ナウシカのように雲の上を歩いた日《週刊READING LIFE Vol.195 人生で一番長かった日》
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2022/11/28/公開
記事: John Ishii(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「入社後中国に赴任してもらいますが、すぐ杭州旗艦店の店長として同店の立ち上げをしてもらいます」
2018年春の転職の内定時に、人事部長からこう言われた。杭州は中国浙江省の省都で、南宋の時代には首都が置かれた歴史ある街だ。
私は50代の会社員で、この会社が5社目だ。それも今回は小売業。私は企業向けのシステムやサービス、貿易の分野でキャリアを積んできたので、小売業界には詳しくない。
ましてや、今回の転職のきっかけは旧知の友人からの紹介だった。転職後、その友人に恥をかかせるわけにはいかない。例えば私が半年で退職しましたという失態は絶対避ける必要がある。知人紹介のぶん、そもそも私には失敗できないプレッシャーがあった。歯を食いしばってでも、少なくとも数年は会社に貢献して必要な人材だと認めてもらわなければ立つ瀬がない。
2018年7月末にまずは上海にある中国現地法人へ赴任し、上海市内の大型店でスタッフ研修を1ヶ月間実施し、同現地法人の販売部門で中国全土に展開する小売店舗の政策立案やサポートを行なった。
杭州旗艦店は2019年1月中旬の開業予定だ。中国で店舗を開業する場合、開業の約2ヶ月前にショッピングモールからスケルトン状態(躯体のみで内装が全くされていない)で店舗はテナント側に受け渡される。その後約1ヶ月で床、壁、天井、スプリンクラー、及び主要な通路を作り込む。そして次の半月で商品を展示する什器や機材を搬入し調整、最後の半月で商品を搬入し展示、併せて各システムの最終チェックを行い開店の日を迎える。
私は2018年11月初旬に杭州へ赴任した。杭州旗艦店は、風光明媚な西湖の湖畔から東に200メートルほどの所にある、この商圏で最大のモール1-2階に入居する予定だ。観光地なので観光客の人通りが多く、会社としてもかなりの売上を期待していた。それだけに失敗が許されない。
旗艦店コンセプト作りのため、杭州市内既存店舗の店長や副店長に集まってもらい色々とヒアリングした。結果分かったことは、杭州の人たちがとても杭州を愛していることだ。杭州は市内に西湖や山、湿地などがあり自然が豊かだ。またネット通販で最大のアリババ社の本社も杭州にあり、I Tによる街づくりが盛んである。大自然の環境とI Tで中国の先端にある街を、人々が心から誇りに思っている。
また、浙江省自体が昔から起業家精神に溢れていること、I T企業が優秀な人材を招聘するため裕福なビジネスパーソンが多い。日本ブランドの小売の商品は中国で価格が高いと言われるが、杭州では少々高くても富裕層にはかなり受け入れられる可能性があった。
旗艦店のコンセプトは「いつ来てもお客様に優しいお店」とした。誇り高い杭州のお客様に浸透し、いつでも気軽に来ていただけるお店にしたいとの思いを込めた。
ただ、慣れない新米店長としては問題だらけだった。まずはスタッフが足りない。杭州の人材会社に委託して正社員とアルバイトの募集広告を掲出、2週間に一度入社説明会兼面接を杭州市内で開催した。ところが会社説明会に事前申し込みをしても、当日会場に来ない応募者が半分以上いる。これでは効率が悪くて開業までにスタッフが揃わない。
そこで人材会社に反応のあった名簿を全部提出してもらい、店長の私が直接電話して説明会兼面接に必ずくるよう依頼した。すると8割くらいの候補者が説明会に来るようになった。説明会のあとすぐ一人15分くらいずつ面接し、ほとんどに内定を出した。内定からの入社率は60%くらいだった。何とかかき集め、開業時点で100%には達しなかったものの、予定の9割で合計72名のスタッフを集めることはできた。
