週刊READING LIFE vol.156

絶望する5歳児《週刊READING LIFE Vol.156 「自己肯定感」の扱い方》


2022/02/08/公開
記事:秋田梨沙(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
6年のうちに必ず訪れるこの期間のことを、私は「魂の修行期間」と呼んでいる。恐る恐る門をくぐり、遠目から掲示板にかかったホワイトボードのお知らせを薄目で見やる。ボードが白っぽければ安心だけれど、遠目にもぐちゃっと黒っぽい日は胃がキュッと痛くなる。どうぞ、うちの苗字が書かれていませんように……と祈りながら近づいて、がっくり頭を垂れながら職員室をノックする。こんな日が続いていると、保育園へのお迎えの足取りはどんどん重くなっていく。
 
私が毎日恐れているのは、園の入り口にかかった、先生からのお呼び出しボードである。「お呼び出し」と感じているのは私だけで、怪我をしたり、何か事務的な連絡があって、先生から連絡があるような場合に名前が書かれる伝言ボードだ。次男が年中になってからというもの、連日このボードは真っ黒であり、数多の母親が悲鳴をあげる事態になっている。非常に残念なことに、次男もこのボードの常連である。
 
もともと8割が男児というクラスで、とても活発なクラスだと先生が苦笑いしているのは知っていた。その上、昨年、年少さんの最後に行った演劇発表会はそれはそれは自由で、みんな楽しそうに舞台上にはいるものの、劇がほとんど進行せず、勝手におしゃべりが始まり、最終的には舞台上で喧嘩が勃発するほどだった。
 
「コロナ禍ということで、集団での活動もままならず……」
「年長のお兄さん、お姉さんの姿を見て、真似るという機会も少なく……」
 
締めの挨拶で、園長先生がこれほど出来栄えについてフォローを入れたのは初めてだったのではなかろうか。長い園長先生のお話を聞きながら、先生方もこの状況の中で、毎日苦労されているのだな、有難いな、と、この時はまだのんきに微笑んでいたのだった。

 

 

 

これは、まずい。
 
本気で背筋が凍ったのは、新年度の担任紹介のポスターを見たときだった。例年、年中さんからは担任と副担任の2人体制になるのだが、様子がおかしい。1、2……。どう見ても一人多い。しかも、かなりベテランのあの先生が付いている。目の奥がいっつも笑っていない、あの先生だ。主担任のこちらの先生も、どちらかと言えばビシッとした人だったと記憶している。園がこのクラスを引き締めにかかっているのは一目瞭然であった。子どもより、私の方が胃が痛い。怖い、こわい!
 
当然予感は的中し、冒頭のように、毎夕、母親たちの阿鼻叫喚が聞かれるようになったのである。もちろん、うちの次男も例外ではない。日々、誰それと喧嘩しただの、準備がマイペースすぎて帰りの会に間に合いませんだの、とにかく毎日呼び出される。先輩のママさんたちは、5歳児なんてそんなものだよねと笑ってくれるのだけれど、こうも毎日呼び出されると気が滅入ってくる。私とて、何もしていないわけじゃない。その都度、次男には言って聞かせるし、先生とも解決法を模索するのだが、なかなか上手くいかない。そもそも、そんなに簡単にいうこと聞いてくれるなら、育児など楽勝じゃないかと捻くれてもくる。
 
上手くいかないし、上手く伝わらない。
 
毎日、恐る恐る迎えに行っては、ホワイトボードの前で一喜一憂する。何がいけないのだろう。私の子育て、何か間違っているのかな……。

 

 

 

トントンと肩を叩かれたのは、運動会も終わった10月の終わりだった。
振り返れば担任の先生がにこにこと笑っている。目の奥が笑っていない。反射的に、これは絶対に何かやらかしたなと思う。
 
「ちょっと、園長も交えて個人面談をしたいんですけど」
 
これは、まずい。
長男も保育園にはいろいろ迷惑をかけたけれど、別途召集されたことは一度たりともなかった。担任の先生だけじゃなく、園長先生も一緒だと聞いて血の気が引く。青ざめる私に担任の先生は、
 
