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文豪の心は鎌倉にあり

【文豪の心は鎌倉にあり 第5回】「入門三島由紀夫 文武両道の哲学」発売記念イベントレポート《天狼院書店 湘南ローカル企画》


2021/02/15/公開
記事:篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)

毎回、鎌倉文学館館長・富岡幸一郎氏から鎌倉にゆかりのある文人についてお話を聞く連載が、今回は鎌倉を飛び出し池袋西口でイベントが開催されることになりました。

昨年(2020年)12月26日に天狼院書店が池袋西口公園内のグローバルリング シアターで行われた文化祭の目玉企画として、そして富岡館長が昨年12月に上梓した『三島由紀夫入門 文武両道の哲学』出版記念のイベントとして開催されました。

(筆者撮影)

実は富岡館長、最近よく池袋に来ているそうです。なぜかというと地元CTVの「としまテレビ」で番組を持っており豊島区役所にあるサテライトスタジオへ収録に訪れているとのこと。

その富岡館長が語る三島由紀夫とはなにか? 前回鎌倉文学館でお伺いした話とは違う切り口でかつ非常に興味深いお話が聞けたのでレポートします。

【第4回】三島由紀夫:没後50年、残した言葉を振り返る・前編
http://tenro-in.com/bungo_in_kamakura/159893
【第4回】三島由紀夫:没後50年、残した言葉を振り返る・後編
http://tenro-in.com/bungo_in_kamakura/159878

●語り手:富岡幸一郎

昭和32年(1957)東京生まれ。54年、中央大学在学中に「群像」新人文学賞評論優秀作を受賞し、文芸評論を書き始める。平成2年より鎌倉市雪ノ下に在住。関東学院女子短期大学助教授を経て関東学院大学国際文化学部教授。神奈川文学振興会理事。24年4月、鎌倉文学館館長に就任。著書に『内村鑑三』(中公文庫)、『川端康成―魔界の文学』(岩波書店)、『天皇論―江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋)等がある。

鎌倉文学館HP
http://kamakurabungaku.com/index.html

関東学院大学 公式Webサイト|富岡幸一郎 国際文化学部比較文化学科教授
https://univ.kanto-gakuin.ac.jp/index.php/ja/profile/1547-2016-06-23-12-09-44.html

http://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/teacher/comparative_culture/tomioka-koichiro/

イベントは年末の夜、辺りも日が暮れた中、なんと屋外で行われました! いつも撮影をしてくれる湘南天狼院店長でカメラマンの山中さんが進行役でイベントが進んでいきました。

(筆者撮影)

●『花ざかりの森』の構想を筆で先輩に送っていた平岡少年(三島由紀夫)


今日持ってきた本で『三島由紀夫 十代書簡集』(新潮社)というのがあります。これは新潮社が発行しました。後はこの資料ですね。これは三島が学習院にいた頃、5年ほど先輩だった東文彦さんという方に宛てた手紙です。東さんは学習院で文学を学んでいて小説とかを書いていました。当時月刊誌で書いていた関係で平岡少年とも手紙でやり取りをしていたようです。

『花ざかりの森』を書いていた後、東さんに小説を書いたことや内容をお伝えする手紙を送っています。1999年に発行された書簡集には50通くらいあるのですが便せんにびっしりと書いています。この手紙を私がある方からお預かりしました。

「こんなのもらっていいの?」とびっくりしました。これは三島の字で間違いないと字を見てすぐにわかりました。実際の書簡はあるとは研究者の中であるとは言われています。三島は10代で東さんに宛てた書簡はあるとも言われていました。一部表に出ていたのですが、この時に多くのものが発見されたのです。偶然にもご縁があって私がいただく形になりまして保管をしています。

そして新潮社が三島由紀夫最後の作品である『豊饒の海』(新潮社)を出していたので、すぐに連絡をして雑誌の新潮に掲載しました。同時に各新聞社に連絡を取り、共同通信のスクープとして当時話題になりました。

その中の一部を今日コピーで持ってきました。これは平岡少年、つまり三島が「花ざかりの森」について東さんに宛てた書簡です。私が頂いた書簡の中で多くは葉書と便せんで書かれていましたけど、これだけが毛筆です。つまり特別な思いがあったと推測されます。