ただ、採用後の新人研修中に辞職するスタッフもいる。このため店舗開業後もずっと採用を続けた。2018年当時は杭州の景気がよく、人々にとって就業機会が多かったので人材確保には常に苦労した。
また、杭州の既存店舗から優秀な人材を引き抜きたかったがこれには失敗した。すでに地元の店舗間で人間関係ができていてブロックされ、いい人材は調達できなかった。日本からぽっと出の日本人新米店長に優秀な人材を差し出す義理も理由もなかった。
仕方ないので上海本部の希望転部制度を活用し、四川省から2名、雲南省から1名の店長副店長を異動させた。あとは杭州であてがわれた古参の店長1名、私を入れて5名の幹部がそろった。
しかし新米店長の経験の無さは時に問題を起こした。開店前の商品搬入の時のことだ。杭州旗艦店は1階と2階の2フロアある。運送会社はある店員の指示で1Fに200個の段ボールを置いた。ところがこれが指示間違いで2Fに置くべきだった。運送会社のリーダーが私を探して2階に運ぶかどうか聞いたので、私は2Fに運ぶよう指示した。これが間違いだった。
運送会社の規定では、指示を受けて一度荷物を置いた時点で搬入は完了と見なす。1階に一度置いた荷物を2階に運ぶには別途料金が掛かるのだ。店長としての私はそのことを知らなかった。
後日、物流部の部長から私に電話があり、烈火の如く怒られた。今までこんな店長見たことない、無駄な経費にも程があると。私が知らなかったとはいえ、部長の言う通りだ。物事を知らないと騙されるし罪作りになる。わずかなことでも質問し調査して知っておかなければリーダーは務まらない。
開店前には商品の未達や宣伝材料の印刷遅れなどがあり、毎日気を揉んだ。ただ、開店1週間前になると上海本部から開店のための最終実行チームが到着、店舗内陳列の精度が格段に上がった。開店前の車内事前検査を何とか合格し、無事に開店はすることができた。
開店してから分かったことがたくさんあった。前述の通り杭州旗艦店は2フロアだ。しかし店内にエスカレータはなく、中央の吹き抜けに階段があるのみ。エレベータは店の一番北側に荷物用しかない。このため日常、お客様もスタッフも階段を多用する。週末はお客様が階段にも多くいらっしゃる。そんな中で、2階のレジに累積した買い物カゴを1階に持って降りる必要がある。30個くらいのカゴはとても重い。これを両手に持って階段を降りなければならない。毎日10数回は私がこれを持って降りた。
また階段の作りが雑で、ステップ部分の木材と、木材の奥に縦にプラスチック板がはめてあるのだがその間に隙間があり、そこにホコリがダマになって挟まってしまう。階段を1階から2階に上がる時、このホコリのダマが全てお客様の目に入る。隙間がなければホコリはそこにないはずだが、スタッフの掃除のしやすさという視点では店舗設計がなされていなかった。
私が毎日掃除機と竹串でダマになったホコリをかき出して掃除した。この階段掃除が一回で30分はかかり、1日2回やった。これだけでも結構重労働なのだ。店舗設計は見た目やブランドコンセプトを体現する重要な部分だが、加えてメンテナンスのしやすさという視点も忘れてはならないと痛感した。
もう一つ学んだのが、店内のゴミ箱の件だ。開店前に上海本部にいる取締役から、杭州旗艦店内のゴミ箱が多すぎると指摘を受けた。取締役は、ゴミ箱はお客様が飲み残した紙コップで溢れることが想定されるのでできれば全部撤去すべきだとアドバイスしてくれたのだ。私は経験がなるあまり実感がなかったので、お客様にとってゴミ箱はあったほうがサービスになると考え、一階と二階に一つずつゴミ箱を残した。
2019年1月下旬の旗艦店開業当日、この二つのゴミ箱はお客様の紙コップで溢れてしまった。それも半分以上飲み物が残ったままのコップが多く、スタッフがゴミ処理するのも大変だった。私は自分が間違っていたと思い、すぐ店内のゴミ箱を撤去した。お客様は店内にゴミ箱がなければ、そのままその紙コップを持って店外へと出ていく。これはこれでいいのだ。ディズニーランドは、美観維持のためゴミ箱は設置せず、道に捨てておいていいとしている。しかし、小売店ではゴミを店内に捨ててもらうと限られた人員では対応できないという現実を知った。
