週刊READING LIFE vol.167

変わりゆく街の姿から感じる幸せな生き方《週刊READING LIFE Vol.167 人生最初の〇〇》


2022/05/02/公開
記事:宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
記憶に残る場所が、年々、街から消えていく。
 
池袋界隈では昨年、東急ハンズやマルイが閉店となった。
 
一昨年の8月には「としまえん」が閉園となった。
10年ほど前。
息子と娘が小さかった頃は、毎年の正月休みに足を運んだものだ。
子どもたちはたくさんのアトラクションにはほとんど目もくれず、ひたすらアスレチックで遊んでいた。
数年前にはときどき、としまえんの園内にある施設でフットサルを楽しんでいた。
 
豊島園の記憶はそれだけではない。
30年ほど前。
高校の頃、初めて女性をデートに誘ったのはこの豊島園であった。
だが、記憶はもうほとんどはっきりしない。
覚えているのは、彼女が着ていたからし色のダッフルコート。
そして、ウルトラツイスターと呼ばれたジェットコースターにのって気持ち悪くなった、なんとも情けない記憶だけだ。
 
情けない記憶といえば、その女性にふられたのも人生で初めての出来事だった。
場所は、学校帰りに寄った水道橋駅前のドーナツ店。
ふられた後、普通に塾へ行った。
しかし翌日の朝、ベッドからおきることができず、高校を休んだ。
メンタルが身体に及ぼす影響の大きさを体感した初めての出来事でもあった。
そのドーナツ店も、今はもうない。
 
場所はなくなったし、細部の記憶ももうぼんやりしているけれど、その出来事に伴う感情の動きだけはしっかりと残されている。
それは、情けなかったり、悲しかったりといったネガティブな感情だけではない。
 
嬉しかったり興奮したりした感情もまた、記憶に残されている。
20年ほど前。
当時大学院生だったわたしは、初めて海外の国際学会に参加させてもらうことができた。
場所はハワイ。
リゾート気分満載だ。
初めて国際線の飛行機に乗り、初めてハワイを訪れた。
初めて時差を体験したし、初めてでっかいハンバーガーにかぶりつき、初めて拳銃を打つ体験もした。
 
もちろん主目的は学会発表。
わたしの発表はポスター形式だったため、会場にたくさん立てられたボードに自分のポスターを貼りつけ、その前で自分の発表を聞いてくれる人を待つ。
ぽつぽつとわたしのポスターに人が訪れてくれた。あらかじめ練習していたとおりに説明し、いくつかの質問にも答えた。
 
なかでもいまでも深く記憶に刻まれているのは、とあるカナダ人のA先生だった。A先生は、研究で用いていた分析手法について、世界的にも有名な第一人者だった。学生のわたしにとっては雲の上のように感じる先生が、短パンにアロハシャツの姿で、わたしのポスターまで足を運んでくれた。
「いつもあなたの論文、読ませていただいてます」
わたしは感激して握手をもとめた。
 
すると、A先生は、手元に持っていた分厚い要旨集(学会で発表される研究内容がまとめられた冊子)を指さして、こういった。
「今日は、きみの発表を楽しみにしてきたんだ!」
A先生が指さした先には、わたしの研究要旨が掲載されており、そこには手書きで大きく丸印がつけられていた。
 
その言葉は決してお世辞だけではなかったことは、いま研究者として生きているいまのわたしにはわかる。
たくさんのポスターのなかで、自分の発表を楽しみにしてくれた。
当時のわたしは本当に嬉しかった。
わたしは張り切って、自分の研究を説明した。
A先生はこまかいところまで質問をしてくれ、わたしは必死でその質問に答えた。
具体的なアドバイスをたくさんいただき、わたしも測定についてわからないことを質問した。
 
おそらくそんなに長い時間ではなかったはずである。
だが、とても長い時間のように感じた記憶として残っている。
ハワイでのどんなリゾート気分よりも楽しい時間だった。
 
この体験をとおしてわたしは思った。
自分の研究をたくさんの人に知ってもらうことは大事なことだ。
けれども、数少ない、研究の本質的な部分まで理解してくれる研究者の目にとまるような研究をしたい。
 
この気持ちは、いまでも変わらない。
わたしの大事にしている研究スタンスのひとつだ。
 
自分の生き方に影響を及ぶす大きな心の動きのあった〈人生初〉は、その場所と共に記憶に残っている。

 

 

 

よく考えてみると当然のことなのだが、〈人生初〉というのは、自分の過去に数えられないほどたくさんあったはずだ。
何かしら始めたとき、そこには必ず人生初があったはずなのだから。
物心ついてからでも、たとえば初めて小学校に行ったときとか、初めて泳いだときとか、初めて料理をしたときとか。
そういった〈人生初〉は、いまの自分を形づくるための原点になった出来事のはずだ。
 