三島由紀夫はこの手紙が後の世に残るかも知れないと思ったのかはわかりません。
ただ、そういう思いが込められていたのは確かです。よく見ると16歳の少年が書いたとは思えません。手紙には昭和16年7月24日の日付が付いてあり、「花ざかりの森」はこういう構想で、こういうビジョンで書きましたと書いてあります。

その1が現代、その2が準古代、中世ですね。その3が古代と近代の三部に分かれていて、主人公の系譜、憧れの系譜に分かれています。もちろん私は僕ではありません。「古代、中世、近代の現代の照応のため海をライトモチーフにし、蜂を決闘の栄枯に関係させました」とあります。

これは小説の中身を先輩の東さんに説明しているんです。海が作品のモチーフです。実は三島由紀夫は海をモチーフにした小説が多くて29歳の時に書いた『潮騒』(新潮社)は、三重県の島を舞台にして漁師と美しい娘との純愛小説として有名です。映画にもなって山口百恵も出ました。私もファンです。

最後の作品であり、ライフワークの『豊饒の海』(新潮社)も海が関係しています。4巻に分かれていて最後の「天人五衰」(新潮社)です。今日は一冊だけ持ってきました。

(筆者撮影)

昭和45年に亡くなったのですが出版されたのは翌年です。だから三島由紀夫はこの本を見ていません。最後まで書き上げてから編集者に渡して切腹をしました。作者は見ていないけど立派な本です。開けると正に海ですね。海の上を渡っていくような感じです。実は最後の「天人五衰」(新潮社)の表紙は駿河湾の海が三島由紀夫一流の文体で表現されています。遙か彼方に一隻の船があるのを描写されているのです。これは三島の妻・洋子夫人が書いたものです。実は16歳のときに書いた『花ざかりの森』と最後のライフワークとして書いた「豊饒の海」(新潮社)はつながるものがあります。

●体操に日本独自の美しさを見つけた三島由紀夫


昨年(2019年)岩波文庫から出た『三島由紀夫スポーツ論集』(岩波書店)というユニークな本があります。佐藤秀明先生が書いた本で実は1964年の東京五輪の話になります。これは高度成長期で東京でもオリンピックができるほど復興したという証明です。

(筆者撮影)

この本は自ら身体を鍛えて、スポーツに関心を持った三島由紀夫が東京五輪の取材をして色々と書いていました。私が書いた『入門・三島由紀夫』(ビジネス社)にも掲載しているのですが、さっきからタイトルが出ている『太陽と鉄』(講談社)に書いてあります。

これはユニークな本で小説ではないけど、今でも三島由紀夫が自分で身体を鍛えてやり出したのがスポーツ論にも出ていると思います。少し読ませていただくと体操の話がわかりやすいです。

※「体操ほどスポーツと芸術のまさに波打ち際にあるものがあるだろうか。そこではスポーツの海と芸術の陸とが微妙に交わり合い侵しあっている。満潮の時にスポーツだったものが干潮の時に芸術になる。そしてあらゆるスポーツとしてフォーム、形自体の価値を強めれば強めるほど芸術に近づく。どんなに美しいスポーツでも早さのため、高さのため、有効性の点から評価されるスポーツはまた単にスポーツの意義に留まっている。

しかし体操は形が、形それ自体が重要であり、これを裏から読むと芸術の本質は結局形に帰着するという逆証明である」(『三島由紀夫スポーツ論集』(岩波書店)より引用)

体操はスポーツと芸術の間にある、と。確かにそうなのです。スポーツではあるけど形とかフォルム、何秒かそこに形を保つという意味でフォームが重要です。三島が言うように「スポーツと芸術の波打ち際にある」とスポーツと芸術が体操を現していると思います。

三島由紀夫はフォーム、形を重要視した作家でもあります。小説もすごくストーリーの面白さ、物語の波瀾万丈さ、主人公の内面の分析とかありますけど、小説のフォーム、形に非常に重要だと、フォームが崩れている小説は好きではないし、書きたくない。最後の一行をあらかじめ頭の中に決めて、そして書き始めるんです。つまりそれくらいしっかりとした構成を作って、それに則って揺るぎない形として芸術としての小説を書こうとするのが三島由紀夫の作法です。

だからフォルム、フォームというのが三島の芸術において重要なパーツになります。

●三島由紀夫が右翼というのは誤解だった?