「これまで何人か園長と面談された方いますよ。ひとりだけじゃないですから!」
 
と、フォローする。いやいや。あぁ、そうなんですね、よかった。とはならんだろう! かえって、その選ばれし「何人か」に次男が含まれたのかと思うと、ズンと心が重たくなるような気がした。嫌だなぁ、面談。その時の私にできることは、頼むから面談の日までは大人しくしておいてくれと次男に念を押すことくらいだった。
 
実のところ、親から見た次男は「しっかり者」なのである。いつまでも、ぽや〜んとしていて背中に羽根が生えていそうな長男とは対照的に、家のお手伝いもしてくれ、自分のことは自分でちゃんとやってくれる。何より、「言葉」で指示が伝わるというのが感動的だ。例えば家の中で物を探していても、「洗面台の下の棚の一番右の箱の中」と言えば、ちゃんと伝わる。当たり前だと思うかもしれないが、これが長男だと3回くらい聞き返された挙句、同じ場所でクルクル回転して、「なーい」と答えるのである。まず、自分で見つけるつもりが無いというのが腹立たしいが、長男の場合は「青色の箱」だとか、「しましまの箱」という映像を言葉にしなければ早く伝わらない。これが私の言葉感覚とズレていて、とても面倒なのだ。その点、次男は私と似ていてやりやすい。
 
なので、家族で過ごしていて、そこまで扱いにくいと思ったことがない。あのくせだけを除いては……。

 

 

 

恐れていた面談は、あっという間にやってきた。私の願いが届いたのか、それまでの2週間、次男は比較的落ち着いていて、特別に呼び出されるということも無かった。面談の出だしも穏やかで、以前と比べれば準備が間に合う日が増えてきたこと、大きな喧嘩は減ってきているということを話し合った。ひとまず胸を撫で下ろす。
 
「ただ、ちょっと気になることがあって」
 
先生の一言にドキリとする。何か私の知らない問題があっただろうか。先生の次の言葉を息を止めて待つ。
 
「少し失敗するとすぐにヘソを曲げてしまって、話を聞いてくれなくなっちゃうんです」
 
あー、それか。と思う。これこそが、家でも困っている次男の悩みだった。
 
「こうしたらどうかとか、いろいろと声をかけたのですが」
「怒っちゃうんですよね。家では『絶望モード』と呼んでいます」
 
例えば塗り絵をしていて、少しだけ、チョンとはみ出してしまう。すると、
 
「あぁ、もう。僕はなんてダメなんだ。どうせ、下手くそなんだ。最悪だ……」
 
と机に突っ伏して不貞腐れ始めるのである。あまりの言い様に、聞いているこちらがザワザワする。まさか彼の心を傷つけたかと日々の言動を振り返ってみるも、思い当たることはない。誰かと比べるような言葉はかけないよう気をつけているし、親バカながら絵も塗り絵も上手だなと感心しているくらいだ。もともと少々完璧主義の傾向はあったけれど、ここのところ失敗するたびにこの調子なので手を焼いていた。
 
「何を言っても気分が持ち上がってこないんですよね……」
 
ため息混じりにこぼすと、それまでじっと傍で聞いていた園長先生が私の方へゆっくりと顔を向ける。
 
「具体的にどこが良いと思うとか、そういうことは伝えてあげるの?」
 
もちろんです、と答えて、私も続ける。
 
「でも、こっちのリンゴは美味しそうに描けてるね、とか、青いところははみ出さずに濡れたね、とか色々と言葉を尽くすのですけれど」
 
それでも、気分が切り替えられないんです、と答えた。正直、これ以上どう言葉をかけたら良いのか分からずにいる。それを聞いて、園長先生も再びじっと黙ってしまう。
 
「彼の中に完璧な理想形があるようで、そこから少しでも外れてしまうと、もう絶望モードになってしまうんです」
 
つい、深いため息が出る。子ども、まして小学校にすら上がる前の子どもがこんなにも自己肯定感の低い言動をするなんで、親の責任以外の何者でもない様な気がした。どうすれば彼に自信がつくのか、「俺天才」なんて調子に乗ってくれるのか。今からこの調子では将来がちょっと心配だとモヤモヤする。
 
