イケおじは一日にして成らず《週刊READING LIFE Vol.197 この「音」が好き!》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
2022/12/12/公開
記事:青野まみこ(READING LIFE編集部公認ライター)
バスに乗るのが好きだ。
通勤には電車とバスを使っている。ターミナル駅まで出るために乗らないといけない満員電車は、朝の6時台だというのに人・人・人でぎっしりだ。こんなに詰め込まれたら自分が人じゃないみたいな錯覚にもなる。
あまりにも都心から遠すぎるが故に座れてしまうのだけど、それでも途中駅から乗り込んでくる人たちを見ているだけでも疲れてしまう。ようやく終点について満員電車から解放され、地上に降りて歩き出すとホッとする。生きているという実感が沸くくらい、人と人がぎっしりと詰め込まれている空間はしんどいものだ。
ここからバスに乗り換える。
山手線と違ってバスはそんなにしょっちゅう来てくれるわけではない。ラッシュ時に、乗客が多い路線なら5分間隔で出るのだろうけどそんな路線はそうそうない。私がいつも乗るバスは7時台だって8分とか10分くらいの間隔だ。だから大体停留所で少し待つことになる。
ゆっくりと、バスターミナルを旋回しながらバスがやってくる。停留所の停止位置にきちんと路肩ぎりぎりまで寄せて止めるのは、見ていても本当に難しいと思う。よくあんな大きな車を、ミラーだけを頼りに道路のふちまで寄せられるものだ。ぶつかって擦らないか、余計な心配をいつもしてしまう。
吹きさらしの風の中、今か今かとバスを待つのはこの季節結構寒い。そうしてようやくバスがやってきて乗車口のドアが開くのはうれしいものだ。やっと乗れる。やれやれ、暖かいバスの車内に入れる。
私はステップを上がってICカードをタッチするときにはいつも「お願いします」ということにしているが、この「お願いします」の言葉の次に見せる、その時々の運転手さんの反応というのも実はなかなか面白いのだ。
「お願いします」と言われる前に「おはようございます」と言ってくれる運転手さんはとてもエクセレントである。その次には「はい」とか何とか、お返事を返してくれる運転手さんが一番多いかもしれない。しかしそれと同じくらい多いのが、無言の運転手さんだ。
まあ、乗客1人1人にいちいち「おはようございます」だの「はい」だの言ってられるかよ! と思うのも無理もない。運転手はダイヤに沿って運転しているに過ぎないのだし、「おはようございます」と言えば給料が上がるわけでもないのだろうから言うだけ無駄って思っているのかもしれない。いろんな乗客がいる中、たまたま私が乗り込む停留所につく前に、いやな客に当たったのかもしれないよね。言って損するくらいなら言わない方がましと思われても仕方がないような気もする。あるいは運転手さんという職業は、余計なところに気を取られていては運転に支障が出るかもしれない、だから無言を貫くという人もいるだろう。
それでも無反応の運転手さんよりは、何か言ってくれる人の方がいいに決まってる。その日私が見た運転手さんは、それまでの誰とも違っていた。
まずいつものようにICカードタッチ時に「お願いします」と言った時の反応だ。彼はにこやかに微笑んで「はい、おはようございます」と言ってくれた。
へえ、こんな運転手さんもいるもんだ。今までにないタイプだな。私はその面白い運転手さんを観察した。彼は乗客1人1人ににこやかに接していた。特にイケメン、もとい「イケおじ」というか、めちゃくちゃハンサムってわけでもないけど、グレーの頭髪で、気のせいか表情も温和だ。よし、この人覚えたぞ。私はしっかりと彼の顔を記憶した。
それから何回か、彼が運転するバスに乗ることがあった。その運転手さんに当たるとなんとなく安心感があったし降りる時までとても気分がよい。そして彼は乗客にいろいろな言葉を掛けることがあった。質問するととても丁寧に答えてもくれる。タクシーと違ってバスの運転手の指名はできないけど、いつものバスの運転をしているということはずっと同じ営業所にいるに違いないから、またいつか引き当てるチャンスがあるというものだ。
そう思いながら毎日バスに乗っていたある日のことだった。いつものように始発のバス停でいつものバスを待っていた。ゆっくりとバスが近づいて、停留所の少し手前で止まる。こういうときは出発まで時間があるときだから運転手さんも休憩をするタイミングなのだろう。すると、あのにこやかなイケおじ運転手がバスから降りてきた。彼は停留所で待っている乗客に向かって言った。
「みんなちょっと待っててね! でも今って掃除の時間なんだよね」