『文化防衛論』(新潮社)という本がありまして、今回の本でも触れています。昭和43年に雑誌に発表して書籍になっています。これは三島由紀夫の文化論のエッセンスです。特に天皇というのを日本文化の中にどう位置づけるのか。文化の概念としての天皇と言うのを強調しています。

(筆者撮影)

三島由紀夫は昭和45年に割腹したときに「天皇陛下万歳」と言ったせいか右翼的な印象が強い作家です。

しかし、明治以降の天皇制に非常に批判的です。国民国家を作る上で明治維新が行われ、天皇は政治的なものも含めて全体的な存在に変わりました。しかし日本の長い歴史の中で天皇は文化的なものでした。もちろん政治に関わり、政治権力との戦いもありましたけど本来は権力ではなく権威であると。つまり文化的権威であると述べています。

今、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が放映されていて主人公は明智光秀です。坂東玉三郎さんが正親町天皇の役を上手に演じてます。あのドラマで簾の向こうにお座りになって、光秀を迎えるシーンは非常に権威的な存在感が出ており、日本の文化的な権威だと言えます。明治以降の天皇制は、時代の中で特殊であったから政治的な天皇ではなく本来の文化的な天皇が大事だと『文化防衛論』(新潮社)で強調しているのです。

『文化防衛論』(新潮社)はそういう三島由紀夫の天皇論であり、そして日本文化というのは形というのが大事だと言っています。形は日本の色々な伝統芸能やお茶、お花にもあります。剣道も形が大事です。伝統芸能だけではなく、あらゆるものには形がある。行動、人間の行動も一つの形を取るとを言っているのです。

『スポーツ論集』(岩波書店)で体操の形を記していますが、実際は三島由紀夫言っている形は文化のフォルムに繋がっていく深い文化論だと思います。

●瞬間的な美しさを体現したのが西郷隆盛と那須与一と評する


今回の本で具体的に取り上げたのは『行動学入門』(文藝春秋)という本です。この本は雑誌に連載をしていて昭和45年10月に発刊しています。10月ということは自決する一月前で、生前最後に刊行された本です。『行動学入門』(文藝春秋)は『Pocket パンチ Oh!』という雑誌で連載されており、ほぼ同じ時期に『をはりの美学』というタイトルで『女性自身』に連載されていたのも収録しています。それから『革命哲学としての陽明学』とちょっと難しいのですが、陽明学にも晩年の三島が興味を持っていたエッセイも収録されています。

今回の本(『入門三島由紀夫』(ビジネス社))を書くにあたって『行動学入門』(文藝春秋)を少し詳しく見てみました。というのも、ここに三島の最後の自決、三島全体を貫く文学と行動、精神と肉体、言葉と行動が入っているように思えたからです。

この中で色々な例が出てくるのですが、最後のところに具体的な行動の一つの象徴的な例として西郷隆盛の名前が出て来ます。少し読んでみましょう。

※「西郷隆盛は城山における切腹によって永遠に人々に記憶され、また特攻隊は多く短い時間の特攻攻撃の行動によって人々に記憶された。彼らの人生の時間や、また訓練の時間は人々の目に触れることがない。

行動は一瞬に火花のように炸裂しながら、長い時間を要約するふしぎな力を持っている。であるから、時間がかからないことによって行動を軽蔑することはできない。人々の長い一生を費やして一つのことに打ち込んだ人を尊敬するけれども、もちろんその尊敬には根拠があるけれども、一瞬の火花に全人生を燃焼させた人もそれよりも更に的確、簡潔に人生というものの真価を体現して見せたのである。