小売業をやってみて、なるほどと思うこともあった。特に衣服のサイズについて、シーズン初めや新商品の発売時はサイズも豊富にあるが、SやX Lサイズは色も数量も限られていてすぐ売り切れることが多い。人気のある商品はすぐ欠品する。
お店としては新入荷した商品は常に一番目立つ場所へそれを並べる。目立つので目に留めたお客様は買っていく人が多い。消費者として、お店の外から見て良さそうな商品を見つけたら、すぐ手に取ってみたほうがいい。明日にはその色とサイズは売り切れているかもしれない。
スタッフは最新の商品情報を持っている。次にいつセールが始まるかも知っている。もし好きなブランドがあれば、そのお店のスタッフとは仲良くなったほうがいい。いい情報を必ず教えてくれる。
小売店舗は一般的に、午前中は倉庫から商品を棚に補充したり、宣伝物を貼ったりといった作業を行う。中国の場合、モールは朝10時から夜10時までの12時間営業が普通だ。12時間営業のためスタッフは早番と遅番にシフトを分けて勤務させる。一日9時間拘束が原則なので、午後2時―6時は早番も遅番も店内にいることになり、この時間帯は集中して接客する。日本では勤務時間が中国とは違うだろうが、基本的には似たようなものだ。スタッフと仲良くなりたければこの時間帯に店舗を訪れてほしい。スタッフは少し余裕があるのであなたの話をもっと聞いてくれるだろう。
旗艦店が開店してから1日だいたい2万歩くらい歩いた。このため体重が5キロほど減り、体はキレッキレでとても健康になった。ただ、自分の時間がないため散髪へは行けず、髪が伸びてみっともなかった。
開店後私が毎日続けたことは、前述の階段掃除と、「いらっしゃいませ」の連呼だ。いらっしゃませは中国語で「歓迎光臨(ファンインクァンリン)」という。ブランドを代表する旗艦店なので、店内にはいつも歓迎光臨(ファンインクァンリン)という挨拶が充満していてほしい。旗艦店のコンセプト「いつ来てもお客様に優しいお店」を体現するのはこの歓迎光臨(ファンインクァンリン)という音なのだ。
このため私は店内での仕事中は15秒に一回これを言い続けた。ただ私の周りにいるスタッフは私に怒られると思ってか、私の近くにいるときだけ歓迎光臨(ファンインクァンリン)と言うのだが、私がいないとスタッフはこの掛け声を言わなかった。慣れないし恥ずかしいのだろう。
2019年2月中旬、中国の春節休暇も明けて旗艦店も落ち着いた頃、人事異動が発表され私は翌3月頭に上海本部への転勤が決まった。同時に、私の離任直前に日本本社の会長が杭州旗艦店へ出張し視察することとなった。会長の来訪が私の店長最終日となる。その最終日はたまたま3月頭の土曜日だ。土曜は1週間の中で一番お客様が店舗にいらっしゃる日で、スタッフの努力の成果を見せるには丁度いい。
再び店内売り場の精度向上の日々が続いた。清潔で見やすい売り場を作り上げること、歓迎光臨(ファンインクァンリン)を常に言うこと、店頭の商品が売れたらすぐ倉庫から補充すること、商品別売上データを読み込んで売れ筋商品をより多く店頭に出すこと、新米店長ができることは指示してスタッフに徹底した。手探りで店長の仕事を学んだので、学んだことは発揮したかった。
しかし歓迎光臨(ファンインクァンリン)だけは、私が近くにいないと誰も口には出さなかった。中国人スタッフにとっては、このような言葉を常に言い続けることには抵抗があるようだ。文化の違いと諦めるしかなかった。
ついに3月頭の土曜日、私の一番長い日が来た。朝から旗艦店の準備状況を再確認し、お昼に杭州国際空港で日本本社の会長を出迎え、そのままタクシーで杭州旗艦店へと向かった。店舗への到着5分ほど前に、私からチャットアプリでスタッフへ会長到着間近を伝えた。
タクシーを降り、歩いて旗艦店へ向かう。会長を先頭に大通りに面したメイン入口から入店した。すると店内のあちこちから歓迎光臨(ファンインクァンリン)の掛け声がとどろいた。そう、とどろいたのだ。間違いなく、一階のスタッフも二階のスタッフも全員が大声で掛け声を出している。あれ、普段はできないのに、今日はできるの?