一瞬何を言われているかわからなかったが、なんとなく脳内で翻訳してみた。たぶんだけど「自分はトイレ休憩するからみなさん待っててください。でも今はトイレのお掃除の時間だからちょっとお待たせするかも」なんだろうな。こんなこと細かくお客さんに言う運転手なんていないよ。私は笑いを堪えた。しばらくしてイケおじが戻ってきた。
「お待たせしました!」
そう元気にいうと彼は乗車口のドアを開けた。イケおじはいつものようににこやかに「はい、おはようございます」とか「ありがとうございます」という言葉を乗客みんなにかけていた。
「それでは出発します。揺れますので手すりやつり革におつかまりください」
そんなアナウンスとともにバスは出発した。
バスターミナルを出たバスは大きく右側に旋回して進む。そのままいくとT字路の大きな交差点に出る。周りを摩天楼に囲まれ、大きな歩道橋のあるこの交差点はすごい勢いでいつも車が流れている。信号が青になったらいつも右に曲がっていくのだけど、そのときだった。
「車の流れが早いので、間隔が空き次第発車します」
イケおじが言った。運転手だったら気をつけるべきポイントなんだろうけど、それを車内アナウンスで都度言うものなんだろうか? どういう訳か、この日のイケおじはとても饒舌だった。
「信号待ちと、空気の入れ替えをするため少し止まります。前と後ろの信号は、同じサイクルで動いていません」
なるほど。信号の変わるサイクルまでも見ているということなんだろう。
「乗り降りの位置が合わない停留所です」
すごいな、そんなところまで教えてくれるのか。「位置が合わない」ってなんのことだろう?
「ガードレールの切り口が古い停留所では、前か後ろかどちらかのドアに合わせます。植え込みや手すりにぶつからないよう気をつけて止めますが、お降りになる際は植え込みに気をつけてください」
なるほど、降りた時に降車口が植え込みの前になってしまっている可能性があるということだね。そういえばそんな状況でバスを降りることはあったな。降りたら目の前に植え込みがあって、どこから歩道に上がったらいいのか探す、なんてことだ。そういう状況にぶつかると「運転手が下手くそだから」と思ってたけど、実はこうして「乗り降りの位置が合わなかったからそうなっただけなんじゃないか。なんとなく謎が解けた気がした。
イケおじのこの日の「言葉」は、とても細部にわたっていた。とある停留所で少し長めに停車して、時間調整でもしているのかと思いきや、返ってきたのは意外な言葉だった。
「山手通りを境に車の流れが変わります。都心に向かう車が多いので交通状況がよく、停留所の到着時間と出発時間とが異なることがあります」
車の流れか。そうだよね、毎日バスに乗って、しかも何往復もしないといけないんだから、車の流れをプロとして熟知しているということだ。そこで得た情報をアナウンスすることで乗客にも実態を知ってもらいたい気持ちがあるのだろう。
運転手の仕事は毎日毎日同じ時間に乗客を安全に目的地まで運ぶことだと思っている。運転手しか知らない情報を普通はわざわざお客に伝えることもないのだろうけど、このイケおじは自分が客だったらどこに疑問を持つだろうか、どこに不満を持つだろうかと想像して、声かけが必要な場面ではきちんと提案をしているのではないだろうか。彼がアナウンスしてくれた内容はどれもよく知らなかった話ばかりだけど、その情報を必要としている人もいるのかもしれないことを前提に、何を話したらいいかを咄嗟に判断しているような気がする。
「そんなことはお客にいうことじゃない」ことでも、つい話してしまうご性格なのかもしれないけど、そこにはちゃんとお知らせする基準がある。また実際イケオジの話はみんな面白いのだ。世の運転手さんみんなが、イケおじみたいに親切だったらいいのに。そうすればバスの中でイライラする人も減るだろうし、有益な情報を得られるじゃないか。なんとなく乗っているものにもさまざまな危険があり、アクシデントだってある。運転中はさまざまなシーンに出会うのだろうから、その合間にトピックを選んで伝えてくれることができるのは、常にそのことを頭の中でイメージしていないとできないことだ。
イケおじだって最初からそんな性格だったのかどうかはわからない。わからないけど、日々の観察や体験が、彼をそうさせたのだろう。諺をもじって「イケおじは一日にしてならず」とでも言えばいいのかもしれない。今度もまた、イケおじの面白いアナウンスを期待しながらバスに乗ることにしよう。
□ライターズプロフィール
青野まみこ(あおの まみこ)
「客観的な文章が書けるようになりたくて」2019年8月天狼院書店ライティング・ゼミに参加、2020年3月同ライターズ倶楽部参加。文章と写真の二軸で勝負するライターとして活動中。言いにくいことを書き切れる人を目指しています。
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