週刊READING LIFE vol.158

吾輩は糞である《週刊READING LIFE Vol.158 一人称を「吾輩」にしてみた》


2022/02/21/公開
記事:村人F (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
吾輩は糞である。
名乗れる名は無い。
 
SNSで偉そうなことを抜かすが、フォロワーは少ない。
31年も人生を送っているのに、未だ彼女の「か」の字も見えず。
そのくせ婚活という言葉を見ると「焦っていやがる」と上から目線になる。
性根の醜さは上位クラスであろう。
 
なによりタチが悪いのは人の形をしていることである。
そのせいでゴミの日に出せないではないか!
生きているだけで廃棄物の吾輩なのに、この仕打ちは残酷と言わざるを得ない。
なぜ神はこの世界に吾輩を呼び出したのだ!
美しい風景の面汚しであるこの吾輩を!
そなたは本当に神なのか!?

 

 

 

なぜだ。
一人称を変えただけなのに。
しかもあの、この世で最も崇高な存在が使用する「吾輩」に変えたのに。
なぜ流れ出てくる言葉が己を卑下するものばかりになるのだろう。
 
もしかしたら言葉の持つ圧力がそうさせたのかもしれない。
なんてったって格が違いすぎる。
「私」や「僕」とは異なる、徳の高い人間が使うべき一人称だ。
それなのに無理して使用したばっかりに、徹底的に己を卑下したくなってしまったのだ。
 
しかし、現代で「吾輩」の似合う人はいるのだろうか。
使用者を思い出してもらいたい。
クッパとデーモン閣下くらいではなかろうか。
大魔王と悪魔だ。
いずれも人ではない。
それ以外に使いこなせている人間は思いつかない。
そして代表例である夏目漱石の作品も猫が使っている。
 
となると「吾輩」はもはや人智を超えた存在でしか使用できないのではないか。
なんせあまりにも崇高すぎる。
もはや人間が使う姿を想像するだけで恐れ多く感じてしまう。
 
だからこの一人称で書けることなど、反省文以外ない。
どうやっても本来の使い方である己を誇る言葉などひねり出せる気がしない。
 
しかし昔はどうだったか。
おそらく人間が使っていたはずである。
そう思って調べてみると、明治時代の用法についての論文を発見した(※参考文献を参照)。
その内容を抜粋すると以下になる。
 
・使用者は官民、知識人層のみであった。
・対等な者へ向けて使用される機会が最も多いが、段々と目下の者に使われることも多くなった。
 
つまり、もともと「吾輩」を使用していたのはエリート層だったわけだ。
これはイメージと一致している。
重要なのは使用ケースの推移である。
この目下の者への使用が年々増えていった部分に、現代で絶滅しかけている原因があるように思える。
 
なんせ、偉そうな人が下々へドヤ顔する時に使っていたのが「吾輩」だったわけだ。
「セットにどんだけ時間かけたんじゃい!」と言いたくなる立派なひげの御方が、この一人称を用いてありがたいお言葉を振りまいていたわけである。
 
それを頂戴した者がどう感じるか。
決まっている。
「うるせぇよ」だ。
 
このようにしてエリート層と、彼らだけが使う「吾輩」に嫌悪感を覚えるようになったわけだ。
 
そして彼らもやがてエリートになる。
この時、心に誓うのだ。
「あんな人を見下したような話し方はやめよう。手始めに、あの忌々しい一人称を封印しよう」
このようにして「吾輩」は夏目漱石の作品以外から消えていったのだろう。
 
この感覚がまだ残っていたから、卑下する言葉が溢れ出たのかもしれない。
反感ゆえに当時の用法とは真逆の文章になったのだ。
 
こう考えると、現代で使いこなしているデーモン閣下は本当に立派な存在だとわかる。
なんせ、特有の嫌味が一切ない。
むしろこの世で最も「吾輩」が似合う悪魔である。
これ以上に彼が積んできた徳の高さを証明するものはないだろう。
さすが10万年以上生きた御方である。
 
このように絶滅しかけている「吾輩」だが、使ってみるとよい場面もあることに気付いた。
この一人称だけが持つ圧力があるので、うまく利用すると薬になるわけである。
 
第1の例は天狗になっているときである。
つまり何もかもが完璧で、世界に敵はいない絶頂。
そんなタイミングで使用するのだ。
おそらく、明治の人たちも同じ時期に言い始めたことだろう。
 
これを現代で実践するとどうなるか。
己の言葉が、途端にチンケに見えてくる。
長年培った「吾輩」に対する反感も相まって、かなり醜悪に見えるはずだ。
 
そこで気が付くのである。
「吾輩を使っていそうな奴らになりかけていた」と。
これはちょうどいいブレーキになるであろう。
 
第2の例は、人ならざる者の声を表現するときだ。
ちょうど、猫に使用させるような用法になる。
このメリットは、凄い上から目線で物事を考えられる点である。
 
例えば、猫はこの世で最も崇高な生き物である。
人類は皆、猫の奴隷である。
そして彼らの声を代弁するのに「私」や「ウチ」のような一人称を使っていては、本来の高尚さからかけ離れた言葉しか出てこないだろう。
 
そこで吾輩を使うのである。
こうすれば、人智を超えた領域まで一気に上がる。
この高さこそ、本来の猫目線なのだ。
これでようやく猫の気持ちを代弁するにふさわしい言葉が得られるのである。
だから夏目漱石もこの用法をしたのであろう。
 