それら掛け声のとどろきはまるで重厚な音楽を聞いているようだった。そして私は衝撃と感動で頭がぼーっとした感じになった。店内全体に広がる掛け声のとどろきは私を雲の上に連れて行ってくれた。店内で会長の後ろを歩きながら、私は一人雲の上を歩いていた。
「風の谷のナウシカ」でおおばば様が想像した、ナウシカがオームの群れに持ち上げられた時のシーンのように、ナウシカが雲の上を音楽に包まれて歩いているような感覚だ。なんとも不思議な、ゆったりとしたメロディの中で、浮遊するように歩く。周りにお客様はいるのだが、誰も他にいなくて、自分一人で漂っている。とても幸福で満たされた空間だ。
会長を旗艦店の隅々までご案内した。いくつか改善のご指摘をいただいたが、概ねはできているとも評価いただいた。その間もスタッフたちの歓迎光臨(ファンインクァンリン)の掛け声が響き渡っている。私にとって濃密な時間だった。
旗艦店のコンセプトに「いつ来てもお客様に優しいお店」を掲げたが、私本人としてはまだまだ足りないところだらけだ。例えば少なくない商品が欠品しているし、店内倉庫からの品出しも遅れがちだ。ただ、歓迎光臨(ファンインクァンリン)の掛け声は中国では無理かなと諦めていたので、小さなことだけれどお客様に優しいお店には少し近づけたかなと思えた。
その日の夜は会長を囲んで杭州市内での夕食会となった。店舗の主要スタッフも招待いただき会長との交流を楽しんだ。食事も終わり会長が乗車した車を見送った。旗艦店スタッフたちとの最後の時間だ。
私の店長としての講習滞在は約4ヶ月だった。思うようにいかないことだらけで、落第はしなかったものの合格点ギリギリの店長だったと感じている。最初はぎこちなかったスタッフとの関係も、なんとか毎日交流することで少しずついい方向に転換してきた。こうして店長最終日に思わぬ店頭での掛け声のプレゼントをもらうことができた。
各スタッフが目に涙を浮かべている。そこまで何かを伝えられたとは思っていないが、スタッフ達とは店舗成功のため濃密な時間を過ごすことができた。最後に一人ひとりと少しずつ話し、写真を撮影して私の長い1日は終わりを告げた。
今、私の手元に一冊のアルバムがある。旗艦店で過ごした時の写真をアルバムにして、後日私に送ってくれたものだ。旗艦店準備中に撮影した、不安そうに商品棚を見つめる私が写っている。よほど開店時のクオリティが心配だったのだろう。そして会長との夕食会の楽しそうな写真もある。スタッフ全員の表情にやり遂げた満足感を見て取れる。わずか4ヶ月だったが杭州でリーダーとしての達成感や未熟だった点に気づくことができた。
これらスタッフのうち、2名は彼女らの地元に戻って大型の店舗で店長をやっている。1名はすでに退職し別のブランドで店長になった。また、私が杭州で採用した開店時の新人数名と、別の店舗の開店サポートの時に顔を合わせた。ゼロから採用した人材が別店舗で指導に当たっている。人間の成長は時間の長さではなく、短時間でもどれだけ集中して何かを学んだかによるのかもしれない。
このアルバムを開くと、短かったけれど凝縮した杭州の日々を思い出す。50歳を過ぎて新たな青春を過ごしたような、そんな清々しい気持ちになれるのだ、あの長い一日のおかげで。
□ライターズプロフィール
John Ishii(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
現在上海に駐在中。大学で中国語を専攻、米国Thunderbird MBA。日系企業5社で30年以上中国市場開拓に従事、中国駐在累計15年目。得意分野は企業経営、マーケティング、異文化交流、中国語、英語。趣味は写真撮影、好きなスポーツはヨット。
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