しかし、それら〈人生初〉の多くを思い出すことができない。
記憶から消え去ってしまっている。
 
なぜ?
もしかしたら、原点とは忘れやすいものなのだろうか。
 
そう思うと、合点がいくことがひとつ、実体験にある。
 
わたしは日頃、大学生に実験指導をしている。
その指導のひとつに、XYグラフの書き方がある。
 
実験によって得られたデータを人に伝えやすい形で見せる効果的な方法の一つがグラフだ。そのグラフのなかでも、垂直に交わる横軸(X軸)と縦軸(Y軸)の二本をつかって表したグラフがXYグラフだ。
 
最近ではパソコンをつかってグラフソフトでつくるためあまりみられなくなったが、このXYグラフを手書きで学生に書いてもらうと、よく忘れられることがある。
 
それが原点だ。
横軸と縦軸が交差する点のことだが、この点の数値を書き忘れる学生が多い。
原点はいわば基準点である。原点を基準にして横軸と縦軸の目盛りを書き、その目盛りにしたがってデータの点をグラフに書き入れていく。
つまり原点がどこで、その座標はいくつなのか、示さなければXYグラフの作成は始まらないはずのである。
だから、なぜ原点を記すのを忘れるのか、不思議に思っていた。
 
だが、人間の脳はそもそも原点を忘れやすいものだ、と認識すれば納得だ。
ならば、原点を忘れないように注意深く学生を指導し続ければいいだけの話なのだ。
 
人生の原点である〈人生初〉を、人間は忘れやすい。
無数の〈人生初〉は、わたしの記憶の奥底に眠っているか、もう消え果ててしまっているかして、思い出すことができない。
 
記憶に残る〈人生初〉は、初めてだったから記憶に残っているのではなく、いまの自分につながる強く大きな心の動きがあった出来事だったから残っているにすぎないのかもしれない。
歴史が勝者によって残されてきたものでつくられているように、〈人生初〉の記憶も、いまのわたしにつながる勝ち組の出来事だけが残されてきているのかもしれない。
 
そうであるならば、〈人生初〉の出来事だけを振り返ることは、自分の人生の一側面を見ているに過ぎず、それだけで自分の人生を決めつけるのは偏りのある見方になりかねない。
 
勝者は歴史をつくるのに対して、敗者は文学をつくるという。
自分の記憶が“勝者”ならば、記憶に残らない“敗者”は文字で記録を残せば良いのだ。たとえば日記のようなかたちで。
 
だがしかし、日記のように記録を残すことはなかなか難しい。
特に年若い頃にはなかなかできないことではないだろうか。
30年前のわたしは、初めてのデートのことも、初めてふられたことも、思い出したくない、忘れたいと思っていたに違いない。当然、日記などに残しておきたいなどとは微塵も考えなかっただろう。誰にでも、過去を思い出したくないと思うことはあるに違いない。
 
それに、文字にしてしまうと、そのときの感情とは違うかたちになってしまう恐れもある。文章だけがひとりあるきして、思っていることと違う言葉がならんでしまうことはないだろうか。ならば記録よりも記憶のほうがまだましにも思える。
 
だとしたらせめて、〈人生初〉がたくさん思い浮かぶような人生を送りたいとわたしは思う。
人生のなかで体験したさまざまな出来事をできるだけいまにつなげて生きてみたいと思う。
 
そんな人生が送れたらそれは幸せな人生になるんじゃないだろうかと思う。
 
〈人生初〉は記憶に残りにくい。
しかしそれは意識ひとつで変えられるように思う。
原点の価値を理解し、グラフを書く機会が増えれば、XYグラフの原点の書き忘れることもほとんどなくなる。
おなじように、〈人生初〉の価値を知った上で、〈人生初〉の出来事を生かしてその後を生きていけば、おそらく〈人生初〉の出来事を忘れることはなくなるのではないだろうか。
 
男性の健康寿命72歳。
今年46歳になるわたしには、まだまだたっぷり時間がある。
その間、時代はどんどん変わっていく。
街の姿も変わっていく。
きっと技術はめまぐるしく進化するし、価値観はどんどん多様化する。
 
ということは、わたしには〈人生初〉を体験できる時間はまだまだたくさんあるし、〈人生初〉の機会はこれからもまだまだ増えるということではないか!
 
そんなことを、街からひとつひとつ思い出の場所が消えていくのをみつめていると感じるのだ。
 
どんどん変わっていく街のなかで、これからも〈人生初〉にチャレンジし、そのひとつひとつを楽しみ、その価値をかみしめながら、わたしは生きていきたい。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

千葉県生まれ東京育ち。現役理工系大学教員。博士(工学)。生物物理化学と生物工学が専門で、酸化還元反応を分析・応用する研究者。省エネルギー・高収率な天然ガス利用バイオ技術や、人工光合成や健康長寿、安全性の高い化学物質の分子デザインなどを研究。人間と地球環境との間に生じる”ストレス“を低減する物質環境をつくりだすことをめざしている。

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2022-04-27 | Posted in 週刊READING LIFE vol.167

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