至純の行動、最も純粋な行動はかくてえんえんたる地味な努力によりも、人間の生きる価値、また人間性の永遠の問題に直接触れることができる。私はいつも行動を思索、肉体と精神の問題で思いをめぐらせてきたが、これからは『行動学入門』という題のもとに、その私が行動について考えたことがさまざまな思考のあとをお目にかけたいと思う」(『行動学入門』(文藝春秋)より引用)

人間の人生というのは長い時間かけて一つのことをやり遂げる。あるいは長い時間の果てにというか先に一瞬のある種の行動が影響を与えたり、人々の記憶に残るということを書いています。これは正に三島の精神と肉体。言葉と行動というテーマに『行動学入門』(文藝春秋)には良く出ていると思います。この本は少し難しい部分がありますけど雑誌に連載していたので我々が今読んでもわかりやすくなっていて、明快なものが出ていると思います。

例えば第六章ですね。行動を起こすためには待つということが大事だと書いていて

※「準備と言って良いのか、待機する。機会を待つ。一瞬の行動のためには一定の時間を長い時間をかけてその一瞬を待たないといけない」(『行動学入門』(文藝春秋)より引用)

そういうことも書いています。例として那須与一を挙げていてこう記しています。

※「われわれは歴史にあらわれた行動家の一つの典型として、那須与一をような人を持っている。あの扇の的を射った一瞬に、那須与一は歴史の波の中からさっと姿をあらわし、キリキリと弓をひきしぼって、扇の的の中心に矢を当てると、たちまちその姿は再び歴史の波間に没して、二度とわれらの目に触れることはない。

彼が扇の的を射った一瞬は、長い人生のほんの一瞬であったが、彼の人生はすべてそこに集約されて、そこで消えていったように思われる。もちろん、それには長い間の訓練の持続があり、忍耐があり、待機があった。それがなければ、那須与一は、われわれを等しなみに押し流すを歴史の波の中から、その頭を突き出して、千年後までも人々の目に止まるような存在にはなりえなかった」(『行動学入門』(文藝春秋)より引用)

那須与一が源平合戦で扇の的を射抜くあの有名なシーンの話です。弓の名手になったのは長い時間の訓練があった。行動の面白さというか、行動というのは一つの大きな特色は一つ待つ時間、その中にある行動のダイナミックさが凝縮されているということです。

●死を常に意識しながらどう生きていくかを考える


今回、どうしてこうした本を書こうと思ったのかと言いますと、もちろん三島由紀夫の没50年という節目もあります。

しかしもう一つは、新型コロナウイルス感染です。

拡大によって色々と考えさせられました。今でも大変な状況が続いています。講演も難しくなっていて(今回のイベントは緊急事態宣言前に行われました)、今日は野外の寒いところで話さないといけない。私は話しているからいいけど、聞いている方が大変だと思います。屋内の暖かい会場だったら半分くらいは居眠りできますけど、これじゃあそれもできない。大学はオンラインで授業になっていて、直接顔を合わせない。

(筆者撮影)

新型コロナウイルス感染は我々がもう一度命ってなんだろうと考えさせられました。人間の死とは何かを考えさせられた。

人間はある意味複雑な意識の動物です。自由がないと困る。自由に生きるのが重要ですけど、自由を与えられると自由に飽きてしまう。それから平和がいいに決まっている。三島由紀夫は戦争経験者ですから多くの人が死んでいるのを見ています。平和を学んだのは戦争が生か死しかないからです。死んだ人ともうすぐ自分が死ぬしかないしかなかった。それなら平和がいいに決まっている。ただ、平和になるとつまんないとなる。平和は大事だけど段々変な感じになってくる。死ぬのはイヤだし、良く生きたいし、健康に生きたいけど、人間は実は生を生きる気がない。

三島由紀夫は『葉隠入門』(光文社)という本を出しています。葉隠は江戸時代にあって佐賀藩の山本常朝という侍が出したものです。江戸時代ですから侍が刀を抜いて戦う時代ではなくなりました。では、侍がどうやって生きていくのか? というのを示したものです。平和になったから侍のアイデンティティーはなに? お前達なんで侍やっているの?

