メディアグランプリ

46歳からの本気の音楽


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:松浦哲夫(ライティング・ゼミ4月コース)
 
 
「わかりました。ではやってみます」
そのたった一言から私の音楽演奏生活は幕を切った。
 
私はかなり前からジャズが大好きだ。ジャズであればどんな楽曲でも好きだが、中でもトランペットやサックスを主体とする演奏をこよなく愛し、自室ではいつもジャズを流している。
 
中でも特に好んで聴くプレイヤーがマイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズといった数十年前に活躍したジャズの巨人たちだ。もちろん現役のプレイヤーも好きだが、やはり一昔前のプレイヤーの曲には心にグッと染み込む何かがある、と私は思っている。
 
私の好きな小説「ノルウェイの森」の一節にこんなセリフがある。
 
「現代文学を信用しないという訳じゃないよ。ただ、俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくはないんだ」
 
このセリフは小説のことを言ったものだが、音楽もこれと相通じる部分があるのではないかと思う。私は昔の曲も今の曲も好んで聴くが、時の洗礼を受けた昔の曲には、現代の音楽にはない時代背景のようなものが宿っているような気がする。
 
長年ジャズを愛好し、音楽を聴くことに関してはそれなりのキャリアを積み重ねてきた。特にジャズに関してはそれなりの深い知識を手にいれるまでに至った。そんな私だが、これまで自ら音楽を奏でるようなことはなかった。楽器を手にしたこともなく、楽譜も読めない。そんな私にとって楽器を手にして音楽を自ら演奏しようという行為は、私がこれまで積み重ねてきた経験とはあまりにもかけ離れたものだった。
 
きっかけは昨年末、かつて私の仕事仲間だった男性、野口さんとのサシ飲みでのことだった。彼は今でこそ建設会社の営業員として業務をこなしているが、かつてはアルトサックスプレーヤーとして舞台での演奏もこなす音楽の人だった。
 
野口さんが音楽活動を引退してから約10年の歳月が経過していた。当時の彼は音楽で生計を成り立たせることを目標として活動をしていたが、やはりその壁は厚く、やがて生活のために引退という道を選ばざるを得なかったのだという。昔を懐かしむように当時のことを話す彼に私は尋ねた。
 
「プロじゃなくても演奏はできるのでは? 趣味で楽しむことはしないのですか?」
私としては当たり障りのない質問をしたつもりだったが、どうやら彼にとってそれは禁忌の質問だったらしい。途端に寂しそうな表情を浮かべて彼は言った。
「もうサックスは吹けないんだよ。肺をやられちゃってね。何度も吹こうとしたけど、その度に咳き込んじまうんだ」
野口さんは手に持っていたお猪口の日本酒を一気に飲み干し、そのまま黙り込んでしまった。彼の中ではまだ音楽活動に未練があったのだろう。私は自分の不用意な発言を後悔したが、それでどうにかなるものでもなかった。
 
互いにしばらく言葉を発さなかった。私もどう切り出せばいいのかわからず、気まずい空気が流れた。そんな空気を打ち破ったのは野口さんだった。何かの天啓が舞い降りたかのように、彼は私に言った。
 
「君さ、ジャズが好きなんだろ? サックス始めてみないか?」
野口さんの思いつきに私は戸惑った。何を言っているのかもよく理解できなかった。戸惑う私を無視して彼は続けた。
「俺のサックス、かなり古いけど手入れは行き届いてるし、メンテにも出してる。君なら五千円で譲るよ」
「いや、あの……ちょっと待ってください。確かにジャズは好きですけど、楽器の演奏経験なんてないですよ」
「誰だって最初は初心者だよ。それにさ、サックスが五千円で手に入るなんて機会もうないよ。騙されたと思って始めてみなよ。絶対に楽しいから」
 
私がサックスを始める……その瞬間私の脳裏に浮かんだ光景、それは自分が小さなジャズバーの小さな舞台でサックスの演奏している姿だった。1人バーカウンターに座ってジャズに酔いしれているいつもの自分ではない。私の後ろにはピアノとドラム、トリオでのジャズセッションだ。私たちの目の前には、演奏に酔いしれている様子の数名のお客様。そんな最高の光景を想像し、私は少し戸惑いながらも決断した。
 
後日、私は車で野口さんの自宅を訪問し、その場で五千円を支払ってサックスの入った専用ケースを受け取った。野口さんの表情には愛用のサックスを手放す寂しさが表れていたが、どこか清々しさも感じられた。迷いを振り切った、そんな表情だった。私は野口さんに勧められるままにその場でケースを開き、サックスを手にとってみた。ズシリと重いアルトサックスだ。それなりの使用感はあったが、それは金色に光り輝いていた。これが私のものになる。私はそのことで頭がいっぱいになり、しばらくの間、アルトサックスを持つ自分の手が震えていることに気がつかなかった。
 
私の好きな言葉の1つにこんな言葉がある。番組プロデューサー、タレントのテリー伊藤氏の言葉だ。
 
「なめてかかって本気でやれ」
 
何かを始めるために、大きなきっかけや覚悟は必要ない。単なる思い付きでも気まぐれでもいい。ただし、やるからには本気で取りかかれ。そうしないと面白くないし、面白さに気づくこともできない。そんな意味の言葉だ。
 
その言葉通り、今私はアルトサックスの演奏に本気で取り組んでいる。毎晩車で人気のないところまで走って、車の中で練習している。上達を実感できる日もあれば、サックスの難しさに悩まされる日もある。まさに3歩進んで2歩下がる毎日だ。それでも確実に上達しているし、今はそれが楽しくて仕方がない。これから私がアルトサックスプレーヤーとしてどこまで行けるかは全くわからない。今はサックス演奏の楽しさを実感できればそれでいいと思っている。
 
現在私は46歳。この歳でサックスを始めたわけだが、もっと若い頃にサックスに出会っていれば、と思わないこともない。せめて30代で出会っていれば、今頃それなりのプレーヤーになっていたのではないか、と。一方で、この歳で出会ったからこそ、サックスに本気で取り組むことができているとも思っている。何かにつけてタイミングはとても大切だ。きっと私にとって46歳がサックスを始めるのに最も適した年齢だったのだろう。そう信じて今夜も夜空に向かってサックスを奏でようと思う。
 
今はまだ、あの日私の脳裏に浮かんだジャズバーの光景を実現するまでの道筋は全く見えてこない。私が50歳を迎えた時、どこかの小さなジャズバーでたった1人のお客様のためにアルトサックスを演奏することができたならば、これほど嬉しいことはないと思っている。
 
 
 
 
***
 
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院書店「東京天狼院」

〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F
TEL:03-6914-3618/FAX:03-6914-0168
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00
*定休日:木曜日(イベント時臨時営業)


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「Esola池袋店 STYLE for Biz」

〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-12-1 Esola池袋2F
営業時間:10:30〜21:30
TEL:03-6914-0167/FAX:03-6914-0168


■天狼院書店「プレイアトレ土浦店」

〒300-0035 茨城県土浦市有明町1-30 プレイアトレ土浦2F
営業時間:9:00~22:00
TEL:029-897-3325



2023-05-24 | Posted in メディアグランプリ, 記事

関連記事