もちろん猫以外にも応用が利く。
環境問題だ。
例えば、森の声を引用し危機を訴えたい場面があったとする。
これも吾輩を用いて考えた方がよい。
神の目線で眺められるからである。
これならば大きなスケールで問題を提起できるだろう。
吾輩の命を削ることで、未来の人民が苦しむことになると考えたことはあるか。
なぜ人は金のために木々を切り倒す愚行を繰り返すのか。
このように通常の視点とは異なる規模で考えることができる。

 

 

 

こうして考えると「吾輩」は随分と数奇な道筋をたどったものである。
偉い人達に使われすぎた結果、反感に潰され消えていった。
そして、現代はむしろ自戒に適した言葉になる。
なんと悲しき物語だろうか。
 
しかし、これも知識人の叡智かもしれない。
なんせ彼らは上司に散々この一人称で説教されたはずだから。
そのため言葉の醜さを最も理解していたのだろう。
そりゃ使わなくなるわけである。
 
ここで、あることに気がついた。
吾輩の「輩」の意味を考えたことがなかった。
そういえば他は先輩でしか見たことがない。
そこで辞書を引いたところ、以下のように記されていた。
 
「同じ仲間。ある部類に属する者。また、ある語の下に付いて、『……という連中』『……といった人達』の意でも用いる」
 
面白いのは後半の部分だ。
これを踏まえると吾輩は「吾が仲間」というニュアンスを持っていたことになる。
そこで前の論文を読み返してみると、己の属する集団を指すときに使用していた用法もあったと記されている。
それが段々と一人称のみになったのである。
 
なるほど、大体の流れがつかめてきた。
つまり、こういうことである。
 
最初は官民や知識人が、属する集団を示すときに吾輩を用いていた。
それが段々と集団が偉くなるにつれて、その優秀さを下々に誇示する用法にシフトする。
さらに時が経つと、今度は属している己も偉いと思うようになっていく。
この時に自身の高尚さを示すために、吾輩を一人称で使うようになったのである。
そして今では偉そうな奴が使用する一人称ランキングの不動の一位だ。
 
この流れはよくわかる。
現代でも見るからだ。
 
インフルエンサーのセミナー会員になって偉くなったと錯覚し、友人になぜ入らないんだと熱く語りまくる者。
上昇中のベンチャー企業に入社して、まだ実績も積んでいないのに立派な存在になったように振る舞う社員。
一人称が違うだけで、この手の人は今もバリバリいるのである。
 
不幸なことは彼らの一人称が「吾輩」ではないことだ。
そのせいで、自分の迷走ぶりに気が付くことができない。
これを一瞬でも使えば、自分が死ぬほど嫌っていた偉そうにする奴と同じになりかけていると反省できるはずなのに。
 
それどころかSNSがあるせいで、彼ら同士で繋がりができてしまっている。
こうなれば暴走する一方である。
怒りのままに芸能人に罵声を浴びせたり、有名企業の社長に噛み付いたりといったことが日常茶飯事になってしまう。
 
だからこそ作るべきではなかろうか。
一人称「吾輩」月間を。
この言葉が持つ圧力は想像よりも大きい。
並大抵の精神力では本来の用途である偉そうな喋り方はできない。
きっと、自分はそんな存在ではないと気が付くはずである。
 
仮に使いこなせたとしても、書いた文を読み返した時に思うだろう。
なんて偉そうなことを抜かすのだと。
明治から培った反感がそうさせるのだ。
そしてこの文章の「吾輩」を、普段の一人称に戻すだけでいつもの内容になる。
これに気付いた時、己の言動を省みるチャンスとなるだろう。

 

 

 

しかし、改めて思う。
夏目漱石の偉大さを。
 
彼は周りの仲間たちが偉そうに吾輩と言っている中で、猫に使用させて人間は愚かだと言わせたのだ。
誰よりもこの一人称の本質を見抜いていたのである。
だからこそ歴史に名を刻む文豪になったのだ。
 
ならば後世の我々も、この叡智を受け継いでいくべきではないだろうか。
決して「吾輩」の似合う、偉そうな嫌な奴にならない。
人を見下すこと無く、フラットな目線で声を聞けるようになる。
これこそ、円滑な人間関係を構築するための明治の知恵である。
 
だが、人間は悲しいことに天狗になってしまうものである。
成功が続くと世界が自分のためだけにあると錯覚してしまいがちだ。
こんなときこそ、一人称を吾輩にするとよい。
この言葉の持つ崇高さは、己の格を教えてくれる。
言動の醜さを際立たせてくれる。
最高のセルフチェックであろう。
もちろん、「吾輩は糞である」と言うまで卑下する必要はないが。
 
「なんでやってくれないんだ」
「こんなこともできないのか」
これらの言葉が頭をよぎった時、一人称を吾輩にしていきたい。
そうすれば初心を忘れて偉そうにしている自分に喝を入れられるはずだから。
この意識を忘れず、謙虚な姿勢で生きていきたい。
 
 
 
 
参考文献
北澤 尚、祁 福鼎、趙 宏(2010). 『近代日本語の自称詞「わがはい」の共時的特性と動
態について』. 東京学芸大学紀要、人文社会科学系、I. http://hdl.handle.net/2309/107168
 

□ライターズプロフィール
村人F(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

名乗る名前などございません。村人のF番目で十分でございます。
秋田出身だが、茨城、立川と数年ごとに居住地が変わり、現在は名古屋在住。
茨城大学大学院情報工学専攻卒業。
読売巨人軍とSound Horizonをこよなく愛する。
2022年1月から、天狼院書店ライターズ倶楽部所属。
資格:応用情報技術者試験・合格、カラーコーディネーター検定 2級、2級ファイナンシャル・プランニング技能士。

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2022-02-16 | Posted in 週刊READING LIFE vol.158

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