刀を二本差しして一生懸命剣道の練習はする。でも戦はない。平和でいいけど侍の存在はなに? という時代に「武士道とは死ぬことと見つけたり」と記したんですね。

武士道とは死ぬことと見つけたりなんです。

生きることを考えるときには必ず死に方が大事だと言うことです。死の意識を常に持つことが重要だというのをよく生きるために一番の鍵だと言ったのです。三島由紀夫は葉隠が愛読書で昭和43年に『葉隠入門』(光文社)を出しました。正に三島の人生に影響を与えています。

『葉隠入門』(光文社)にこんなことを書いてあります。今回の本で引用できなかったので読んでみます。

※「現代は生き延びることに全ての前提がかかっている時代である。平均寿命は史上かつてないほど伸びていて、我々の前には単調な人生のプランがぶら下がっており、青年はマイホーム主義によって、自分の小さな巣を見つけることに努力しているうちはまだしも、一旦巣が見つけるとその先には何もない。あるのはソロバンで弾かれた退職金の金額と労働でできなくなったときの静かな老後の生活だけである。

このようなイメージは福祉国家の背後に横たわっており、人々の心を出悪している」(『葉隠入門』(光文社)より引用)

基本的には同じですね。違うのは老後の生活が厳しいくらいです。あの頃は日本はまだ経済大国などと自称していました。あの後完全に潰れてしまい今は自嘲している。だから余計に悪いんじゃないですかね?

(筆者撮影)

この生き延びることが全ての前提になっているのは正直キツいですよ。逆に私はコロナで本当に命とはなにか? と問われたときに、生きているのはなんだ? というのは素朴に思いました。

コロナにはかかりたくないし、健康が一番、その通りです。でも、人間ってそれだけで本当により良い生き方ができるのか? よい時間が生まれるのか? 学生にも同じような話をします。『葉隠入門』(光文社)で三島はこう言っていました。

※「現代社会で、死はどういう意味を持っているのかいつも忘れられています。いや、忘れているのはなく直面することを避けられている。人間の死が小さくなったことを言っている。人間の死はたがたが病室の固いベッドの上の個々にすぐ処分されるほど小さくなった。

そして我々は日清戦争の死者を上回ると言われる交通戦争の果てにある。人間の生命がはかないことは今も昔も少しも変わらない。ただ我々が死を考えることがイヤなのだ。死から有効な成分を引き出し、自分に役立てようとするのがイヤなのだ。

我々は明るい目標、前向きな目標、生の目標、生に対して目を向けようとしている。そして、死が我々の生活を徐々に蝕んでいくことには、なるべく、目を向けないでいようと思う。これは合理主義的、純分主義的思想が、ひたすら明るい自由と進歩へと、人間に目を向けさせる機能を持つ。

人間の死の問題を意識の表面から拭い去り、益々深く意識の闇に押し込め、それによる抑圧から死の衝動といういよいよ危険な、いよいよ爆発力を内包させたている過程を示している。死を意識の表へ連れ出すということこそ生死の陰性が閉脚されている」『葉隠入門』(光文社)

これを50年前に出しています。人が死を意識しなくなった。なるべくそれはわからないほうがいいだろう、隠しておいた方がいいだろう。これは逆説で人間は複雑ですけど日本は死を意識しないと良く生きられない。それを三島由紀夫は『葉隠入門』(光文社)で記しています。今回のコロナで感じたのはそれです。

三島由紀夫の文学が素晴らしいから没後50年で出ているのもありますけど、根本にあるのは生命感です。人間の心というものの複雑さです。人間が生きていく上での根本的なものです。自由に生きる、いいでしょう。平和に生きる、いいでしょう。それが当たり前になった時に何か変になっていないか? 今回のコロナで様々なものが中断されて悔しくて残念ですけど凄く考えさせられます。

三島由紀夫がどっかで何か言ってくれないかな、なんて思ってしまいます。

●あとがき


この後、質疑応答に移りますが、会場の外には富岡館長のお話に耳を傾けている人がたくさんいました。

(筆者撮影)

きっと館長の熱が伝わったのだと思います。質疑応答では山中カメラマンが会場やネット配信で参加した方からの質問を読み、館長が一つずつ丁寧に答えていきました。

中でも驚きがあったのが、三島由紀夫が割腹するときに介錯をした森田必勝は首を切るのを途中止めないといけないほど手を痛めていたという新事実です。割腹する前に、自衛隊員が総監を奪還するために部屋に入り込み乱闘した際に傷めたという話を聞いたことです。

