
・1892年(明治25年)東京専門学校(現・早稲田大学)の講師となる。
・1894年(明治27年)鎌倉円覚寺で参禅。神経衰弱になる。
・1895年(明治28年)松山中学(愛媛県尋常中学校)に赴任。貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いし、婚約
・1900年(明治33年)イギリスに留学
・1902年(明治35年)夏頃強度の神経衰弱に罹る。12月にロンドンを発ち帰国の途につく。
・1904年(明治37年)高浜虚子の勧めで、文章会「山会」で「吾輩は猫である」を発表する。
・1906年(明治39年)「坊ちゃん」を『ホトトギス』に発表
・1907年(明治40年)すべての教職を辞し、朝日新聞社に入社
・1908年(明治41年)「坑夫」「文鳥」「夢十夜」「三四郎」を朝日新聞に連載
・1910年(明治43年)「門」の執筆中胃潰瘍を患い、療養生活となる。
・1914年(大正3年)「こころ」を朝日新聞に連載開始。
・1915年(大正4年)「道草」を朝日新聞に連載開始。芥川龍之介、久米正雄が門下に加わる。
・1916年(大正5年)「明暗(めいあん)」執筆途中に胃潰瘍が再発、内出血を起こし死去。戒名「文献院古道漱石居士」。落合火葬場にて荼毘に付す。導師は釈宗演がつとめた。
※新宿区HP「夏目漱石生い立ち」を参照
https://www.city.shinjuku.lg.jp/kanko/file03_01_00027.html
□ライターズプロフィール
篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)
神奈川県綾瀬市出身。現在、神奈川県相模原市在住。
幼い頃から鎌倉や藤沢の海で海水浴をし、鶴岡八幡宮で初詣をしてきた神奈川っ子。現在も神奈川で仕事をしておりグルメ情報を中心にローカルネタを探す日々。藤沢出身のプロレスラー諏訪魔(すわま)のサイン入り色紙は宝物の一つ。
□カメラマンプロフィール
山中菜摘(やまなか なつみ)
神奈川県横浜市生まれ。
天狼院書店 「湘南天狼院」店長。雑誌『READING LIFE』カメラマン。天狼院フォト部マネージャーとして様々なカメラマンに師事。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、カメラマンとしても活動中。
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