「それは、もう無視した方が良いんじゃないかしら」
 
ずっと考え込んでいた園長先生が、場違いなほど明るい声で言った。
 
「ある程度言葉をかけてもダメなら、それ以上は深入りしない方がいいんじゃないかしら」
 
すぐには言っている意味が分からず首をひねる。園長先生が言うには、その状態で言葉をかけていっても、どんどん失敗にフォーカスするだけ、押してダメなら引いてみろということらしい。本人が落ち着いて、自分で気分を切り替えるのを待った方がいいと言うのだ。それは、考えたことも無かった。良かれと思って、なんとか気分が上がるまで言葉をかけていたけれど、逆効果だったのかもしれない。褒めることは大事だけれど、絶望モードに入った時には、さっと引いて見るのも手だと言う。
 
「ちょっと試してみて!」
 
ニカっと先生は笑った。

 

 

 

面談から帰宅して、すぐにそのチャンスはやってきた。
 
「もー! ダメだ、僕はなんて下手クソなんだ!」
 
次男の絶望感たっぷりの叫びが聞こえる。キッチンできゅうりを切りながら、内心、キタキタとほくそ笑む。包丁を置いて、机の上に広げた塗り絵をのぞき込む。やっぱり、ほんの少し、本当にすこーしだけ、青色が外枠の線をはみ出しただけだった。
 
「そこが飛び出しちゃったんだね。でも、ここはカラフルで上手に塗れたね」
「はー、もう全然ダメだ。僕なんてどうせ……」
 
いつもの絶望モードは終わらない。しかし、今日は私も付き合わない。一言、二言声をかけて、さっと食事の支度に戻った。さて、彼はこの後どう出るだろうか。
 
放っておいても、ぶつくさと続く絶望モード。どんどん声が大きくなって、机にも突っ伏し始めた。いつもであれば私も耐えきれずに一生懸命声をかけて、一向に収まらない絶望に、だんだんイライラしてくる頃だ。でも、今日は付き合わないと決めている。次のを塗ってみたら? などと適当に流しながら、次男の様子をうかがう。
 
すると、いつもは気が付かなかった事がわかってきた。
知り得る限りの絶望の言葉を叫びながら、ずっとこちらをチラチラみているのである。明らかに母の反応がいつもと違うことに気づいている。こんなに絶望しているのに、なぜ母は来ないのだと言わんばかりの目つきだ。なるほど、そういうことだったのかと思う。そうやって、大袈裟に絶望することで、母の気が引きたかったのか。単純なことに気がついて、可愛らしいと思うのと同時に、なんだか切なくなった。もっとちゃんと見てあげればよかった。
 
ちゃんと言葉で会話ができるから、物分かりが良くて、しっかりしていると過信していた。けれど、中身はちゃんと5歳児で、どんなに大人びた言葉を使えても、まだまだ甘えたい年頃なのだ。そんなの当たり前じゃないかと、チラチラこちらを見ている姿に反省をする。むしろ、「言葉」が、かえって甘えることの邪魔をしていたのだろうなと思う。
 
彼がいま、一番して欲しいことはなんだろう……。
 
便利な言葉が使えなくて、うーんと悩んでいたら小さな足音がバタバタと聞こえてきた。
ドンと衝撃がきて、右足がじんわりと温かくなった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
秋田梨沙(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

愛知県在住。会社勤めの2児の母。

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院書店「東京天狼院」

〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F
TEL:03-6914-3618/FAX:03-6914-0168
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
*定休日:木曜日(イベント時臨時営業)


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「Esola池袋店 STYLE for Biz」

〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-12-1 Esola池袋2F
営業時間:10:30〜21:30
TEL:03-6914-0167/FAX:03-6914-0168


■天狼院書店「プレイアトレ土浦店」

〒300-0035 茨城県土浦市有明町1-30 プレイアトレ土浦2F
営業時間:9:00~22:00
TEL:029-897-3325


■天狼院書店「シアターカフェ天狼院」

〒170-0013 東京都豊島区東池袋1丁目8-1 WACCA池袋 4F
営業時間:
平日 11:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
電話:03−6812−1984


2022-02-02 | Posted in 週刊READING LIFE vol.156

関連記事