森田の代わりに古賀俊昭に代わって介錯を成し遂げたのは知られていますが、当時の壮絶な様子をお話してくれました。他にもおすすめの書籍や舞台などをいくつも挙げていただいたり、石原慎太郎との関係についても屈託なくお話してくれたりしました。

最後は大変和やかな雰囲気でで終わり、立ち見で見ていた人も大満足で去っていったと思います。

また、新刊が出たときにはこうしたイベントを開催できたらと思います。

今度は室内がいいですね。寒かった。

●三島由紀夫の歩み


・1925年(大正14) :東京の四谷で生まれる。
・1931年(昭和6):学習院初等科に入学。
・1938年(昭和13):「酸模」(すかんぽう)「座禅物語」、詩、短歌、俳句を「輔仁会雑誌」に発表。「酸模」は公威(三島由紀夫)が書いた初めての小説。
・1941年(昭和16) : 「花ざかりの森」が「文芸文化」9月号から12月号まで、4回にわたり連載。このとき、初めて<三島由紀夫>のペンネームを用いる。
・1945年(昭和20):父・梓と一緒に兵庫県富合村(現・加西市)へ出立し、入隊検査を受ける。軍医より右肺浸潤の診断を下され、即日帰郷となる。
・1946年(昭和21):鎌倉在住の川端康成を初めて訪問。『中世』と『煙草』の原稿を持参し、『人間』(鎌倉文庫)に『煙草』を発表。
・1947年(昭和22):高等文官試験に合格し、大蔵省に入省。大蔵事務官に任命され、銀行局国民貯蓄課に勤務。
・1948年(昭和23):大蔵省に辞表を提出。辞令を受け依願退職となる。
・1949年(昭和24):『仮面の告白』が河出書房から発刊。
・1951年(昭和26):朝日新聞特別通信員として、初の海外旅行に出発。
・1952年(昭和27):紀行文集『アポロの杯』(あぽろのさかずき)を朝日新聞社から刊行。
・1954年(昭和29):『潮騒』を新潮社刊から刊行。
・1956年(昭和31):『金閣寺』を新潮社から刊行。
・1962年(昭和37):『美しい星』を新潮社から刊行。
・1965年(昭和40):「春の雪」(豊饒の海・第一巻)を「新潮」に連載開始。昭和42年1月まで。
・1967年(昭和42) :「奔馬(ほんま)」を「新潮」に連載開始。昭和43年8月まで。
・1968年(昭和43):「暁の寺」を「新潮」に連載開始。昭和45年4月まで。10月、「楯の会」(たてのかい)を結成。
・1969年(昭和44):1月『春の雪』を新潮社から刊行。2月『奔馬(ほんま)』を新潮社から刊行。5月『サド侯爵夫人』を新潮社から刊行。
・1970年(昭和45):7月「天人五衰」を「新潮」に連載開始。昭和46年1月まで。同月10日『暁の寺』を新潮社から刊行。11月25日 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室にて割腹自殺。45歳。
・1971年(昭和46):『天人五衰』を新潮社から刊行。

※三島由紀夫文学館「三島由紀夫の年譜」を参照
https://www.mishimayukio.jp/history.html

□ライターズプロフィール
篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)

神奈川県綾瀬市出身。現在、神奈川県相模原市在住。
幼い頃から鎌倉や藤沢の海で海水浴をし、鶴岡八幡宮で初詣をしてきた神奈川っ子。現在も神奈川で仕事をしておりグルメ情報を中心にローカルネタを探す

□カメラマンプロフィール
山中菜摘(やまなか なつみ)

神奈川県横浜市生まれ。
天狼院書店 「湘南天狼院」店長。雑誌『READING LIFE』カメラマン。天狼院フォト部マネージャーとして様々なカメラマンに師事。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、カメラマンとしても活動中。

この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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2021-02-15 | Posted in 文豪の心は鎌倉にあり

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