ポン菓子のように心を開放させられた日
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:西元英恵(ライティング・ゼミ日曜コース)
私の人生において、あんなにすーっと心に入り込んできた言葉は他にない。
その言葉が無かったら、あの大きな出来事をどう乗り越えていたのだろうと思う。
母が病に倒れたのは私がまだ24才の頃だった。
それはあまりに突然の事で私にとっては全然現実味を帯びない話だった。
進行していないわけではないらしいが、「治療すれば治る話でしょ」と高を括っていた。
しかし4つ離れた姉にとってはそうではなく、人生を左右するほどショックな出来事であるようだった。
母は快活で社交的、いつもたくさんの友人たちに囲まれていた。父親の転勤に伴い色々な土地を渡り歩いたが、すぐに仕事を見つけてきては打ち込み、また講演会などを聞きに行けば隣に座っていた方に声を掛けお茶をして帰ってくるような人だった。
そして晴天の霹靂のごとく受けた医師からの宣告を真正面から受け止めた強い人だった。
症状がまだ表に出ていないため一見いつも通り元気そうに見える母が、友人知人そして親兄弟に電話をしまくってこう告げた。
「手術することになったから入院してくるわ」
はたから見ると不思議な光景で私はまだ頭がぼんやりしていた。
何日かかけて電話をし終えると母は姉を呼んでこう言った。
「保険や通帳の管理はあんたに任せるからね。今から言う事をちゃんと聞いておきなさい」
畳の部屋に広げられた書類や通帳、印鑑の類をみて姉は泣きながら訴えた。
「やめてよ! そんなこと、しないで!!」泣く姉をなだめながらも話を進める母。そんな二人を見ていて(いやいや大袈裟な)となんだか恥ずかしい気持ちにすらなってしまった私はまだ事の重大さが理解できていなかったようだ。
手術が無事成功し、入院期間を終えると母は帰宅した。さすがに仕事には復帰しなかったが、以前のように友人と会ったり親兄弟と食事したり、母の日常が戻ってきたのを感じてすっかり安心しきっていた。ところが、1年足らずの定期検査で再発が判明したのである。このとき私は初めて「えっ……」と背筋に何か冷たいものが流れるような感覚を覚えた。そうか、おそらく姉はこういうことも含めて理解していたのだろう。
入退院を繰り返してもうすぐ3年が経過しようとしていた頃、私たち家族は医師に呼ばれた。余命の宣告だ。医師は慎重に言葉を選んでいたが、食い下がると観念したかのように
「おそらく、あと3か月」と言った。もちろんショックはあったが泣きたくなるというよりは「Xデー」に対して戦闘態勢モードになっていた。そして、ただならぬ緊張感の中で毎日を過ごすことになった。本当の事をいえば、「その日」がいつか来てしまう事を考えると手に負えない喪失感で心が侵食されるのが怖く、ざわつく心に蓋をしたのだ。
私は上司に退職の相談をした。残り僅かな時間を全部母と過ごすためだ。約1か月後引継ぎを終わらせ会社を辞めた私は、専業主婦の姉と交替で母につきっきりになった。
その頃からだろうか。私は家族以外の人との交流がとても億劫で話をするのさえ嫌だった。母が入院しているのを知る人たちは「お母さん、調子はどう?」と聞いてくる。みんな心配してくれている。ありがたいことだ。しかし、なんと答えればよいのだろう。死期が近いことは家族間でさえ、暗黙の了解であっても言葉にする事は絶対にできないのに。自宅にそのような電話が増えた頃、私は父に訴えた。
「もう電話を取るのがつらい」父はすぐに相手が誰だかディスプレイに表示される電話に買い替えてくれた。それからは祖父母や母の兄弟以外の電話を取ることは無くなった。
日に日に弱る母を誰にも見られたくなく、お見舞いはすべて丁重にお断りさせてもらっていた。ところがある日、どうしてもお見舞いの品を届けたかった母の友人がナースステーションに来ていた。そうとは知らず、珍しく車椅子に母を乗せて院内を散歩していた私は廊下で鉢合わせしてしまった。母を見て言葉を失う友人。もうそこに以前の母の姿は無かった。それは娘の私からしても大変ショックな出来事になってしまった。なぜあの時廊下に出てしまったのかが相当悔やまれた。
そんな日々に心がすり減ってきていた頃、姉としゃべっていた私はどうしようもなく恐怖心に襲われ「もうどうしたらいいかわからない」と弱音を吐いた。すると思いがけない事が起きた。私の目をしっかりと見据え、はっきりした口調で姉はこう言ったのだ。
「あのね、今は辛くてしょうがなくても大丈夫。絶対に時間が解決してくれる」
一緒になって弱音を吐くのかと思いきや、そんな素振りは微塵も見せなかった。
私は久しぶりに声を上げてわーんと泣いた。まるで子供のように。
なんだかすごくほっとしたのだ。じきに人生で一番つらい出来事が起きる。それを認めたうえで、でも大丈夫と言われたのが何より心強かった。まるで圧がかかっていたポン菓子の機械が「ぱーーーーーーーんっ!!!!!」と弾け、中のものが一気に飛び散るように私の心を開放させてくれた一言だった。時間が解決する、とは使い古された言い回しだ。でもそれを最初にあれだけ泣いていた姉が言ってくれた事が大きかった。
姉はいつの間にこんなに強くなっていたのだろう。きっと私が知らないところでたくさん泣き、そして受け入れたのだろう。今母のために何ができるかそれだけをただ考えているようだった。
医師の宣告通り、母はちょうど3か月後に私たち家族に見守られながら静かに息を引き取った。
もちろんすぐに立ち直れる訳もなく何度も泣いた。
母が着ていたパジャマに顔を埋め「お母さんの匂いがする」といって姉と笑っていたかと思えば急に涙が込み上げたし、たこ焼き屋さんで大き目のやつを頬張っていたらそれらしき別れの歌謡曲が流れてきてたこ焼きをのどに詰まらせながら泣いたし、母が入院していた病院の近くまで来るともうそれだけで泣けた。いつも不意打ちだ。
だけどそれでいいのだと、自分に言い聞かせた。立ち直るためにたくさん泣いた方がいい。もう我慢しなくていいのだ。
母が旅立って3年ほど経過すると不意打ちで泣くような出来事は随分と減ったが、誰かに母の事をしゃべる時はまだ胸がざわついた。だが、それも次第に減っていった。
あれから十数年が経ち、姉も私も今となっては二児の親だ。今は母を思い出して笑うことの方が多いかもしれない。
「お母さんってさ、結構自由人だったよね」
クリスマスの朝、枕元にカブを置いて「あらぁ夕飯はカブの煮物ね」と芝居を打ったり、
フルフェイスのヘルメットを被り息を潜めて部屋の隅に隠れて子供を驚かせたり……そんなイタズラばかり思い出したりする。姉が言う通り、しっかりと時間が解決してくれたみたいだ。
人との別れは悲しく、喪失感に胸が張り裂けそうになることもある。だけど、人はきっとそれを乗り越える力を持っている。姉を見ていて、自分が経験してみて感じたことだ。時間がかかってもいい、時には心を開放して子供のように泣いてもいい。そうやって大きな山を乗り越えた時、以前の自分よりは少しだけ強くなっている気がするのだ。
***
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